六月四日 日中
「おはよー」
「おはよ、昨日の見た?」
「見た見た、笑えた」
「もう朝だよ」
「朝なんて人の活動時間じゃないよ」
「一限目なんだっけ?」
「そろそろ時間割覚えてもよくない?」
朝の教室はだるさと眠気と人の声でいっぱいだった。誰もが誰かとおしゃべりをしている。衣替えも済んで身軽になったのに、私の足取りは重かった。
静かに息をひそめて、誰にも見つからないように自分の席を目指す。私は教室の景色の一部。誰にも声をかけられることはない。目には入っているかもしれないけど、映ってはいない空気。
ちらりとミコを見れば、ずっと昔からそうだったみたいにファッションやコスメの話を柳崎さんたちとおしゃべりしている。今まで気がつかなかったけれど、うっすらと化粧もしている。もともと白かった肌はもっと綺麗に見えるし、目元だって華やかな印象になっていた。
きっと、今のミコなら、告白されたって上手に切り抜けられるんだろうな。もしかしたら、彼氏とかいるのかもしれない。話さなくなって、連絡も取らなくなって、私の知っているミコでは、もうないんだろうな。
寂しいような、安心するような、正反対なのにケンカしない気持ちが私の心に渦巻く。ミコと一緒に話したことや、私の頭の中を共有したこと、私の詩を褒めてくれたミコの顔が思い出される。懐かしいというほど昔のことでもないから、どう扱っていいのか余計に見えなくなる。
教室を見渡してみたけれど、村上タケルはまだ来ていないようだ。ホッとするような、残念なような、これもまた正反対の気持ち。村上タケルが仲良くしているグループは、教室入り口の加瀬シュウジの机に集まっている。クラスの中心になるような雰囲気ではないけれど、人当たりが良くて縁の下の力持ちタイプのグループ。
クラスには見えないレッテルや役割やポジションが確かにあって、無意識に誰もがその役を演じているように感じる。
私は……。
頭を振って、昨日先輩たちと話したことを思い返してみる。相談してみたものの、答えはまるで出なかった。今日どんな顔をして村上タケルに会えばいいのか、今この瞬間も分からないでいる。いっそ学校を休んでしまおうかとまで思ったけれど、休む勇気もなくて重たい足を引きずって登校した。
愚痴を聞いてくれる友人も、匿ってくれる友人もいない私の話し相手は、私だけだ。堂々巡りの禅問答。
告白されて、答えを保留にして、また顔を合わせる時、ふつうはどんな気持ちで、どんな行動を取るのだろう。
「おはよう」
村上タケルの声がした。反射的に声の方を向くと、加瀬シュウジの机を囲む輪に入っておしゃべりをしている。私の前の空席を見やる。ここにカバンを置きに来る様子はなさそうだ。
先週まで気にも留めなかったのに、村上タケルの声だけが、教室の喧騒から浮いて私の耳に入ってくる。昨日見たテレビの話や、新商品のお菓子の話、ゲームの話なんかで盛り上がっている。会話や、リアクションで楽しそうな様子が手に取るように分かる。
文芸部にいる時とはまた違う笑顔の村上タケル。
あの人は、私の一体どこを好きになったのだろう。
キーンコーンカーンコーン―――。
予鈴が鳴る。慌てて机に突っ伏した。寝たふりでしかないのは村上タケルにも分かってしまうだろうけど、それでも今はまだそっとしておいてほしかった。
―――――
昼休み。静かな図書室の中で、私は定位置のソファに沈み込んでいた。日に焼けて白っぽくなった赤いベロア生地を、意味もなく撫でさする。座ってきた人たちのクセがソファについて、凹んだり生地が寄ったりしている。顔も名前も知らない先輩たちが、どれだけこの場所に座ったんだろう。私の重みも、歴史になるだろうか。
私の座っている所から見える風景。四人掛けのテーブルとイス、整然と並ぶ書架、窓から差し込む日の光。お話を読んだり、勉強をしたり、他愛のない雑談をしたり、きっとそんな光景があって、当事者たちが見ていた景色を私も今、見ている。
その人たちの中には、私みたいに思い悩んでいた生徒もいたはずだ。
そう考えると、少しだけ気持ちが楽になってくる。先人たちは、どうやってこの状況を打破していったんだろう。
教室にいて落ち着かないのはいつものことだけれど、自分の世界に没頭できないのは初めてのことだった。うまくピースがはまらずに内側へ潜っていけないのとは訳が違う。
今日はシズカ先輩が定位置にいない。三年生だから、進路のことや勉強が大変だって言っていた気がする。でもシズカ先輩が今ここにいたら、村上タケルのことばかり話してしまうだろう。同じ話を何度も、何度も。
向こうの六人掛けのスペースにいる二年生の先輩は、変わらずに宇宙関係の参考書に囲まれていて、それだけでホッとする。
つい数日前までは同じ場所にいたのに。
詩を書き溜めたクリアファイルを読み返しながら、今度はレン先輩のことを考える。
レン先輩に初めて会った日。私には何か素敵なことが起きる気がした。心臓が訳もなく高鳴って、ただ姿が見えただけで幸せな気持ちになった。私の人生で初めて抱いた感覚だった。私の人生で初めての感情や気持ちをたくさん発見した。
そういえば、あの日も村上タケルと一緒だったんだ。村上タケルとゴミ捨て当番になっていなければレン先輩に会えていなかったのかもしれない。
村上タケルのことを考える。屈託なく笑う顔や、少年みたいにキラキラと輝く目、教室で見せるのとは違う表情の数々。いつの間にか名前を呼ばれていたこと、いつの間にか一緒に帰るようになったこと。
理由を聞いたら、このモヤモヤも晴れたりするのだろうか。今まで誰からも好きになってもらえなかった私の、どこを好きになったんだろう。
それが分かれば、この気持ちに整理がつけられるだろうか。
でもどうやって聞いたらいいんだろう。「私のどこが好きなの?」なんて、自意識過剰すぎじゃないかな。告白されて、舞い上がってることがバレてしまうなんて、恥ずかしすぎる。実際そうなのだけど、知られたくない。
同じことばかりを、ぐるぐると考えている。一日中、村上タケルと顔を合わせないようにつまらない努力をしてきたのに、このままだと何の解決策もないまま、放課後になってしまう。
図書室の時計を睨みつけながら、いつまで経ってもウキウキと浮かれてしまう自分の心と、そのせいでマトモに考えられない自分の頭を嘆いた。
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