9-1 ユニコーンと洞窟《前編》

 百年前のフランス。第一次世界大戦が収束し、第二次世界大戦を迎えるまでの狭間の時代。


 少女は石畳の街路脇に立ち尽くしていた。

 雪に変わる前の冷たい雨が、母親に掴まれてぐちゃぐちゃになった髪と不格好になってしまったお気に入りの黒いリボンに打ち付けられ、ボロボロのワンピースを伝って、裸足の指先に流れ落ちた。


 母親の吐き捨てるような低い声が耳鳴りになって響いてくる。


 ――うるさいわよ、この癇癪持ち。いちいち泣かないで頂戴。


 甲高く責め立てるいつもの言葉よりも耳に残った。

 少女の方を向くことなく、奥歯を擦り合わせるように、母親は吐き捨てた。


 母親は少女が何か失敗する度に溜息を吐き、少女が如何に努力が足りず堪え性がないか懇々と叱責する。

 少女が涙を浮かべようものならすぐに、この癇癪持ち、と詰った。

 お前は、どうしようもない、癇癪持ち、癇癪持ち、かんしゃくもち……。


 そして玄関から追い出される。

 少女はこれから母親が部屋に招き入れてくれるまで待ち、ごめんなさい、と許しを請わなくてはならない。母親の気が済んで許して貰えることが出来れば家の中に入れる。

 少女の父親が戦争で死んでしまった頃から何故かその一連の過程を経て母親の機嫌を取ることが少女の責務になっていた。


 なんだか吸血鬼みたい。家の主人が招かなければ家の中には入れない。


 不意に雨が遮られた。

 少女が顔を上げると、驚くほどの美貌と目が合った。


 銀色の短い髪が雨から紡いだ糸のように虹色に反射していた。細い指が差し出されて女性だと分かる。

 濃い緑色の上質そうな外套が少女を降り注ぐ雨から庇っていた。

 人形のように均衡の取れた冷たい無表情で少女を覗き込む。


 女性の後ろに少女と変わらないくらいの年齢の男の子が二人。

 一人はくるくるの癖っ毛で少し幼く見える子。もう一人は少女より背が高く短髪の利発そうな子。子供の顔には笑顔が縫い付けられていた。


 女性が口を開く。


「私は、アボカド。そう呼んでほしい。小さなサーカス団の団長をしているんだ」


 少女も慌てて名乗ろうとする。


「あの、私は、」


「いや、いい。それよりちょっと見てごらん」


 アボカドの平坦な声が雨音に吸い込まれていく。


 彼女は自身の服の袖を引っ張るように整えた後「コホン」と咳払いをした。

 芝居がかった動きのはずなのに滑らかで思わずアボカドに見入ってしまう。


 何が始まるのだろう。少女は目を輝かせてアボカドを見詰めた。


 彼女が握った手のひらを開きながらくるりと翻した時には、湯気を立てるスープで満ちた白い陶器がその手にあった。

 たった今、出来上がったばかりのような温かそうなコーンスープ。


 少女は目を見開き、物欲しそうにコクリと喉を鳴らした。


「どうぞ、お嬢さん」


 アボカドの囁きに促され、器を受け取る。スープを口に含むとまろやかで甘いコーンの味がした。

 涙ぐみそうになるのを堪える。


 泣いちゃダメ。この人にまで癇癪持ちの嫌な子だと思われたくないもの!


 再びアボカドがくるりと手のひらを返すと柔らかい白パンが手の中にあった。

 少女はつい夢中で食べ終えてから、行儀悪い態度を取ってしまったことを恥じ入る。


 アボカドは透き通るような硝子の瞳に少女を映した。


「……お嬢さん。もしここで生きるのが辛いのなら私と一緒にサーカスをしないか? ……私はある人に笑顔になってもらいたくてサーカス団を始めたんだ」





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