お兄ちゃんとの思い出


 わたしは料理なんかほとんどしたことがない。台所に立つのなんかカップラーメンのお湯を沸かすときくらいだし、包丁を持ったのだって家庭科の調理実習で数回あるだけだ。

 それなのに、お兄ちゃんが婚約者を紹介する大事な日に夕飯を作ろうと決めたのは、わたしとお兄ちゃんとの思い出が原因だった。


 それはわたしが小学校に通い始める数ヶ月前のこと――


 ――その日は、午前中にお父さんもお兄ちゃんも家にいたため祝日か日曜日だったはずだ。いつも通りの休日で、家族全員のんびりと過ごしていた。

 そんな中、お昼過ぎに一本の電話がかかる。電話相手が病院なのか親戚なのかはわからないが、お父さんのお父さん――つまりわたしにとってのお爺ちゃんが倒れたという内容だった。

 その一報にお父さんとお母さんは慌てて家を後にした。ごたごたする可能性もあり、病院に手のかかる時期のわたしを連れて行きたくなかったのだろう。わたしはお兄ちゃんと留守番することとなった。


 結論から言うとお爺ちゃんは大事には至らなかった。それどころか90歳を超えた現在でも毎朝の散歩を欠かさないほどぴんぴんしている。

 ただ、お父さんの田舎はそれなりに遠方だったため、結局その日はわたしとお兄ちゃんのふたりだけで一晩過ごすこととなった。


「よし、そろそろ晩飯にすっか。亜里砂はなにを食べたい?」


 日も暮れてお腹の虫が鳴き始めた頃、お兄ちゃんはデリバリーのチラシを手にわたしへと尋ねる。


「母さんから金はもらっているからな。ピザに蕎麦、カツ丼でもなんだっていいぞ」


「オムライス!」


 わたしは即答していた。オムライスは幼い頃のわたしの大好物だったのだ。


 もしかしたら少数派かもしれないが、わたしは卵が半熟でふわふわなものよりも、薄焼き卵で中身をしっかりと包んでいるほうが好きだった。スプーンで切れ込みを入れ、鮮やかなオレンジ色のチキンライスがはっきりと確認できたとき、まるで隠されていた宝物を見つけたかのような特別な気持ちになるのだ。


「オムライスか……」


 わたしがオムライス好きなことを知っているお兄ちゃんであったが、手にしていたチラシを眺めてから軽く首を横に振った。


「すまん。オムライスは無理そうだ。代わりにカツ丼じゃダメか?」


「イヤだ! 亜里砂はオムライスが食べたい! 絶対にオムライス! オムライスじゃなきゃイヤ!」


 当時はまだ一緒に暮らしていたため、わたしとお兄ちゃんの関係はいまほどぎくしゃくしてはいなかった。そのため、お兄ちゃんに対してわがままをぶつけるという行為もその頃はできたのだ。


 お兄ちゃんは、そんなわたしの身勝手な主張に困り果てているようだった。

 それも当然だろう。オムライスのデリバリーなんてあまり聞いたことがないし、うちの近所にはファミレスだってない。この状況下でオムライスを食べられるはずがなかった。

 とはいえ自分から「なんだっていいぞ」と言ってしまったため後に引けないのか、お兄ちゃんは冷蔵庫や戸棚を開けてなにやら考え込んでいる。


「とりあえず、卵と冷や飯はあるか……」


 お兄ちゃんはしばらくひとりでぶつぶつとつぶやいた後、なにか決心した面持ちでわたしへと向き直った。


「よし! それじゃあ兄ちゃんがオムライス作ってやるよ」


「ほんと!?」


「ああ。ただし、鶏肉はなかったから代わりにソーセージで勘弁な」


「うん!」


「じゃあ、ちゃちゃっと作っちゃうから亜里砂はテレビでも見て待っててな」


 そうは言われたものの、わたしは台所に立つお兄ちゃんの大きい背中から目を離せなかった。普段は部活だ受験だと忙しそうにしているお兄ちゃんが、わたしの大好きなオムライスを作ってることがなんだか無性にうれしかったのだ。

