十月二十七日 放課後
「レン先輩……!」
放課後、ちょうど渡り廊下を歩いて行くレン先輩の背中が見えて、私は声を上げた。
レン先輩に連絡はしたけれどこのまま帰るなんてできなくて、クラスの片づけを終えて部室に向かおうとした時にレン先輩を見つけたのだった。
昼間の熱気とも、昨日までの準備の活気とも違う空気が学校を包んでいる。生徒の数はまばらだけれど、そこかしこに宝物が埋まっているようなワクワクする予感。その空気を肌で感じながら、レン先輩のもとに駆け寄った。
「カレン、お疲れ様」
「お疲れ様です。今から生徒会室ですか? 私も、行きます」
レン先輩は曖昧に微笑んで頷いた。迷惑だっただろうか。
だけどこの一ヶ月、文化祭のための準備をレン先輩に教わりながら、ほとんど二人で頑張って来た。その一番大切な場面で、レン先輩にだけお願いするのは、やっぱり変な感じがする。
「申請書、通るといいんですけど……」
「そうだな」
レン先輩が緊張しているところを、初めて見たかもしれない。無口なのはいつものことだけど、それだけじゃなく強張ったような表情をしていた。眼鏡の奥の瞳には不安な色が滲んでいる。
私もこれが最後の文化祭だったら、と思うととても苦しくなった。こんな形で終わってしまうなんて、そんなの悔しいに決まってる。私はまだ一年生だから、先があるのだけどレン先輩たちとの文化祭は今年だけだ。
「き、きっと、大丈夫ですよ。申請書以外の方法も、ありますし……!」
私に何かできないかと、思わず口をついて出たのは、そんな励ましのような言葉だった。
なんの根拠もないけれど、それでも、レン先輩の不安をなんとかしたいと思った。
「……ああ、そうだな」
さっきよりも落ち着いたような表情で、レン先輩は笑った。
「失礼します」
ガラリと戸を開けて生徒会室に足を踏み入れた。手前の部屋は様々な資料や、使い終わったステージ用の道具などが適当に積み重ねられて、散乱していた。
部屋の奥へと足を進めると、そこには生徒会長の中条先輩と、メグミ先輩、そして文化祭実行委員長の青山先輩が机に座っていた。
「お疲れ様です」
レン先輩が声をかけたのに合わせて、私もぺこりと頭を下げた。
「ほんとに疲れてるよ。今日だけじゃなく、明日もあるんだから」
疲れているからか、不機嫌な様子の青山先輩がとげとげしく言った。
「時間を取ってくれて本当にありがとう。これ、去年と同じブースの申請書類なんだけど……」
「だから無理だろ。テントも立ててないし、会場レイアウト自体が去年とは違ってるから入るスペースなんかないんだよ。それに申請書出せって、二年の部長に何回も連絡したのに、出さなかったそっちが悪いだろ」
青山先輩がまくしたてた。
ユア先輩に何度も連絡していたなんて知らなかった。これまでみたいに、ユア先輩ができないのなら、私にでもレン先輩にでも連絡してくれればこんなことにならなかったのに。そう思っても、もう遅い。
「それは、本当に申し訳ないと思ってる。だけど、今日のために冊子だって準備して、毎日文化祭のために頑張って来たんだ」
「そんなのはどこの部活も、クラスも、俺たち委員会のメンバーも、おんなじだろうよ」
バッサリと切り捨てられて、取り付く島もない。
そっと中条先輩に視線を向ける。
「悪いな。テントを出したり、ブースを新設するには先生たちの承認が必要なんだ。先生たちに確認してみたんだが、当日ではもう間に合わないんだってよ」
申し訳なさそうに中条先輩が言った。
やっぱり申請が通らないんだ。悲しくなって胸がきゅっとなった。
「どうしても、ダメなのか」
「しつこいぞ」
怒っている青山先輩は怖かった。私たちがなんと言おうと、受け入れてやるもんかという気迫さえ感じる。
ダメなものはダメ。わかっているつもりだけれど、頭ごなしに言われると身体も心も縮んで硬くなっていく。
きっと、私の声なんて届かない。誰も協力なんてしてくれない。怒られたり、疎ましく思われるくらいなら、自分から何もなかったことにしてしまった方が気持ちが楽だ……。
そうやって、波風立てずに生きて来た。気がつけば誰かと衝突しないように、それどころか認識されないように、自分を隠して、息をひそめて、頭の中の世界に逃げ込んだんだ。嫌なことや見たくないことがあれば、そこへと逃げ込んだ。ちょっとの間我慢して、嵐が過ぎ去るのを待っていればいい、と。
だけど今は、簡単に逃げるわけにいかない。
なんのために、準備してきたんだっけ。それを考えると、文芸部に入ってからのことが脳内を駆け巡る。
私の頭の中を認めてくれたレン先輩に会ったあの日から。ユア先輩に勧誘された時。タケルに好きと言ってもらえた日。シズカ先輩に優しくしてもらえたこと。みんなで過ごす時間の大切さ。経験したことのない出来事の連続。
