六月十日
「おはようございます」
「由良ちゃんおはよう! ……ん? なんかいいことあったの?」
「えっ、なんでですか」
「なんだか、いつもよりテンション高い気がしたんだけど~」
出勤してすぐに宇留野さんに勘づかれてしまった。普段通り、自分では精一杯平静を装っているつもりなのに。
「そ、そんなことないですよ」
「ウキウキしてるの、可愛いよ~。それに女の子の笑顔は、一番可愛くて最強な武器だし!」
「なになに? カレンちゃん、良いことあったの~?」
あとから出勤したシズカ先輩も会話に加わる。
「いやっ、なにも、なにもないですよ」
「ホントかなぁ?」
宇留野さんが、いたずらっぽい笑顔で私の顔を覗き込んでくる。その距離感のなさにドキッとした。
「ちょっと~、宇留野さん。カレンちゃんをあんまりいじめないでくださいよ」
シズカ先輩が割って入ると、ごめんごめんと悪びれもせず謝る宇留野さん。大学生ってみんなこんなふうなのかな。宇留野さんは気さくで、話しやすくて、仕事も早くて、すごくいい人だと思うけど、なんだかちょっと苦手。
「宇留野さんはレジ行ってください。今日はカレンちゃんにシュリンクかけるの教えるんですから」
宇留野さんのことをぐいぐいと売り場へ押し出すと、シズカ先輩が私に向き直った。
「宇留野さんはね、女の子大好き人間だから、気をつけるのよ」
「えっ」
「優しいし、気さくな人だけど、いっつも一緒にいる女の人が違うの。カレンちゃんも気をつけてね」
私は誰かから好かれるような人間じゃないです。と言おうと思って踏みとどまった。先週、村上タケルと付き合い始めたばかりだったからだ。あの日のことを考えると、恥ずかしさと嬉しさで顔が熱くなっていく。
この癖を直せたら、もっと普通の女の子に近付けるのだろうか。ふと、そんな考えが頭をよぎっていく。
「じゃ、やろっか」
シズカ先輩の言葉で我に返る。そうだ、今はバイト中だった。集中しなくちゃ。
促されて、シュリンカーという機械の前に立った。シズカ先輩が届いた漫画をビニールに入れる。それを受け取って、コピー機みたいなその機械に飲み込ませると、ぴったりキレイに包装されて反対側から出てくる。単純だけど、面白い。私は一目でこの作業が好きになった。
本屋さんで当たり前に見ていた光景は、こうやって誰かが作っている。あんなにたくさんの本があって、全部にシュリンクがかけてあって、それを一つ一つやった人たちがいて、それを思うとなんだか壮大な気持ちになってくる。
だって売り場の漫画には全てシュリンクがかかっている。それは、今までのスタッフさんたちがやってきた証拠だから。顔も名前も知らなくても、その人たちがやってきた仕事が残っているのって素敵。
ツルツルになった本たちをワゴンに載せて、シズカ先輩と売り場へ向かう。新刊コーナーへガラガラ押して、ピカピカの本を並べる。
この本を誰が買うんだろう。どんな人が買って行ってくれるんだろう。楽しみにしている人も、きっといるんだろうな。ヒーローものの本だから、男の子が好きそうな内容だな。
と、そこまで考えて、また村上タケルのことに思い当たってしまった。ヒーローものが好きで、それでお話を書き始めたって、前に言っていた。この前読んだお話も、ヒーローものだった。こういうのも、きっと好きなんだろうな。
「カレンちゃん? この本、好き?」
「えっ、なんでですか」
「顔が緩んでたから、好きな本なのかなーって」
シズカ先輩に言われて初めて、自分の頬が緩んでいることに気がついた。
「そ、そんなことないですよ」
慌てて否定して、本を棚に並べ直した。置いたそばから、中学生くらいの男の子が一冊手に取った。今日が発売日のこの本を、心待ちにしていたのかな。
ほっこりした気持ちで、男の子の背中を見送った。宇留野さんが手早くレジを打ち、小熊書店と印字された袋に丁寧に詰めている。こうやって、誰かの楽しみや嬉しいを直接見れるのは素敵だな。
「ワゴンを戻してくるね。棚の整理お願い」
「わかりました」
シズカ先輩はそう言うと事務所の方へと戻っていった。
私は本棚を順番に眺めながら、巻数がぐちゃぐちゃになっているものや、適当な場所に置いてある本を元の場所へ戻して行った。
あるべきものがあるべき場所に収まると気持ちがいい。私が通った後の本棚はピシッと綺麗に生まれ変わった本棚。私がこれから進む棚は、たくさんのお客さんを迎えたがんばった棚。
棚をじっくりと眺めながら、時々店内に目を移せば、学生を中心に色んなお客さんが本を選んだり、雑誌を読んだりしている。
私もつい最近までは、あっち側のお客さんだった。好きな漫画の新刊は発売日にチェックしていたし、高い詩集やアートの写真集はよく立ち読みして目に焼き付けて。お母さんからお小遣いをもらったときは、どの本を買おうかすごく悩みながら、何度も何度も同じ棚を行ったり来たりしたっけ。
それが今では、こっち側のスタッフとして本屋さんにいるなんて。
私の世界は何も変わらないと思っていたけれど、高校生になってから変わったことばかりが起きてびっくりする。
次の棚へ移った時、シズカ先輩がいた。
「こっちは終わったから、レジ行こっか」
宇留野さんと交代してレジ打ちを代わった。ここからだと、店内の様子がもっとよく見える。あの中学生は先週も来ていたっけな。あの男の人はきょろきょろしてるから探している本でもあるのかな。あの女の人は真剣な顔で雑誌を読んでいるな。
お客さんが来ない時に、ぼーっと店内を眺めているのも面白かった。
「あれ? 店長が売り場に来るなんて珍しい。どうしたんですか?」
事務所の方から大きな熊みたいな店長さんがのっそりと姿を現した。
「中川さんに、事務所にいると邪魔だから売り場に行ってくださいって言われちゃって」
「レジも私とカレンちゃんでできますから大丈夫ですよ」
「中川さんもね、もうちょっと優しく言ってくれればいいのに。『作業の邪魔になるからどいて!』って強く言われちゃって。棚整理は?」
「さっきやりましたよ」
「僕が店長なのに、やることないじゃない。いや、お店ってその方がいいんだけど、なんかちょっと寂しい……」
頭をポリポリとかきながら、ぽつんと言う店長さんが面白かった。
ハタキを手にしてぶらぶらとうろつく店長さんの姿は、本物の熊みたいだった。本の森の中をあちこち渡り歩く熊の店長さん。
そういう話も面白いかもしれない。詩以外のお話を書いたことがなかったけど、わくわくしたので心のメモ帳に忘れないように書き込んだ。
「店長さんって、本物の熊みたいですよね」
「のそのそしてるし、似てるよね」
クスクスと小声でシズカ先輩とおしゃべりする時間も楽しい。
バイトの時間が、とても楽しくなってきた。
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