五月三日

『黄昏時に 物思いの顔がありました

西日の赤さが あなたを染め上げていました


照らされた四肢が 影を作って踊っています

ああ あなたのその影で眠りたいなどと望む私は誰でしょう


しぶとく居座る太陽の眼差しに

目を細める姿が幻想的で 声も存在も遠くの彼方へ


他の存在など あなたの前ではないに等しい

どうして気づいてしまったのでしょう


茜色に全てが濡れるひとときに 落ち行く光のその中で

私は心を奪われました


おとぎ話の世界よりも

こんなに美しく見えるのはなぜでしょうか


私はまだ知りません

今はただただ あなたに耽(ふけ)るばかりです』


 人間の音があちこちでしている。それは気配と言ってもいいと思うのだけど、音としか形容できない個体を主張するもの。この図書館は学校のそれとはスケールがまるで違う。開放的過ぎて、あまり好きになれないけれど、私にはここしか来る場所がない。


 忙しく過ぎていった四月から解放された五月、ゴールデンウィーク。ようやく息が吸えたような気になる。


 大学に併設された大きな図書館。建物の前面はガラス張りになっていて、力いっぱいその光を室内に届けている。入ってすぐのロビーは三階まで吹き抜けになっていて、図書館特有の鬱屈した空気を微塵も感じさせない。


 ロビー右手にある掲示板にはベタベタと色とりどりの安い手作りチラシが張り巡らされ、『図書ボランティア募集』『出張読み聞かせ、承ります』『一緒に本を作りませんか?』『本屋のアルバイト募集。学生可』などなど、本に関するボランティアやアルバイト、サークルグループの情報で溢れている。


 掲示板の向こう側にはオープンスペースがいくつか設けられていて、ミーティングや授業を行っている大学生などがいて賑やかだ。喧騒というほどではないにしろ、あの人と人が関わり合いになっている声は、私の苦手意識を刺激する。


 入口からなるべく遠くへ、左手のカウンターのその先へ足を運ぶ。声は遠ざかっていくのに、私と同じ人たちの存在感や密度が、ここは自分の居場所だ他所へ行けと言ってくる。


 どこにいたって、肩身が狭い。書架と書架の隙間に置かれている一人分の勉強机は、どこもいっぱいで、私を受け入れてはくれなかった。上の階へ行こうかとも悩んだが、結局冒険する気にもなれずに、いつも一階だけで済ませてしまう。


 今日も一階の、入口から一番遠い小窓付近にある八人掛けのテーブルへ荷物を下ろした。右端の角に陣取り、カウンター側を向いて座る。斜め掛けにもできる無地のトートバッグから、ノートとメモ帳、ペンケースを取り出して広げる。


 メモ帳に書き殴られた単語はどれも、あの日村上タケルとゴミ捨て当番になった時に言葉を交わした先輩と、紐づけされている。


 これが恋だなんて、認めたくなかった。名前も知らない先輩との会話や、表情の一つ一つ、そして私の心臓の音と動き出す感情が逐一思い出されて苦しい。


「知らなければよかった」


 口の中でぼそりと言葉が鳴った。


 なめらかな手触りのテーブルを意味もなくなでる。薄茶色の木目が綺麗に見えている重厚感のある机。この机の上で、一体どれだけの人たちが勉強したり、物語の世界へ思いを馳せたりしたのだろう。べったりと机の上に身体を預けると、ほんの少し冷たくて気持ちが良かった。


 顔を横にして頬を机につけたまま、考える。あの先輩に会う前と後の自分を。現実に微塵も興味がなかったのに困ったな。自分では叶えられるはずもない気持ちを、分不相応にも願ってしまう。願ってしまえば、行動しなくちゃいけなくなる。行動するということは、みっともない姿をたくさんの人に見せるということだ。どう足掻いたって、柳崎さんやミコのようには私はなれない。


 ふと、図書室で見かけたあの二年生の先輩を思い出した。あんな人だったら思い悩むことなんて、一つもないのだろうな。こんな私でさえ、変われる気がしてしまうほどの魅力を持った人。どうして、そんなふうに産まれなかったのだろう。


「だから、書くんでしょ」


 今度は意識して呟く。でも他人には聞こえないほどのボリュームで。私は私を変えることができない。だからせめて、物語の中では私が私をお姫様扱いしてあげなきゃ。


 よし、と勢いをつけて机から身体を起こした。


 カシャ―――。


 その拍子にペンケースが手に当たって床へと落ちた。絨毯が敷かれているために大きな音は立てなかったものの、取り出しやすいよう全開に広げたペンケースの口から、消しゴムやペンたちが飛び出してしまった。


 急に恥ずかしくなって、急いで拾うもののお気に入りの緑色のペンが見当たらない。自分の居た机や椅子の下を見渡してみても見つからない。そんなに勢いつけて落ちたかな。


 ひとまず拾ったケースを机の上に避難させて立ち上がると、目の前にあの三年生の先輩が立っていた。いつから近くに居たんだろう。全然気がつかなかった。


「きみ、これ」


 その手には緑色のペン。私のペンが先輩の右手に乗っていた。


「あ、ありがとうございます」


「なんだか、きみの持ち物をよく拾うね」


 細身の黒いパンツにゆるいシャツの白が鈍く光る。私服だから当たり前かもしれないけど、制服姿よりもラフな格好にドキッとした。


「覚えていてくれたんですか」


「物覚えはよくない方なんだけどね」


 そう言って笑う顔が少し子供っぽく見えて、またドキリとする。心臓の音がうるさくて、この静かな図書館内では先輩に聞こえてしまうんじゃないかと心配になった。


「よく来るの?」


「あ、ときどき」


「そう、じゃあ今までも会ってたかもしれないね」


 先輩もここをよく利用するんだ。先輩が話す言葉の一つ一つが、私の心のメモ帳に刻まれていく。


「きみの書いた物語も、そのうち読んでみたいな」


「そんな、人に見せられるようなものじゃないです」


 この恋愛物語のモデルが先輩だと分かってしまったら、絶対に引かれる。それだけは死んでも嫌だった。


「じゃ、バイトがあるからまたね」


「え、あ、ありがとうございました」


 軽く右手を上げて微笑む顔が眩しかった。


 私だけに、手を振ってくれた。笑ってくれた。学校以外の場所だったのに、制服でもなかったのに、覚えていてくれたことがこんなに嬉しいだなんて知らなかった。


 まだドキドキと大きな音を立てている心臓に手を当ててみる。返してもらった緑色のペンを眺めながら、どうしようもない気持ちに襲われた。


 先輩の一挙手一投足が目に、頭に、耳に焼き付いていく気がする。これが恋焦がれるということ。自分ではコントロールできない感情の中に居ることがこんなにも苦しく、そして幸せに思うなんて、私は知らなかった。


「あ、名前聞くの忘れた」


 先輩の名前もまだ知らないのに、こんなに好きだなんておかしい。そう結論付けても、私の口元はだらしなく上がってしまうのだった。

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