六月四日 放課後

「カレン、部活行こ」


 今日初めて私にかけられた、村上タケルの声。ほんの少し上ずっている気がするのは、緊張しているからかな。なんて、自分にとって都合のいい思い違いが頭をもたげる。


「う、うん」


 とてもじゃないけど、顔を確認することができない。視界には手元だけを映して、黙って帰る準備をした。


 図書資料室を目指して並んで歩く。いつもなら弾む会話が、今日はひとつもなかった。


 廊下に残っている生徒や、すれ違う生徒たちの楽しげな会話だけが耳に届いてくる。いつもはこの時間、何を話していたんだっけ? 何か話さないと、気まずい。だけど、そう思えば思うほど、何を言っていいのかわからなくなっていく。


「ゴミ捨て行った時みたいだな」


 村上タケルがぼそりと呟く。村上タケルにゴミ捨て当番と言われて、連れ立って歩いた四月のあの日。


「その時は並んでは歩かなかったね」


 村上タケルは私の少し前を歩いていた。私なんかと一緒になってしまって、村上タケルは可哀想だなとか、他人事で同情的な気持ちになったっけ。


 キャッチボールは続かない。私が投げたボールはどこかへ消えてしまったみたいで、沈黙だけが横たわる。


 永遠につかないかと思えた図書資料室の扉が見えた時、心からホッとした。


「お疲れ様です」


 ガラリと扉を開けると、先輩たちが定位置で待っていた。


「お疲れ~。今日も二人の顔が見られて嬉しいよ」


 ユア先輩が笑顔で出迎えてくれて、ようやく息が吸えた。こっそりと深呼吸をしてみる。大丈夫。ユア先輩の顔を見ただけで、重くのしかかっていたなにかが浄化される感じがした。段々と気持ちが落ち着いてくる。


「カレンは今日は詩、書く? おしゃべりする?」


「書きます」


 ふうっと息を吐いて、カバンからクリアファイルを取り出す。


「今日も授業だるかったっすよ~」


 村上タケルがいつものように今日の他愛ない話をユア先輩とし始める。


「今日は調理実習があったから、私は楽しかったよ」


 相槌を打っていくユア先輩。何も変わらない放課後の光景。私の居場所に安堵感を覚える。このゆるくあたたかな流れの中に自分も存在して、受け入れてもらえることの安心感。


 ふと視線を感じて見ると、レン先輩がこっちを見ていた。縁なしメガネの奥にはいつもの微笑みはなかった。無表情に近い表情の向こうには、どんな気持ちが潜んでいるんだろうか。


 分からないことだらけだなと思って、静かにため息をついた。


 シズカ先輩を見れば、児童書を読みふけっている。私の視線に気づいたのか、そっと本から目線を上げて、うっすらと微笑んでくる。


 先輩たちは、私と村上タケルの行方を気にしつつ、触れないように普段通りを普段通りにしてくれている。「してくれている」なんて思うのは私の思い上がりなのかもしれないけれど、だとしてもありがたかった。


 一文字も書ける気はしなかったけれど、私はまっさらなルーズリーフと向き合った。



―――――



『あなたの本音が知りたいです

あなたの心の中を見せて欲しいです


私のことは気にしないでください

私の心を覗いたら きっと傷つけてしまうでしょう


あなたの瞳の強さに 足がすくみます

鋭い光を称えた瞳から 目が離せなくなります


心もとなく 足元覚束なく

私の揺れ動く心が伝わってしまいやしないか怖いです


何も言わない時間が心地よかったはずなのに

何も聞こえない時間が苦痛に感じるのはどうしてでしょうか


私は天高く浮かび上がったら

そのまま 溶けてしまえばいいと思っています』


「カレン、そろそろ帰るよ」


 言葉にならないモノをむりやり書きつけた詩は、書き直した後が幾重にも重なって真っ黒だった。


 ボールペンでぐりぐりとえぐったところがボコボコと歪に凹んで、点字みたいだった。


 これが、私が今できる限界。この溝程度の高低差。


「はい」


 後ろ髪惹かれるものの、クリアファイルをカバンにしまって図書資料室の外へ出た。


 窓ガラスから差し込む光からは夏の強さを感じる。梅雨に入る前の最後の輝きのような美しさ。


 こんなふうに太陽の時間が長くなって、月の時間が短くなるからきっと考える時間が足りないんだ。


 考え事をするのはいつだって夜だった。昼間は学校があるから、自分の世界に引きこもるのが精一杯で考えてる余裕なんかなかった。


 陽だまりの中で落ち着くこともなかった。光があるところにはいつだって自分の居場所はないって思って来た。それでもいいと思っていた。


 いざスポットライトが当たった今、私は私という舞台の上で何を表現したらいいのだろう。


「また明日ね~」


 先輩たちと別れを告げて、村上タケルと二人になる。


 代わり映えしない通学路が歩いても歩いても伸びていくような、進んでも進んでも終わらないような錯覚に陥る。


「なんか、ごめんな」


「えっ?」


 ひどく気まずそうに、村上タケルが謝ってきた。


「俺が、先週、あんなふうに言わなけりゃ、今こんなに気まずい思いもしなかっただろうし。カレンにとって俺は友達だから、言うべきじゃなかったんだろうなとか、色々考えた」


 いつもは伸びている背筋が猫背に丸まって、申し訳なさそうに身体を縮めている。身体を縮めたって、高い身長は隠しようがないのに。


「そんなこと、ないよ。すごく、嬉しかった」


 しょんぼりとしている村上タケルを励ましたくて、どうにか絞り出して言った言葉がそれだった。


「へへ、そっか」


 照れ臭そうに頭をかいて、笑顔を浮かべる村上タケル。見慣れたその顔に、こちらも頬が緩んでしまう。


 どうして村上タケルの表情に、私はつられてしまうのだろう。


「村上くんが笑うと、私も笑っちゃうの、なんでだろう」


 言いながら村上タケルの顔を見上げたら、目が合った。自然と、私たちの足も止まる。


「それは、OKってことでいいの?」


 私の耳には村上タケルの声しか届かない。世界に、温度も、色も、音も、誰かの存在も消えてなくなって、私たちだけがぽっかり浮いている。


「好きって、言ってくれて、嬉しい。村上くんと一緒にいるのも、楽しい。でも、私は誰かにそう思われたことがないから、どうしていいか」


「なら、俺と一緒にいたらいいじゃん」


 私の言葉に被せるように話す村上タケル。言われた言葉が、私の中に染み入って、嬉しさに変わる。否応なく心が躍って、舞い上がっていく気持ち。人から向けられる好意が、こんなに甘いなんて。


 頭を縦に振ることしかできない。


 頭の中には言葉が溢れているのに、どれも声にはならない。感情をそのまま渡せたら、分かってもらえるのかもしれないけど、そんな方法を私は知らない。


「へへへ、よかった」


 緊張の糸が緩んだ音がした。


 子供たちが走り抜けていく。きゃあきゃあという楽し気な声。商店街を流れる、時代遅れのテーマソング。人が地面を踏みしめる音や、ビニール袋がガサガサと鳴る音がする。


「よろしくな、カレン」


 恐る恐る顔を上げて見ると、照れて、それ以上に嬉しそうな最上級の笑顔があった。今までに見たことのない、嬉しそうな顔。人って、こんなに嬉しそうな顔ができるんだ。


 そうして私も嬉しくなる。私の言葉や仕草にこんなに喜んでくれる人が、目の前にいる。


 帰宅までの短い道のりは言葉少なだったけど、放課後に感じた気まずさではなかった。


 この日、私は村上タケルと付き合うことになった。

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