8-6 狼人間とカラーボールペン


 店主は奥の机に移動し、イツキの奮闘を眺めながら一本電話を掛けた。

 一見裁縫セットの針山にしか見えない布型携帯電話だ。

 通話を終えると、これから対処しなければならないことを脳内で整理していった。




 ――時は、ホノカがレモンたちの箱庭である朝の世界で治療を受け、イツキが店主の弟子になった直後に遡る。


 店主は通称魔女裁判所と呼ばれる建物を前にしていた。

 白い柱が並ぶ回廊を進むとどこぞの西洋の城の舞踏会でも開けそうな広間に辿り着く。

 扇状に広がる白い石張りの階段が踊り場を境に二手に分かれて白い華麗な装飾の手摺りと共に二階へと伸びている。


 その魔女は扇状の階段の踊り場に、まるで王座のように設置された椅子に座り、店主を見下していた。


 店主は呑気に欠伸をしながらもその実、魔女を挑発する。


「処分か……。勿体無えなあ。あの魔物を制御できるかもしれない人間がいるのにサンプルも取らないのか。俺だったら上手く手懐けてみせるけど」


 魔女は艶然と眼を眇めて、


「あなたはいつもそうねえ。結局、一度目を掛けた子供たちを失いたくないのでしょう? あのアボカドって子の処遇についてもそう。私だったらあんなに穢れのない世界をわざわざ用意するなんてせずに、見世物小屋にでも売り払ってしまうのに」


「…………」


 魔女は店主の反応の薄さに退屈し、笑みの色を変えた。


「まあいいでしょう。でも、失敗したらどうするの? 私はもうあなたの名前と寿命を奪ったけれど、そうねえ、次は何にしようかしら?」


「好きにしろよ。いくらでも俺から奪えばいい」


 店主は自身のことには無頓着だと言うように手を広げてみせた。

 魔女が頬に自身の白い指を添える。


「あの子の命にしようかしら」


 いくら店主でも魔女がいきなり最後の切り札を提示してくるとは予想していなかった。


 魔女の言葉に、店主は息を呑むことも目を見張りすらせず平然と立っていた。

 しかし、湖面に一枚の枯葉が口づけたような微かな波紋に似た動揺は生まれていた。それは、微かだが風が水を撫でるよりは大きな揺らぎだった。


 魔女はそれを嗅ぎ分け、嗜虐的に目を細めた。


 この魔女はいつも獲物を噛み砕く瞬間を待っている。

 店主が不死鳥であり魔法道具の仕入れ先であるバッカスと出会った時も、レモンとアボカドを拾った時も、今と同じように獰猛に唇の端を吊り上げていた。


「面倒臭え……」


 店主は苛立たしげに髪を掻き上げ、鋭く魔女を見据えた。



 イツキのアパートの狭い部屋に一匹のシベリアンハスキーが鎮座している。

 標準的に思い浮かべるシベリアンハスキーより一回り大きく、耳の先から尻尾まで黒い毛並みで覆われている。


 部屋の中央の折り畳み式のちゃぶ台にこてっと頭を預けたシベリアンハスキー……変身魔法で犬の姿に変わったホノカは隣に座るイツキを見上げた。

 イツキが通話を終えるタイミングで声を掛けてくる。


「先輩、どうでした?」


 イツキはホノカに憑りついていた魔物の怨念……フェンリルと契約する際に何を代償にしたのか突き止めるために失った記憶はないか先程から確認して回っていたのだ。


「一応、母さんに『俺、兄弟いなかったよな』って確認したら、『まさか母さんに隠し子がいるとでも?』って真面目に返ってきた。後ろで韓国ドラマっぽいサウンドがめっちゃ鳴ってた……」


「お~、隠し子いましたか?」


 真顔で訊いてくるホノカだが、これは絶対ふざけている。

 イツキの部屋にいるのでちょっと浮かれているのだろうか。と考えて、いやそれはないなと否定する。

 異臭がしないだけ合格点の男子大学生のアパートに何の面白みもあるはずないし。


「いませんでした。ちなみに従兄弟も俺が知ってるやつ以外いませんでした」


 ここまで訊き回って収穫がないともう手詰まりだ。


 イツキの使い魔として人間界で暮らすことになったホノカは、珍しくペット禁止でないイツキのアパートに来ることになった。


 イツキからしてみれば「え、いいのそれ⁉」という感じだったが、当人が「私、イツキ先輩の魔力を喰べて余すことなく栄養にするのでエサとかトイレの心配はないですよ~」とピーアールしてきたのと、店主が「もし夜中にイツキがホノカを襲っても絶対今のホノカの方が力強いから安心だしねえ」と茶化してきたために流れでホノカをこっちに置くことになった。

 因みにシベリアンハスキー姿のホノカの声は契約した主人であるイツキにしか聞こえないらしい。


 母親への確認の電話が済むとやることもなくなったので、ホノカに一声掛ける。


「じゃあ俺、今のうちに風呂入ってくるからさ」


「じゃあ私はここから覗いてますね」


 こくんと素直に頷いたシベリアンハスキー。


「……ホノカさん? 何、覗き宣言を堂々としてるんスか?」


「う、冗談ですよ」


 と答えつつも、しゅんと耳と尻尾が項垂れる。

 イツキは溜息を吐く。


 ホノカが何があるわけでもないテレビの裏を興味津々にガサゴソ覗いている隙に、イツキは浴室で服を脱いで廊下に放り出した。

 一人暮らし用のアパートなので脱衣所がないのだ。


 よし、ロールカーテンを買おう、とイツキは固く心に誓う。

 明日、近所のインテリアショップに自転車で全力疾走する自分の姿がかなりリアルに浮かんだ。先が思いやられる……。


 次々とイツキの脳裏に浮かぶ懸念をひとまずは熱いシャワーで洗い流した。





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