8-4 狼人間とカラーボールペン


 黒い人物の腕にぐじゅりとイツキの歯が食い込んだ。

 食感はアロエみたいだ。噛み付くそばから水っぽくなって溶けていく。味は例えようがないが口の中は獣臭さで満ちている。

 噛み付くのを止めたら多分今度はイツキが襲われるのでマズったと思いつつも、止めるわけにはいかないのだ。


 イツキたちはまだ井戸の中を落ちている。体勢が崩れると平気で身体が一回転して右も左もどっちを向いていたのかも分からない。井戸の底に不気味な赤い光が見える。


 ローブの男から生じるこの世のものでない絶叫がイツキの耳を麻痺させる。


「……っ。イツキ、先輩っ……」


 イツキの鈍った頭に突如、明瞭に飛び込んできたのは聞き慣れたホノカの声だった。

 その声に向かって思い切り、千切れるんじゃないかというほど必死に手を伸ばすと。


 イツキの意識は急速に浮上した。




 ――目を開けてすぐは電灯の眩しさに目が眩んだ。

 続いて、ソファの隣でイツキの顔を覗き込んでくる犬の黄色い目玉に焦点が合った。

 驚いて一気に頭が覚醒する。


「あ! 先輩、分かりますっ? 大丈夫ですか?」

 

 ホノカの声だ。寝起きの心臓に悪い警戒が過ぎ去っていく。


 ホノカの身体はよく目にする大型犬の三倍はあるような……。黒い艶やかな毛を蓄えた黄色い瞳の狼人間の姿。人魚に毛皮と目玉を与えてしまっていたはずだが……。


「えっと、スンマセン。何がどうなったか説明……」


「面倒臭い。ホノカから聞け」


 説明責任を毎度毎度一度は放棄する店主に代わってかくかくしかじかホノカが話す。


 魔物の力をイツキとホノカで等分して管理するためにホノカと使い魔の契約を結んだらしい。

 ついでにイツキの多すぎる魔力をホノカが制御しつつ、ホノカが以前負った傷をイツキが引き受ける、正確にはイツキ自身の魔力を消費し続けて治療するという形に落ち着いたという。


 店主がじろっとイツキを睨めつける。なんか機嫌が悪い。


「イツキ。お前ふつー魔物喰うかぁ?」


「え、あ~。スンマセン、あんま考えてませんでした」


 目の前にあったんで喰いついてました……、と続けようとして自分がやらかしたことのマズさに押し黙る。


「お前、馬鹿なの?」


 身も蓋もなく評されると胃が痛い。

 ホノカが場にそぐわない間延びした声で口を挟む。


「でもなんか、先輩らしい気はします。高校の時ですけど、バスケの試合とかで皆が疲れてきた後半から先輩めちゃくちゃ活躍したりしますよね。なんかスイッチ切り替わったみたいな感じで、理性飛ぶと身体が動く、みたいな?」


「ホノカさん! それ何のフォローにもなってないっス!」


 店主が「うっわー」とドン引きしている。

 イツキは必死に話題を逸らす。


「あっ、あの! そういえば何で今まで使い魔の契約が出来るって言わなかったんスか?」


「あー、最終手段だと思ってたからね。一度使い魔の契約をすれば、主人が死ぬと使い魔が死ぬ。使い魔が死ぬと制御できていた魔力が一気に主人に戻って来て精神崩壊する。

 ……イツキ。魔法書読んでんだろうな? ここけっこう最初に出てくる説明だけど?」


 イツキはちょこちょこ時間がある時に読んでいた魔法書の文面を思い出しつつ、ちょっと不満気に口を尖らせた。


「じゃあ、むしろもっと早く教えてくれたら良かったのに」


「は? いや、だから……」


「ホノカだけキツイ状態のまま放っとくよりよっぽどいいでしょ。色々リスクあるっつってもホノカだけ傷付いてるより俺も一緒に背負った方がいい」


 目の光も失い身体もそれほど動かせず、レモンたちの箱庭の世界に閉じこもっていなければいけない状態より、ホノカにしてあげられることの選択肢が増えるのならイツキは何だっていいのだ。


