第6章 帰還

第26話 戻ってきちゃった

 ゆっくり、空の珠の、外側へ。

 ゲル状の空を、体が通り過ぎてゆく。


 珠を出たその先の空間には、何も無かった。スポン、と抜け出した僕を待ち受けていたのは、果てしのない落下だった。


「あれー」

 僕は言った。

「ここどこぉ?」


 落ちるに任せているうちに、徐々に状況が飲み込めてきた。どうやらパラシュート無しのスカイダイビングをしているらしい。


「あれまあ〜っ!」


 例によって僕が、まぁ大丈夫なんじゃないかなぁと思っていたことは、言うまでもない。

 風が下からビュンビュン吹いて、僕の開いた口に遠慮なく入り込んでくるので、それが少し困った。


 やがて眼下に見えてきたのは、どこか懐かしい感じの住宅街。その中心にポツンと在る緑色の丘陵。──否、木々の生い茂る山。


 僕は吸い込まれるようにして、その山のど真ん中に突っ込んだ。バキバキと木々の枝を折って落ち続け、地面に投げ出される。ゴムまりのようにぽうんと跳ね上がった僕は、ころころと山の斜面を転がった。大樹の根本にフニャッとぶつかって、回転が止まる。


 目が回って、もうクラクラだった。土と草の匂いがした。


 よろよろと立ち上がって、服の土を払う。死の国の町にいる時に魔物に手渡してもらった、ジャージのような白い服が、ドロドロに汚れてしまった。


 寒い。


 それで、結局、ここはどこなのだろう。


 何だか先刻は、空の珠の外に出てしまったような気がするのだけれど。

 ニレイの話じゃ、あの世界は空の珠の中で完結しているはず。

 僕の勘が正しければ、僕はあの世界から外に出てしまったのだろう。ここはまた別の世界だということになる。


「……」


 ミスティルには世界間を繋ぐ力があると聞かされていた。しかし、縁もゆかりもない世界に突然一人で放り出されるなんていうことが、果たしてありうるだろうか?


(いや、異世界っていうのがそもそもありえないけど……それはおいといて)


 植生の感じとか、気候とか、空気の感触とか、そういう諸々から鑑みても、ここは——僕の故郷の世界なのではないだろうか?


 ――確かめる方法が一つある。


 僕はミスティルを握りしめた。


「出でよ、スマホ」


 木片が光り輝き、僕の手のひらの上にスマホが顕現した。

 電源ボタンを長押しする。


(頼む。起動して!)


 ……出た。見慣れた画面が。充電はあんまり無かったけれど。


 日付を見る。僕が車に撥ねられた日から、半月あまりが経過していた。時刻は朝、日の出の直後。


 パスワードを入力した僕は、すかさず地図アプリを開いた。


 これで、もしもGPSが機能したならば、ここは地球だ。


 位置情報が……割り出された。地図上に青い点が表示されている。


 僕がいるのは、紛れもなく地球だった。


 更に僕は、地図を拡大縮小させて、現在地を割り当てる。

 ここは、自宅から三十キロほど離れた町の中にある、小高い緑地の中だった。


「ふーん……」


 改めて、信じがたいことだ。この世界の僕は死んだはずなのに。まさか、帰ってくることになるなんて。

 僕は体中をバシバシと叩いた。

 肉体は無事だ。相変わらず。水に濡れて寒いけれど。

 肉体。肉体……


 ――日本で車に撥ねられて死んでしまったキミを何とか助けるために、急いでキミの魂をこの世界に呼び出したんだ。

 ――召喚して、肉体を与えて、受け止める、となると、結構力を使うからねー。


(うう……常識外れのことを推理するのは、難しいなあ。頭が痛くなってくる気がする)


 多分僕は、日本からあの世界に行った時、死んだ肉体を置き去りにして、魂だけ呼び出されたはずだ。そしてナギの上めがけて落ちる途中で、新たに肉体を与えてもらったらしい。


(で、今回は……)


 肉体ごとこちらへ来たのだろうか。それともまた新しく肉体が生成されたのだろうか。


(まあ、考えても分からないことは、考えなくていいや)


 とにかく僕は、何かの拍子で、元の世界に帰れた。


 こうなったらやることは一つ。

 うちへ帰ろう。


 母さんに連絡だ。


 僕はメッセージアプリを開いた。

 履歴には、随分前に送信に失敗したメッセージが残っている。


「僕は無事です」


 迷わず再送信のボタンをタップした。

 ……送れない。

 表示をよく見たら、電波が通っていない。


 恐らくスマホの契約は解除されているのだろう。フリーWi-Fiの使える場所に出なければ、このメッセージは送信できない。


 地図によると、山を出て駅の方面に行ったら、Wi-Fiの使えそうなコンビニやカフェがある。


 僕は出口が近そうだと思われる方角に向かって、木々を掻き分けながら進みだした。

 ところが、何歩も行かないうちに、腹が変な音を立てた。


 ぐぎゅるるるる。


「……」


 食べたはずのおにぎりは、確かに胃の中にある感じがするのに……体が空腹を訴えている?

 もしかして、これは。


 ──魂に関わる大問題だぞ。


 食べ物を口にしないとまずい事態なのか?

 このままでは魂が消滅してしまうのか!?


 どうしよう。僕は今、無一文だ。パンの一つも買えない。そこらの家に突撃して物乞いをするのも不自然だ。しかもこんな朝っぱらから。

 そもそもどれくらいでタイムリミットが来るのか。魂が消えるとはどういうことか。一体何が起こるのか。

 ああ、どうしよう。


 不意に、昨日のミウとナギの会話を思い出した。


 ――じゃあ白湯は。

 ――もはや水だけ!?


(水だけでも、いける……?)


 僕はスマホをもう一度確認した。


 水飲み場がありそうな公園が、駅の方面に幾つか。

 そのうち、最もここから近い場所に、僕は狙いを定めた。


 よし。

 走れ──!

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