第27話 ただいま

 落ち葉に足を取られながらも、僕は走った。体が重く、冷たかった。


 運良く、獣道のようなものを見つけたので、それを頼りに斜面を下った。少し行くと道が階段状に整備されている場所に出た。住宅街の中にあるだけあって、この林は人の手が入っているようだった。


 下って、下って、僕は公道にまろび出た。地図アプリを見ながら、公園を目指して走る。


 朝早くから通勤に出たらしいサラリーマン風の男性が通りかかって、ギョッとしたように僕を見た。全身白のジャージを泥んこにして、羽織ったトレンチコートに枯れ葉をひっつけた、ずぶ濡れの子どもが、急に曲がり角から現れたら、誰だって驚く。サラリーマンには気の毒なことをした。


 角を曲がって公園へ。家々の立ち並ぶ道がパッとひらけて、それらしき空間が目に飛び込んできた。錆びついた柵に色褪せた遊具、朝露に濡れるベンチ、そして古びた水飲み場。


 砂利を蹴って駆け寄り、蛇口を捻った。


 飲む。

 冷たい。

 でもほっとする。

 そして、情報の洪水。脳に様々な記憶が押し寄せてきた。


「何か色々と忘れてたァ!」


 僕は、一番鶏もかくやという声量で叫んだ。


 僕の本名は、嘉瀬かぜかおる

 性分化疾患を抱えて生まれた。現在、十五歳。中学生。

 趣味は、一人でカラオケに行くこと。あと読書。

 勉強は、まあまあ得意な方。

 犬派だけれど、猫も好き。スローロリスの方が好きだけれど。

 料理が得意。でも好きな食べ物は、卵かけご飯。


 ──帰ったらこれが食べたいなとか、無いの?


「卵かけご飯が……卵かけご飯が食べたいぃ……!」


 そうと決まったら、早くうちに帰らねば。


 僕は公園を出て、歩き出した。十分ほどでフリーWi-Fiスポットのあるコンビニに辿り着いた。母とのトークルームを開く。


「僕は無事です」


 送信。


「色々あって、生きてます。本当です。今ここに居るから迎えに来てくれる?」


 続きに、現在地のリンクを貼る。

 少し考えてから、追記した。


「できれば、おやつを持ってきて下さい」


 水だけでは心許なかったためだった。


 それから、三十分待った。


「スマホの電源は少ないです」


 そう送ったところで、既読がついた。


「誰?」

「馨です」

「マジで言ってんの?」

「マジで言ってる」

「乗っ取り?」

「本人です」


 しばらく間があった。


「乗っ取り??」

「本人です」

「嘘だ」

「本人です。ちょっと、電池少ないから勘弁して」

「嘘だ。アンタの得意料理は?」

「豚出汁茶漬け」

「は!? 何でアンタが我が家秘伝の料理の名前知ってんの?」

「本人だからね」


 送った瞬間に充電が切れた。


「あー」


 信じてもらえただろうか。

 三時間待って母さんが来なかったら、交番に厄介になろう……と思っていたら、一時間後に鮮やかな赤色の車が停まった。


 バンッ、と運転席側のドアが開いて、髪を紅色に染めた黒いジャケットのおばさんが出てきた。


「あ、母さん。こっちこっちー」


 僕は手を振った。


 母はズカズカと近づいてくる。

 目が爛々と光っていた。


 彼女は僕の全身を舐めるように睨みつけると、肩を掴んで揺さぶり、腕だの腹だのをバンバンと叩きまくった。


「幽霊じゃないみたいね」


 第一声がそれだった。


「あはは。本物だよ」

「ちょっとこっち来なさい」

「あれー」


 僕は腕を掴まれて車まで連れて行かれた。

 助手席に押し込まれる。


「そこまでしなくても、自分で座れるよ」

「黙らっしゃい。いい? ここからいなくならないでよ? 母さん、運転席まで回るから」

「いなくならないよぉ」

「本当にもう、いなくなったら駄目」


 母は僕のことをぎゅっと抱きしめると、宣言通り運転席についた。

 車を乱暴に発進させる。僕は慌ててシートベルトを締めた。


「で、どういうことなの? アンタは確かに死んでた。お葬式をしたもの。スマホだって遺品の中にあるし、そのコートは血まみれになっていたから処分したはず」

「えーと」


 僕は、自分でもなかなか異なことだなあと思った。何が一番変かって、あんな高所から落ちても怪我一つしない僕が、車に轢かれたくらいで血まみれになったということだ。


「僕は半分しか死ななかったんだ。魂だけ異世界に呼ばれたんだって」

「イセカイ……? じゃあアンタは今、魂だけの状態なわけ?」

「ううん、半分死んではいるけど、体は新しく作ってくれたんだ」


 そしてナギは瞬時に服や持ち物も用意してくれたらしい。確かに、素っ裸で飛び降りてきたら格好がつかないものなあ。ありがたい配慮だ。それともたまたま身に付けていたものを生成してしまっただけだろうか。


「まあ、生きてるなら何でもいいわ。とりあえずこれ、食べなさい」


 母は栄養補助剤のクッキーを差し出してきた。僕がもそもそと頬張っている間にも、母は矢継ぎ早に質問してくる。


「異世界って何? 天国のこと?」

「異世界は異世界だなあ……天国ではないと思うよ」

「アンタの体はどうなってるの? 作ってくれたってどういうこと」

「ああ、そのことなんだけどね」


 僕はクッキーを飲み込んだ。


「父さんが助けてくれたんだよ。母さん、父さんのこと覚えてる?」

「はあ?」


 キキーッ、と車が赤信号を前にして停まる。


「アンタの父さん? 昼神ひるかみなぎ?」


 ああ、そういう偽名を使っていたんだ……。


「ナギっていうのはあっちの世界で一番偉い神様なんだって。世界の半分を創造するほどの力があるっていうから、僕を助けることもできたんだろうね」


 聞いた話だと、それも随分と大変な仕事だったらしいけれど……。

 母さんは盛大に顔をしかめた。


「神様ぁ? あの軟弱者のボケナスが?」

「うん。ナギ様は母さんに会いたがっていたよ。何だかすごく泣き虫な方だったなあ。母さんにふられたせいで心の病気になっちゃったんだって、ナギ様は」

「その『様』っていうのヤメテ……何だかアイツが、新興宗教の教祖みたいだから……」

「あっ、うん、じゃあ、父さんって呼ぶよ」

「……。アイツには父さんと呼ばれる資格なんて無いけどね……。まあ、アンタの好きにすれば」

「うん。そうする」


 車は再び急発進した。


 それから僕は色々なことを報告した。喋ることは山ほどあったし、僕には把握しきれていない事柄も沢山あった。


 何とか、異世界が本当に異世界だということと、父さんが異世界の偉い人だということ、僕が父さんを生き返らせるために旅をしていて、何かの拍子でこちらに戻ってきたこと──などを母さんに飲み込んでもらう頃には、僕たちは家に着いていた。

 母さんは乱暴に車をバックさせて、ピタリと車庫に停車させた。


 玄関を開ける鍵の音すら懐かしい。


「ただいまー」


 僕は言って、トンッと玄関に踏み込んだ。母さんは泣き笑いの顔で、「おかえり」と言った。

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