 ただ、最初はうれしさだけで眺めていた背中であったが、次第に別の感情も沸いてくる。


 ――罪悪感。


 おそらく、お兄ちゃんも料理なんかしたことなかったはずだ。それなのに、わたしのために料理本を見ながら悪戦苦闘している姿を目の当たりにして、幼心に小さな罪悪感が胸に宿っていた。


 それでも、30分ほどかかって、お兄ちゃんはなんとかオムライスを完成させてくれた。

 どうしても普段食べているお母さんが作ったものと比べてしまうため、見た目の出来はおせじにもいい物だとは言い難い。卵は巻かれているというより、べろんと乗っかっているといった感じで、ご飯の量が多すぎたのかケチャップライスがその下からはみ出していた。


「ほら、亜里砂。お前の名前書いてやるぞ」


 お兄ちゃんは、わたしの前に差し出した不格好なオムライスの上にケチャップを使ってひらがなで「ありさ」と書いてくれる。ただ、その中でちゃんと文字として解読できたのは「り」の字くらいであった。


「それじゃあ食うか。両手を合わせてー?」


「いただきまーす!」


 わたしはお兄ちゃんのかけ声に合わせて元気よく食前の挨拶する。そして、上に乗っている薄焼き卵と一緒に、ソーセージがたっぷり入ったケチャップライスをスプーンいっぱいにすくうと、それを目一杯広げた口の中に入れた。


 味は――いまいちだった。ご飯はなんだかべちょべちょだし、ケチャップの量が多かったのか味が濃すぎる。それでも――


「どうだ? うまいか?」


「――うん。おいしい!」


 お兄ちゃんに訊かれてわたしはそう答えていた。


 嘘でも気を遣ったわけでもない。


 見た目は褒められたものじゃないし、卵の上に書かれたケチャップの文字も読めないし、肝心要の味すらも微妙。それでもわたしは先ほど覚えた罪悪感なんか吹き飛んでしまうほど、このオムライスをおいしいと感じたのだ。


 もしかしたら料理というものは誰がどんな理由で作ってくれたかが一番大事なのかもしれない。

 お兄ちゃんがわたしのためだけに一生懸命オムライスを作ってくれた。その事実こそが、どんな調味料よりもこのオムライスの旨味を引き出してくれたように思う。

 その後も、わたしはもりもりと食べ続け、大盛りだったオムライスをあっという間に完食していた。


「ごちそうさま!」


「おう。残さずよく食べたな、偉いぞ」


 お兄ちゃんは空になった皿を見て微笑んだ。


「こんなのでよかったら、また今度作ってやるからな」


「んーん。作らなくていい」


「え?」


 自分の作った料理をさんざんおいしいと言って完食までしてみせた幼い妹から、唐突に否定されたことにショックを隠せないようで、お兄ちゃんの眉が八の字に垂れ下がる。それでも、すぐにいつもの快活な笑顔に戻ると、お兄ちゃんは「ははは」と笑い飛ばした。


「まあ、そりゃそうだよな。こんなオムライスなんかよりも、母さんが作ったほうがやっぱいいもんな」


「違うの」


 お兄ちゃんの言葉にわたしはぶんぶんと首を大きく横に振る。


「今日はお兄ちゃんが頑張ってくれたから、次のときは亜里砂がお兄ちゃんにオムライス作ってあげる!」


「亜里砂……」


 幼稚園児にそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。お兄ちゃんは驚いた様子で目を丸くしていた。


「ありがとうな。それじゃあ次のときを楽しみにしてるな」


 お兄ちゃんはそう言って、大きな手でわたしの頭をなでる。その顔はとてもうれしそうだった。


 とはいえ、キッチンに立ったことすらないわたしは、オムライスの作り方なんてまったく知らなかった。まったく知らなかったからこそ、そんな安易な約束をしてしまったのだろう。

 それでも、当時のわたしは本気だった。わたしのためだけにオムライスを作ってくれたお兄ちゃんに、なにかしらのお返しをしてあげたいと思っていたのだ。


 だが、それから数ヶ月後にお兄ちゃんは高校を卒業し、家を出てしまったため『次のとき』が来ることはなかった。


 だからこそ決めたのだ。お兄ちゃんが婚約したいま、あのときの約束を果たし、今度はわたしがお兄ちゃんに思い出となるオムライスを作ってあげよう、と。

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