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第38話 おかえり



 夢見心地の日々が続いていた。仕事はまだ再開していない。馨が帰ってきた時のことをずっと考えている。由枝は自分が特別母親らしいとか母性が強いとか思ったことはなかったし、けっこう放任主義で、子育ても適度に手を抜きながらやってきた。それでも馨は、たった一人の家族、たった一人の子ども、たった一人の世界で一番大切な存在だ。だから、あんなことがあった後には、四六時中子どものことを考えてしまうのも無理はなかろう。あと、たまには凪のことも考えていた。急に現れて、相変わらず情けないツラをしていた凪のことを。かつてはその風変わりで頼りないところに、逆に惹かれたものだった……。


 馨からのメッセージが由枝のスマホに入ったのは、夜が明けた頃だった。

 このところは日が短い。由枝は比較的早くその文面を確認できた。


『お待たせ! 帰ってきたよ』


「……は?」


 由枝は布団を跳ね飛ばして起き上がった。勢い余ってベッドのふちに体をぶつけた。


「うそーん。こんなに早いとは思わなかった!」


 それから『迎えに行く。今どこ?』と送るやいなや、ピンポーンとインターホンが鳴った。


「え? え!? もう!?」


 由枝が身支度もせずにドアを開けると、紛うことなき我が子が立っていて、「ただいまー」と呑気な顔で笑った。


「おかえり。随分とまあ早かったのね」

「そうかなあ?」

「だってまだ二週間くらいしか経ってないじゃない」

「二週間も待たせちゃったと思っていたのに」


 カオルはよいしょと靴を脱いで家に上がった。


「僕これからは、あっちとこっちを定期的に行き来することになったんだ。だからごめんね、家には住めない。でもちょくちょく帰ることになったから」

「ん? それはつまりどういうこと?」


 馨がかくかくしかじかと事情を説明しているのを聞きながら、由枝はお湯を沸かしてコーヒーを淹れた。


「……だから、父さんに聞いてみたんだ。そしたら、僕の体を再生成する時に、特別強い作りにしたんだって言うんだよ。つまり、今の僕は車に轢かれた程度じゃ死なないんだって」


 ぺらぺらと喋る馨の表情は、見たことがないほど生き生きとしていた。

 事故が起こる前、おとなしく学校に通っていた頃とは、まるで別人のようだった。


「これで良かったのかも知れないわね」


 由枝は言った。


「ん?」

「だってアンタ自身で選んだ人生で、アンタが楽しそうに笑っているから」

「そうかな」


 馨はまたエヘヘと笑った。


「そうかも。この体になってから、笑うことが増えた気がするなあ」

「人間、笑って暮らすのが一番よ」


 言ってから、ああ、と思い直した。


「アンタは人間ではないんだったっけ……」

「そんなことないよ」


 馨は困った様子も怒った様子もなく、穏やかに訂正した。


「僕は僕が何者なのか、決めていないだけだよ。その方が、何者にでもなれる気がして、僕は気に入っているんだ」

「そう……。アンタが納得しているなら、アタシは何でも構わないわ」

「うん。ありがとう」


 にこやかにコーヒーを飲む馨を、由枝もまた目を細めて眺めていた。


 馨の表情は生き生きとしていて、そのことが由枝には純粋に嬉しかった。一緒に暮らせないという寂しさはもちろんあるけれど、遅かれ早かれこの子が独り立ちする日は来ていたのだ。だから寂しがるよりも、我が子の成長を素直に喜ぼう。この子には素敵な友達がいる。この子を待っている友達が。

 うん、アタシは、間違いなく幸福だ。こんな、仕事一筋で適当なこと極まりない母親のもとに生まれたというのに、子どもは立派に育ってくれた。本当に良かったと思う。


          ──「第8章 再会」おわり

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