デート後でのクラスの出来事、居心地の悪かった教室。隣にいることが当たり前になった人がいなくなってしまったこと、あっけなくなかったことになってしまうこと。知りたくなかった本当のこと、整理がつかないまま準備した毎日。顔も合わせたくないと思ったこと、こんなに頑張っているのにと思ってしまったこと。悲しさも、悔しさも、行き場のない感情たち。
そういったことが、私を、生徒会室まで連れて来たんじゃないのか。
「あの……!」
青山先輩がとても怖いけれど、言葉と一緒に一歩だけ近づいた。机を挟んだ向こう側にいる青山先輩を見つめて、勇気を振り絞って、なんとか声を発した。こめかみと手の平に変な汗が噴き出る。自分の頬に血液が集まって来て、熱い。
「ぶ、文芸部の冊子を、売り歩くのはダメなんですか?」
「ダメに決まってるだろ。もとのブースがないんだから、案内だってできやしない」
青山先輩からすぐに否定の言葉が返ってくる。そのせいで、耳まで熱くなる。息苦しさを感じるけれど、無理やり言葉をひねり出す。
「き、今日、何組かの売り歩いている人を見ました。そ、その人たちは、申請はいらないって、言ってました」
「それにゲリラ的に歩いて売った方が、プログラムにないサプライズを演出できて、来場するお客さんは楽しめると思う」
震える私の声の後に、レン先輩が援護をしてくれた。私の背後にいる、レン先輩の存在がとても心強い。
「私たちは冊子を売るわけですし、それは食べ物や飲み物みたいに腐ったり、衛生に注意が必要なものではないです」
「申請が必要ないものなら、もとのブースがあろうがなかろうが、どっちでもいいんじゃないのか? ルールが特に決められてないってことなんだから」
空気の吸い方を忘れてしまったみたいに呼吸がぎこちなくて、沈黙が訪れた部屋の中で私の心臓だけがバクバクと響いている。
私たちをまっすぐ見つめる三人の視線から逃げ出したくなってきた頃、青山先輩が口を開いた。
「だけど、俺はやっぱり反対だ。何か起きた時の責任はどうするんだ?」
腕組みをして険しい表情のまま、中条先輩に視線を送る青山先輩。
「でも、文芸部が一生懸命準備してきたことは知ってますよね? 申請のいらないことなら、私たちがわざわざ許可するようなことじゃないと思います」
メグミ先輩が淡々とした口調で意見を言った。キリッとしていて、日中のふんわりした雰囲気は微塵も感じられない、いつものメグミ先輩だった。
「そうだね~。申請のいらないことなら、俺たちは基本関係ないよね。ただ、プログラムには掲載してないから、何かあった時は俺たち生徒会が責任を取ればいい。古峰も言っていたけど、サプライズ演出ってことで。それなら、青山もいいだろ?」
「そうだが……」
「ひとつ見逃すと、他の期限を守ったクラスに示しがつかないのはわかる。だけど今年は、俺たちみんなが楽しくやれる文化祭にするって決めたんだから。適当に間に合わせの出し物じゃなく、しっかり準備してきた文芸部だから大丈夫っしょ」
中条先輩がフォローしてくれたことが、とても嬉しかった。
「……今年だけだぞ。来年はきっちり期限を守ってもらわないと」
渋々といった様子で青山先輩が言った。
「ま、来年はどうせ俺ら、居ないけど」
飄々とした様子で中条先輩が小さくつぶやく。青山先輩は、それを横目で睨んだ。
「ありがとうございます!」
許しが出たことが嬉しくて、私の口からは大きな声が出た。これでみんなが頑張って作った物語を、色んな人に届けることができる。頑張って準備したレン先輩の時間も報われる。急に新鮮な空気が肺を満たして、清々しい気持ちになった。
「じゃ、そういうことで明日楽しみにしてるね~」
ゆるゆるとした雰囲気に戻った中条先輩に送り出されて、生徒会室を後にした。
「レン先輩、やりましたね! 明日はみんなで作った文集、出せますよ!」
嬉しくて嬉しくて、自然と大きな声になってしまう。
「ああ、そうだな。カレンのおかげだよ。ありがとう」
本当に嬉しそうな顔で、レン先輩はそう言った。
「や、私はただ、あんなに頑張って準備したのに、とか、白木さんたちに文集届けたいですし……」
なんだか急に恥ずかしくなって、もごもごと口の中でしゃべった。
「明日は忙しいから、今日は早く帰ろう。カレン、ありがとう。明日もよろしく」
レン先輩の言葉が、私の心をフワフワとさせる。明日が終わった後のことがちらりと頭に浮かんで少しだけ苦しくなるけれど、それよりもレン先輩に認められたみたいですごく嬉しい。レン先輩だけじゃない、青山先輩も中条先輩もメグミ先輩にも、認めてもらえた気がした。
明日、無事に先輩たちと文化祭に参加できることも嬉しい。どんな人たちが私たちの物語を手にしてくれるのだろう。そんなことを考えると、ワクワクがどんどん膨らんでいく。
勇気を振り絞ってよかった。ちゃんと、言いたいことを言えた。
一体明日には、何が起きるのだろう。こんなに明日が待ち遠しいのは、初めてのことだった。
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