8-7 狼人間とカラーボールペン
*
朝日が包む草原の真ん中に小さな家が建っている。家のそばに立つ大木が屋根に影を落とし、そよかな風が若葉の影を煌めかせる。
レモンとアボカドとミカンが暮らす箱庭、朝の世界だ。
夕食後――と言っても外は一ミリも動かない朝の風景が広がっているが――、アボカドが突然に倒れた。
胸の辺りを抑えているので、レモンの食事に
「アボカドッ⁉」
ミカンが咄嗟にトイレの芳香剤らしき魔法道具を取り出した。
それには深い眠りの魔法がかかっている。
魔法道具から石鹸のように清爽な香りが漂ってくると、シャツの胸元を引き千切りそうなほどに握っていたアボカドの手から力が抜けて、ふっと眠りについた。
レモンとミカンが意識を失ったアボカドの身体を寝室のベッドに横たえた時、電話が掛かってきた。
サイドテーブルに置いた布型携帯電話からは、魔法道具店の店主の淡白な声が発せられる。
「こっちでアボカドの“心”を奪っていた魔物を捕らえた。多分アボカドの“心”がそっちに戻ってるはずだ。今アボカドはどーしてる?」
アボカドが倒れたことを店主に告げると、店主は「恐らくだが」という前置きの下アボカドの状態を述べた。
今、アボカドは“心”を二つ抱えている。
一つは魔法石を取り込んで感情を再構成して作った“心”つまりはレモンがアボカドに与えたもので、もう一つは百年前に魔物と取引をした際に奪われた当時十三歳の少女だったアボカド本来の“心”だ。
二つの“心”において、物事に伴う感情が二通り発生することになる。それがどれだけ些細でもアボカドには多大な負担になったのだ。
「こっちでも対処法は考える」
淡々とした店主の一言に、レモンはつい縋ってしまう。
この場では魔女でなくなった自分は途方もなく無力なのだと突き付けられた。
通話を終えて、眠っているアボカドの朝日に透ける金髪を愛おしげに耳に掛ける。
レモンの老婆のように皴だらけの手は短い髪を撫でただけ。髪はするりと滑り抜けて元のように頬にかかった。
時折アボカドは苦しげに眉を寄せてはいるもののミカンの魔法はもう暫く有効そうだ。
助かった。もしもっと刺激の多い外界にいたらアボカドは倒れるだけでは済まなかった。
二つの“心”の摩擦に耐え切れずにもう一つの“心”が戻ってきた瞬間に人格が壊れていた可能性も……。
そこまで思考してレモンははっと息を呑んだ。
この箱庭の朝の世界にレモンとアボカドを寄こしたのは魔法道具店の店主ではなかったか。
あの男はどこまで物事を見透かしているのだろう……。
ミカンが遠慮がちに寝室に顔を覗かせたので、レモンはそっと微笑んで手招きする。
ミカンはレモンの隣に丸椅子を持って来て座った。
「レモン……」
泣き出しそうな声でミカンがレモンの名をその薄い唇に乗せる。
レモンはアボカドによく似たミカンの金髪を静かに撫でた。マネキン人形であるミカンの髪は作り物とは思えない程柔らかい。
「……もし、ね。もしこのままずっと、永遠に、アボカドが目を覚まさなくても……あたしはこれまでのこと、やり直したいだなんて思わないわ……。だってミカンに会えたんだもの。こんなに可愛いあたしのマネキンさんに出会わないなんて、考えもつかないわ」
「レモンは優しいね」
レモンの手に気持ち良さそうに撫でられているミカンから発せられた声は弱々しかった。
レモンは口を尖らせてみせる。ちょっとおどけるように、
「ちょっとぉ。優しいって言われるの、あたしあんまり好きじゃないのよ」
レモンは知っている。ミカンの使える数少ない語彙から一生懸命に思いつく言葉を掛けてくれていることを。
ミカンの強化プラスチックの瞳はレモンを真摯に見上げてくる。
「あ、えっとね! アボカドもね、レモンは意外と
「『意外と』ですって~!」
「あ、あ、違うの! ……僕、レモンに元気になって欲しいの……」
レモンを励まそうと結局は本音を白状してしまうミカンが愛おしくてたまらない。
レモンは心からの笑みを浮かべた。
「ありがとね、ミカン」
レモンはミカンのプラスチック製の身体を抱き締めた。思っていたより華奢な肩が嬉しそうに揺れた。
カーテンを閉め切った寝室にそれでも朝の気配は滑り込んで来て、容赦なくレモンを温めていた。
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