五月九日 昼休み
『わたしはまだ何も知らない
あなたがどこに住んでいるのか
どんなことに心を動かされるのか
わたしはまだ何も知らない
あなたがどんな人生を送ってきたのか
何がその心に渦巻いているのか
わたしはまだ何も知らない
あなたの名前を呼んでみたい
世界にどんな色が溢れるだろう
わたしはまだ何も知らない
あなたが好きなものを一緒に好きになりたい
嫌いなものは遠ざけて
わたしはまだ何も知らない
まだ何もはじまってはいない』
ゴールデンウィーク中、毎日あの図書館に通ったけれど名前も知らないあの先輩に会うことはできなかった。次に会ったら頑張って名前を聞こうと思っていたのだけど、そう簡単にはいかないらしい。
名前を聞こう、だなんて、自分が行動を起こそうとしていることに私が一番びっくりした。学校以外の場所というのが大きいのかな。でも多分、あの先輩だから、なんだと思う。私が私でないみたい。結局、会えなかったから何もなかったのだけれど。
大好きなイチゴミルクを飲みながら、図書室の定位置で書いていた。もともとお気に入りだった緑色のペン。これを使うことがもっと好きになった。
頭の中では色んな恋愛を繰り返してきたけど、現実の恋にはこういう小さなことにも意味がついて回るなんて知らなかった。
今日も図書室は私にとっての安全地帯だ。ゴールデンウィーク明けの、自慢大会にも似た話でざわつく教室の端っこにいるのは窒息しそうになる。
誰にも邪魔されず、それぞれのテリトリーを守りながら存在しているだけの場所。面倒くさい挨拶や、しがらみや、気遣いなんて一切ない自分たちだけの個別世界。
居心地がいいって、こういうこと。
「二週間後に」
今日の図書委員は無愛想な三年生の男子生徒。最低限のことしか話さず、その無表情の下で何を考えているのか全く見当もつかない。
出て行く生徒と入れ違いで、また新たに生徒が入ってきたのを目の隅で確認した。パタパタと足を鳴らして歩く様子は、少しイラついているようにも思えた。そう感じると、私の心にも、もやもやした気持ちが広がっていく。
誰かがイライラしている様子や、怒る前のあの冷たい炎が苦手だ。その人と自分は何の関係もなくても、淀んだ空気が入り込んできて私の心も汚していく。汚されたところで、私には抵抗する術もないわけで、イチゴミルクのストローをガリガリ噛みながら嵐の訪れを待つしかできなかった。
「先輩…! 何度言ったら覚えてくれるんですか、今日ミーティングですって!」
あの二年生の先輩だった。かなり抑えた声だったけれど、怒っている。ううん、呆れている、の方が近いかもしれない。怒りと、呆れと、ほんの少しだけ面倒くささ。
「あら〜、そうだったかしら」
図書室内にピリッとした空気が走っているにも関わらず、三年生の先輩はおっとりと悪びれもせず答えていく。そのギャップに、どっちつかずの私の心が拠り所を失ってペンを走らせる手が止まってしまう。
「たまには私抜きでもいいじゃない」
「そういうわけにはいかないです。そもそも部員が少ないんですから」
「新しい子が入ってくれるといいんだけどね〜」
私とほんの数メートル離れているだけの場所で交わされる会話は筒抜けだ。もっとも、静かな図書室内じゃどこにいたって聞こえると思うけれど。
「じゃあ勧誘も一緒にやりましょうね!」
ニコニコと有無を言わさぬ様子で返す二年生。この二年生の先輩が実質的な部長なんだろうか。というか、なんの部活なんだろう。おっとりした雰囲気の三年生と、自分で動いていける雰囲気の二年生。端から見ていると正反対すぎて、なんのイメージも浮かんでこない。
昼休みまでミーティングしているっていうことは、結構活発に活動している部活なのかな。運動部とかで次の試合や練習内容を生徒たちで考えるものなのかな。文化部だったらどうだろう。
運動部にしろ、文化部にしろ、誰かと過ごさなければならない時間が増えるのは私は嫌だった。自分の神経をすり減らして、変なことを言わないように、みんなの邪魔にならないように、空気を壊さずにその場にいることが苦手だったから。それに、自分がどんなに気を遣って頑張ったところで、私という異物は輪を乱すに決まっている。
無意識に噛み続けていたストローが、口の中でぐにゃぐにゃと舌に触って気持ち悪い。呼吸がうまくできていないことにも気がついて、ゆっくりと音が聞こえないように深呼吸をした。
「ねぇ、あなた一年生?」
頭上から声が降ってきて、ビクッと身体が反応した。ビックリしたついでにイチゴミルクを倒し、淡いピンクに染まった白が机に小さく水たまりを作った。
「えっ、あっ、ごめんなさい」
その一瞬で私はパニックになってしまって、よく分からない言葉が口をついて出た。
「大丈夫!? 驚かせるつもりなかったんだけど、びっくりさせちゃったかな」
そう言いながら先輩はさっとハンカチを取り出して、イチゴミルクを拭き取っていく。この世に生まれたばかりのピンク色は、瞬く間に消えていってしまった。
「そんな、ハンカチ、汚れちゃいますから」
「いいって、いいって。スカートとかノートとか濡らしてない?」
差し出されたオレンジ色の何か模様が描かれたハンカチを受け取りながら答えた。
「大丈夫です。これ、あの、洗って返しますから」
「いいよ、あげるあげる」
「でも……」
「あ、じゃあ一つお願い聞いてもらおっかな! そのハンカチは返さなくて全然いいんだけど、今日の放課後図書資料室に来てくれる?」
断れない。けど、私は一体何をさせられるのだろう。怖い。恐怖で足がすくんでしまう。
「私、二年の華谷ユア。こっちは三年生の諸星シズカ先輩。私たち、文芸部なんだけど部員が少なくて困ってるんだ。だから、試しに遊びに来てよ!」
どうかな?と私を見る顔が、純粋な少女の顔で思わず見とれてしまった。くるくると表情や雰囲気が変わるユア先輩。私が断れるはずもない。
コクコクと首を振って肯定の意思を表した。こんな人になってみたかったなぁと思うその本人を前にして、今更ながらに恥ずかしさで言葉が出なかったのだ。
「ありがとう! 放課後、図書資料室で待ってるね。……あ、名前、教えてくれる?」
「…一年、由良カレン、です」
「カレンの名字と私の名前、似てるね! なんだかカレンとは仲良くなれそうな気がして、楽しみだな」
本当にウキウキとした顔で言われてしまって、疑いたい私の心がぐらぐらに揺れていた。言葉も感情も、素直にまっすぐに出されてしまうと、自分の醜い心が際立つようで苦しい。苦しいのに、同じくらい大きな憧れも抱いてしまう。
黙って首を縦に振っている自分にまた驚いた。それを見たユア先輩は満足そうに笑って「じゃ、放課後に」と手を振りながら、諸星シズカ先輩を引きずって図書室を出て行った。
また静かな図書室の空気が補充されていく。でも、私に入ってくる空気は今までのそれとは違っていた。ユア先輩、諸星先輩、文芸部、オレンジのハンカチ。
大きな期待は自分を苦しめるだけの足枷になる。そう頭ではよくわかっているのに、自分に起きたことがまるでおとぎ話の冒険の始まりのようで、楽しくなってしまった。
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