四月二十七日

『手が届きかけた夢は 遠くどこまでも逃げていく

あなたの心の内側のようで ぼくはその宇宙に飲まれてしまいたい


どうしても思い出す希望という名の幻想 そんな光なんて知らなければよかった

なんて微塵も思えないことを簡単に口にするぼくだから


彼方へ消えたあなたの亡霊ばかり 夢に見てしまうんだろう

いつか見た夜空の中に浮かぶ星の頼りなさをふと思い出すよ


その暗闇の中であなたは何を見つめて もがいていたのだろう

そのほんのひとかけらでもいいから ぼくに預けてほしかった


一緒に噛んで砕いて飲み下せたら 何かが変わったかもしれないと

今はそう願うことでしか ぼくはぼくでいることができないんだ』


 思わず溢れそうになる涙を必死でこらえて、袖でぐいと拭き取った。深呼吸をひとつ、ゆっくり吐いてそっと顔を上げると、教室の喧騒が戻ってきた。


 帰りのホームルーム前のざわつき。部活や放課後への期待感やはやる気持ちが、私の体にピシピシと当たっている。頭の中の世界とこの現実の自分との温度がありすぎて、鬱陶しい。放課後になるのを待って物語の続きを書くはずが、どうしてもこれを書き留めたい衝動に駆られてノートに張り付いていた自分が悪いのだけど。


「ほら、席ついて」


 担任の大葉先生が教室に入ってきた。あちこちで団子になっていたグループがガタガタと耳障りな音を立てながらほぐれていく。


 私の前の席にも、その主が戻って来る。入学したてのあの日、教室に忘れ物を取りに来た人だ。あの日は分からなかったけど、私とは文字通り別世界に住んでいるような、日の当たる場所にいるタイプ。


「GW明けに提出だから、しっかりやるように」


 担任の声とともに、課題の紙の束が前の席から順繰り送られて来る。


「由良さん、だっけ? はい、これ。回して」


「……」


 前の席の男の子が私を見て、そう言った。なんで知ってるんだろう。私みたいな人間を認識しているとは思いもよらなかった。思考停止。固まってしまった。


「……? どうしたの?」


 動かない私をよく見るように、顔を覗き込まれた。


「あ、うん」


 顔を伏せてプリントを受け取り、後ろへ回した。なんて無遠慮な人なんだ。さっきまで書いていた物語の余韻が、私の目元に残っていたはず。見られてしまっただろうか。恥ずかしくて、もう前が向けない。


「はい、じゃ部活のない人はあんまり寄り道しないで家に帰るように」


 先生の声で、ホームルームが終わったことを知った。教室内の空気が一気に緩んで、またガヤガヤと音が耳に戻ってきた。このうるささに救われるなんて、と思いながらも、いつの間にか殺していた息を深く吐いた。


「いつも思ってたんだけどさ、何書いてるの?」


 ビクッと反射的に前を見ると、前に座っていた男の子が椅子の背に顎を乗せてこちらを見ていた。


「な、なにも」


「勉強、って感じでもないなって思ってたんだけど、いつも一生懸命に書いてるからさ」


「気のせい、です」


「同級生なんだから敬語にしないでよ。俺、村上タケル」


「か、帰ります」


 机に出しっぱなしだったノートやペンケースを慌ててしまう。とてもじゃないけど、会話なんてできない。私はひっそりと生きていたいのに。


「帰れないよ? 俺と由良さん、ゴミ捨てとーばん」


 聞いてなかった?と、こちらを見る村上タケルの顔はまるで少年のようだった。無邪気というのか、自由というのか、単に子供っぽいというだけではない何かがあった。


「じ、じゃぁ、今から、い、行きましょう」


 これでは挙動不審な変な子だ。さっき言われた言葉に思いっきり動揺していることがよく分かる。


「さっさと終わらせて、帰ろうぜ」


 私のどもった言葉には触れずに、サクサクと行動していく村上タケル。泣いているところや、物語を書いていることを知られてしまったんじゃないかという恥ずかしさで、顔が熱い。この場から逃げ出したい。ひっそりとした図書室の風景が脳裏に浮かんだ。でも私に、当番を代わってくれるような友達はいない。


 自分の置かれている立場にげんなりしつつ、トボトボと後ろをついていくしかなかった。


「そっちの方が軽いから」


 大きな袋がふたつと、小さな袋がひとつ。村上タケルは大きな袋を担ぎ上げ、私の方を見ないようにどんどん歩いていく。


 こうして誰の視界にも私は入らなくなってしまうのかと思うと、ほんの少しだけ寂しい気がしてくる。でもきっと、私にはそのくらいが丁度いいんだろう。うん、それでいいんだ。


 微妙な距離を開けて、村上タケルの背中についていく。


 渡り廊下を通り過ぎて行く同級生や先輩たち。誰も彼もが授業から解放された喜びに満ちている。こんな私なんかとゴミ捨て当番になった村上タケルは可哀想だなと、他人事のように考えた。


 中庭を通り過ぎる時、近くのベンチで本を読む男の人がいた。長い髪が顔にかかり、ページをめくるたびに耳にかけなおしている。それが、私が顔を隠している理由と同じように見えて、ドキッとした。


 細面のどこか冷たいようなイメージを持つ人。ネクタイの色から三年生だと分かる。まるでそこだけ時間が止まっているかのような、一枚の絵画のような気がして思わず見とれてしまった。


「由良さーん?」


 向こうで村上タケルが私を呼ぶ声がする。このままずっとここに居たかったけれど、ゴミを持っている私はその声についていくしかなかった。


 ゴミ捨て場にゴミを下ろすと、村上タケルはさっさと帰ってしまった。私はゆっくりと歩き、さっきの先輩がいることを願って元来た道を戻る。


「きみ、これ」


 願いは叶って先輩はいた。だけどその手には、私のメモ帳が握られていた。普段から思い浮かんだ言葉を書き留めている私のメモ帳が。


「えっ」


 ゴミを運ぶ時に落としたんだ。


 あの中には単語や一文だけでなく、簡単なストーリーめいたものやセリフなんかも書き込んである。もう一つの私の頭の中といっても過言ではない。それを、見られてしまった。


 恥ずかしさで涙が目に溜まっていく。どうしよう。どうしたらいいんだろう。俯くことしかできない。真新しいシューズがピカピカしていて、目に痛い。


「ごめん、見るつもりなかったんだけどちょうどページが開かれてて。素敵な世界観だね」


 先輩はそう言いながら、メモ帳を返してくれた。


 私の世界を認めてくれたその言葉に、条件反射的に言葉が出た。


「気持ち、悪くないですか」


「どうして? 物語を書ける柔らかな心を持ってるのは素敵なことだと思うよ」


 その答えに、私は顔を上げていた。うっすらと優しく微笑む顔があった。縁なしのメガネからこちらを見つめる両目と目が合った。


「僕も物語書いてるし」


 それだけ言うと、先輩はくるりと背を向けて歩き去っていった。一度も振り返らずに。


 胸がドキドキして、顔が熱い。


 現実の恋が、私の心の扉を叩いた音がした。

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