Side-Overground

第25話 いないんだけど


 ザバァンと顔を出したそこはもう、地上だった。


 手のひらで顔を拭ったミウの左目に映ったのは、柔らかな緑色の大地。そして、泣きそうな顔をして手を差し伸べている、カノの姿。


 ミウはナギに続いて陸に上がると、ぺたんと座り込んで、己がついに生き返ったことの喜びをしみじみと噛み締めた。


(およそ七十年ぶりの地上世界! 生の国! 何て清々しいんだろう)


 さわさわとそよぐ風。朝の淡い光。透き通った冷たい空気。脚に触れる草の感触。ずぶ濡れになって凍えそうな体さえ。全てが生き生きとしていて、すばらしく心地が良い。


 カノが恭しくナギに礼をしてから、感極まったようにミウに飛びついて、その手を温かく握った。


「おかえり、ミウちゃん! また会えて嬉しいよ」


 それから、戸惑いがちに泉の方を見下ろした。


「それで、あの……カオルさんは?」

「え?」

「カオルさんは、来ていないの?」


 ミウは首を傾げて、辺りを見渡した。

 確かに、あのお気楽そうな顔が、どこにも見当たらない。泉を覗き込んだが、それらしき影もない。


 傍らのナギを見る。あるじは体をプルプルと震わせていたが、やがて濡れそぼった髪を掻き乱して、叫んだ。


「ウヴォアエエエェー! カオルがいないよぅーっ!!」


 耳をつんざかんばかりの奇声に、ミウは顔をしかめながらも言った。


「い、いませんね……」

「どうしたのかなあー! 溺れちゃったのかなあ!」


 ナギはドブンと再び泉に飛び込んだ。


「落ち着いてください、ナギ様」

「だってさぁ!」


 ナギは澄んだ泉の中で、バシャバシャと水飛沫をたてた。


「いないんだけど! カオルがいないんだけど! ボク、もう一回死の国に行って、探してくるね!」

「おやめください。そんなことをなさっても、溺れるだけです。ミスティルがなければ、世界間の移動は叶いませんよ」

「うわあああーん! ボクを助けてそのままいなくなっちゃうなんて。そんなの、そんなのあんまりだーっ!」


 ミウは、じたばたと暴れるナギを、カノと二人がかりで引きずり上げた。ナギはひとしきり喚いてから、はたと動きを止めた。


「──気配が消えた」

「気配、ですか?」

「カオルの気配が、この世界から消えた」

「この世界から……!? どういうことです?」


 ミウが血相を変えて問い詰めると、ナギは珍しく真剣な面持ちで空を仰いだ。


「いないんだよ、どこにも。地上にも地下にも。カオルはいなくなった」

「はい? そんなことって、あります!?」


 カノは黙っておろおろと、ナギとミウを交互に見ている。ナギは静かに目を閉じた。


「待ってて。今、探すから」


 沈黙が流れる。雫が滴って、ナギとミウの周りに水溜りができてゆく。

 ピィーッと、空高く飛ぶ鳥の声が、やたらと大きく響いた。


「……いた」


 ナギが呟きを落とした。


「カオルは、今……異世界にいる」


 思いもかけない主の言葉に、ミウは仰天したし、カノは「ほぇ?」と言った。


「あのう、それはまさか……ムスペルとかニフル……ですか?」


 カノがおずおずと訊く。


「ああ、いや、違うよ。そんな危ないところじゃない」


 ナギは力無く笑った。


「カオルはね、元来た世界へ、戻ってしまったみたいなんだよ」



           ──「第5章 東へ」おわり




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