第7章 親愛

第30話 喧嘩勃発


 数時間ほどで目が覚めた。リビングに出ると、母はバウムクーヘンを食べていた手を止めて、僕にコーヒーを淹れてくれた。


「アンタ、会いたい人とかいないの?」

「えっ?」

「お友達とか。生き返ったよって言いたい人はいないの?」


 僕は少し返事に迷った。こちらではいじめられていて友達がいないということは、母さんには言っていなかった。でも、もうどうでもいいことのように思えたので、開き直ることにした。


「いないよ。誰とも友達じゃなかったし」

「……やっぱりそうなのね」

「……バレてた?」

「アンタ中学入ったあたりから学校の話を全くしなくなったじゃない」

「……ウン」

「しかもお葬式に来た子たちの態度と言ったら……」


 母さんはそこで言葉を切った。僕は別に続きを聞きたいわけでもなかったので、特段問いたださずに放っておいた。


「まあ、いいわ。母さんはアンタが帰ってきてくれて嬉しいから。それで充分でしょ」

「……ウン」

「そうとなったら、あとはお婆ちゃんたちに挨拶に行かなくっちゃね」

「いいの? 母さん、あの人たちとあまり仲良くないでしょう。僕を産んだせいで」

「何も勘当されたわけでもないし、あの人たちにだって情はあるからね? それに何度も言うようだけど、アンタのせいじゃないから。全然」


 そんな話をしていたら、突如、リビングのドアが開いた。


「!?」


 僕たちが振り返ると、そこにはナギが立っていた。片手には靴を、もう片方の手には齧りかけのおまんじゅうを持っている。


「やっほー、カオル。それと……ヨシエ」

「あ、ナギ……と、父さん?」


 ナギはぎこちなく笑っていたが、その顔は瞬時に凍りついた。母さんが凄まじい殺気を放ち始めたからだ。


「テメェ……」

「ヨシエ、落ち着いてくれ。ボクだよ」

「よくもまぁノコノコと現れやがったなこの不法侵入者がアァ!」


 母さんはナギに掴みかかったが、ナギはその手をひらりと躱した。


「今すぐ消えろ! 消え失せろ!! 野垂れ死ねよド腐れ野郎!!」

「落ち着いてってばヨシエ。ボクもちょっとは罵倒される覚悟をしてきたけど、あんまり言われると凹んじゃうから」

「はァ? 思う存分凹ましてやらァ! 完膚なきまでに! 二度と立ち上がれないように! ボッコボコに……」

「母さん、待って、待って」


 僕は慌てて間に割って入った。


「父さんは確かに育児放棄してたけど、この前は僕の命を救ってくれたんだよ。おあいこだよ」


 ナギは怯えた様子でこくこくと頷いた。


「それに父さんは母さんに振られたせいで心の病気になっちゃったんだ。もう十二分に凹んでるから許してあげてよ」

「あァん……?」


 母さんはギロリとナギを睨んだ。その目つきのあまりの恐ろしさにナギは「ヒェッ」と息を飲んだ。


「ああ……」

「母さん、ね、ここは穏便に……」

「……まあそういうことなら、馨に免じて、勘弁しておいてやる」

「ゆ……許してくれるの?」


 ナギはぱっと表情を明るくした。


「ありがとう。ヨシエはやっぱり優しい子だね。ボクが惚れただけあるよ。ウフフフ」

「……完全に許した訳じゃねェからな」

「嬉しいなあ。あっ、そうだ、お茶をもらえないかな? 喉が渇いちゃって」


 ナギは手に持ったおまんじゅうを頬張った。母さんの目がたちまち釣り上がる。


「それは! 馨の! おまんじゅう! 誰が食っていいと言った!!」

「えっ、駄目だったの?」

「わー、喧嘩はやめて喧嘩は! そのおまんじゅうは食べていいから!」

「アンタはどうしてこのゴミクズの肩を持つのよ!」

「えっ、いや、肩を持ってるわけじゃ……。二人に喧嘩しないで欲しいだけだよ。ね? あのね父さん、人の家のもの勝手に食べちゃ駄目だからね」

「ふぁい……。で、お茶は?」

「……テメェにやるものなど何一つ無いわァ……ッ!」

「どうして火に油を注ぐのかな、父さんは!?」


 わあわあ言い合って、ようやく喧嘩が収まったのは、三十分後だった。


 ナギはしょぼくれてしまったし、母さんはムスッとしている。


「で、父さんは何しに来たの?」


 僕はようやく尋ねることができた。


「それなんだよ」


 ナギは急に元気を取り戻した。背筋をシャキッと伸ばす。


「カオル。旅がまだ途中だったろう? また一緒に来てくれないかなっていう、お誘いだよ」

「え?」


 僕はキョトンとした。


「そのために、わざわざ? 父さんたちはもう地上に戻れたとばかり……」

「戻れたけど、キミにあんな急にいなくなられたら驚くじゃないか。ミウも寂しがっていたよ。だから一緒に──」

「駄目に決まってるじゃないの!」


 母さんが話を遮った。その顔は真っ青だった。


「アンタ何言ってるの? この子はせっかく帰ってきてくれたのよ。二度と会えないと思っていたのに、アタシのもとに帰ってきてくれた……! だから当然この子は、このままアタシとずうっと一緒に暮らすの。アンタみたいなカスには渡さないんだからね、絶対に」

「母さん……」

「でもさ、ヨシエ。この世界のカオルは一度死んじゃったんだろう? このままってのは、色々とマズくないかい? ボクの世界の方でボクの庇護下で生きていった方が、不都合がないし安心だと思うんだ」

「その辺はアタシが何とかする。何とでもなる。アタシのもとにいた方がいいに決まってる。もう二度と、金輪際、この子を失いたくないんだよ、アタシは」

「ずるいぞ、ヨシエばっかり。ボクだってカオルのこと大事に思ってるのに」

「どの口でそんな妄言を吐いていやがる? これまで一切この子に構って来なかった分際で? この子はアタシの子です。テメェにゃ何の関係も無ェんだよ、部外者は引っ込んでな!」

「うっ……わあーん」


 ナギは言い返せずに泣き出した。泣いてしまっては、どこからどう見てもナギの完敗である。僕は困り果ててしまった。


「おかしいよね……」


 僕が言うと、二人は「え?」とこちらに注目した。


「僕はこちらでもあちらでも迷惑をかけるばかりで、ちっとも役に立っていないと思っていたのにさ……。なのに母さんは生きているだけでいいって言ってくれるし、父さんはわざわざ連れ戻しに来てくれるなんて。何だか僕には、勿体無い話だよ」

「馨? それはね」

「分かってる。もう、迷惑だとかそういうことは考えないようにする」

「そうだよ、カオル」


 ナギは言った。


「キミがどういう役割を持っているか、キミがどれほど役に立っているかなんて、そんなのはどうでもいいことなんだ。大事なのはキミがどうしたいかだよ。もしキミがずっとここで暮らしたいというなら止めはしないさ。ただもう一度ボクたちと暮らしたいと思うなら……ボクたちに会いたいと言ってくれるなら、大歓迎だよって、伝えに来たんだ」

「……」


 母さんが僕の肩をぎゅっと掴んだ。僕は束の間、物思いに耽った。

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