文化祭初日

『売り歩きのスタイルで文集を販売するのはどうでしょうか?』


 話し声に笑い声、流行りの曲の陽気な調べ、人が行き交い歩く音にまみれて、時折マイクを通した上擦った声が聞こえてくる。客が来れば展示品の説明を静かに行うだけのこの教室では、外部の音がより一層際立って聞こえる。


『売ってる人に聞いてみたんですけど、申請書とか、いらないみたいなんです』


『そうか。わかった。ありがとう』


 こんなはずではなかったのに。まさかこんな事態に陥るとは。


 望み薄な申請書を書きながら、連絡を待つだけの時間が苦痛で仕方ない。


 思えば文化祭が始まる時から、様子が少し変だった。合宿で気が抜けたのか。もっと早くに気がつくべきだったのに。


 最後の文化祭。準備はなんとか間に合った。ただ、肝心の売り場がないとは。


 諸星の悲しそうな表情と、タケルの怒りを目の当たりにして、俺ができることの少なさに腹が立った。言ってくれさえすればいくらでもやるのに、そうしなかったのには、ユアなりの理由があるのか。


「き、きっと、大丈夫ですよ。申請書以外の方法も、ありますし……!」


「……ああ、そうだな」


 後輩に励まされることになるとは思わなかった。後輩の目にもわかるほど、自信のなさや不安が顔に出ていたのか。誰に向けるでもない苦笑いが漏れてしまった。


 入部当初はろくに目も合わせられず、初めて人と会話するようなぎこちなさがあったカレン。だから、生徒会室に一緒に行くとついて来たのは意外だった。


「あの……! ぶ、文芸部の冊子を、売り歩くのはダメなんですか?」


 こんな子だったか?と、堂々と意見をするカレンを目にして心底驚いた。一年から見た三年生なんてさぞ怖いだろうに。しかも相手は強面の青山だ。いや、もともと俺やユアや諸星に意見する時でも、おっかなびっくり声を発しているような子だったのに。それが、こんな相手にしっかり話している姿を見て、俺の方が声を出せなくなってしまった。


「ダメに決まってるだろ。もとのブースがないんだから、案内だってできやしない」


「き、今日、何組かの売り歩いている人を見ました。そ、その人たちは、申請はいらないって、言ってました」


 文化祭の準備が思い返される。十月の頭、文化祭の説明会にカレンを連れて行った。あの時のカレンは怖がっている様子で、その後の買い出しも緊張していたし、印刷室の申請にここに来た時も、そうだった。


 なのに今、青山に食って掛かるカレンの姿は、頼りなくて、おどおどとして、誰かの陰に隠れているような俺の知る後輩ではなかった。ほとんど毎日一緒に作業をしていて、カレンのこんな姿を見たことは一度もなかった。


 それは成長と言うのか、変化と言うのか。


「ありがとうございます!」


 小さな声で焦ったように話すカレンはいない。堂々と胸を張って、自分たちのために戦い、勝利を掴んだカレンが、目の前にいた。


 申請をしていないことで、無謀に思えた文化祭の参加。どうにかしたいと思いながら、心のどこかでは半ば諦めていたように思う。それを覆したのは、他の誰でもない、一番弱々しいと思っていたカレンだった。


「レン先輩、やりましたね! 明日はみんなで作った文集、出せますよ!」


 生徒会室を出て開口一番、カレンはそう俺に言った。その顔が本当に嬉しそうで、今まで見た中で一番輝いていた。満面の笑みで、自信に溢れ、安堵と明日が楽しみで仕方ないという顔。感情を真っすぐに表して、俺を見るカレンは眩しかった。


「ああ、そうだな。カレンのおかげだよ。ありがとう」


 カレンが準備を手伝ってくれなかったら、カレンが生徒会で発言しなかったら、もしかしたら実現しなかったかもしれない今年の、俺たち文芸部の文化祭。今朝のどうにもならない状況から百八十度変えてくれたカレンには、感謝してもしきれない。


「や、私はただ、あんなに頑張って準備したのに、とか、白木さんたちに文集届けたいですし……」


 はにかみながら言う姿は、文化祭の準備を共にした、俺のよく知る彼女の姿だった。その彼女をあんなに強くさせたのは、一体なんなのだろう。


「明日は忙しいから、今日は早く帰ろう。カレン、ありがとう。明日もよろしく」


 俺がそう言うと、また恥ずかしそうにしながらも、カレンは大きく頷いた。


 カレンにとって、波乱の連続になってしまった文化祭。先輩として、準備から当日まで後輩に苦労をかけっぱなしで申し訳ない気持ちにもなるが、同時にこんなに心強い気持ちにさせられるとは。


 いよいよだ、と気合が入ると共に、明日が来ることが少し勿体なく思った。

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