「私も、イツキ先輩を守れなかったら生きてる意味ないです。……元々人魚と取引した時にもう、私、死ぬつもりでした……。イツキ先輩が生かしてくれたから、ここにいるんです」


 店主は僅かに顔を引き攣らせて、


「…………あーあーあー、もう! そーかよ、分かったよ。余計な遠回りして悪かったな! そーゆーのは他所よそでやれ!」


 店主は珍しく喚いた後、本棚に背を預けてぶすっと拗ねてしまった。


「え? 何でキレてるんスか?」


 イツキが窺ってもまだ拗ねている。変な人だな、とホノカと顔を見合わせた。


 そろりとどこからかブチ柄の子猫がやってきて、どんまいとでも労わるように店主の足の脛辺りを前足でトントン叩いた。




 ――イツキは店主からぽいっと寄こされた十色カラーボールペンを握って「うえー、ムズっ」と唸りながら魔方陣を描いていた。


 店主は良く言えば『弟子の自主性を養うために余計な口出しをせず見守っている』……要するに面倒臭がっているだけだ。


 イツキがなんとか魔法書と睨めっこしつつ空中に描き上げた魔方陣。

 その上でふわりと無重力状態になったかのようにホノカの身体が浮いた。


 円形の魔方陣はホノカの足元で若菜色に発光し、狼の魔物の黒光りする毛皮を淡く縁取る。

 ホノカ自身は身体の急激に変化の過程で動揺しないように魔法をかけている間は眠らせることにした。だから、今は光輝く黄色い瞳は見えない。


 ホノカはイツキの使い魔になるにあたって人間界に戻ってくることに合意した。

 使い魔は主人のそばにいた方が何かと都合が良いらしい。

 しかし、ホノカが人間の姿で人間界に常在することはもはや不可能である。以前にホノカが自ら人間としての存在を喰い消してしまっているからだ。


 人間界で暮らしていくには、今の通常の三倍サイズ狼という姿をどうにかするしかない。というわけで、イツキは変身魔法で巨大狼の見た目を慎重に調整している。


 先程、店主が億劫そうにホノカに憑りついている狼人間についての説明をした。


「多分フェンリルっていう北欧神話に登場する巨大な狼の姿をした怪物だな」


「あ、それゲームに出てきたことあるやつ!」


 口を挟んだイツキを、進行を遮んな、最短距離で説明を終わらせたいんだよ、と店主の視線が不機嫌に刺す。


 店主の語った北欧神話のあらすじをまとめると。


 北欧神話のフェンリルはロキが女巨人アングルボザとの間にもうけた、またはその心臓を食べて産んだ三兄妹の長子で狼の姿をしている。

 初めは普通の狼とほとんど違いがなかったが、日に日に大きくなり力を増してきた。予言で彼が神々に災いをもたらすと告げられたため、神々はフェンリルを拘束することに決めた。

 神々はフェンリルを拘束するために、なんか色々頑張ってみたもののフェンリルはことごとく拘束を引きちぎってしまった。最終的にドヴェルグに作らせたグレイプニールという魔法の紐を用いて、フェンリルの拘束に成功したのだという。    

 因みにドヴェルグはドワーフのことで北欧神話では闇の妖精という立ち位置らしい。


 店主は説明を「○○サイトより」の一言で締めた。


 ん? んん?


 若干イツキが思考停止する。イツキの思考が再開して、


「え、いや、どういうこと? じゃあその話は事実じゃないんスか? てか、今までの説明何だったんだ」


 店主は飄々と凝りを解すように首を回した。


「さあな。要はホノカに混じってる魔物の特徴がフェンリルに似てただけだしね。

 ……最初にあの魔物の存在が確認できたのは百年前。ヨーロッパのレモンの家に封印されてた。魔物自体がガチガチに拘束されてた形跡があること、炎を吐くこと、言葉が通じていて駆け引きや取引をすること、狼の姿だったこと……まあ、そーゆー特徴があちこちフェンリルに一致してたからあの魔物をフェンリルって呼ぼうってだけの話だな。

 実際、人間の作り出した神話やら都市伝説やらの経緯が事実かどうかは関係ねえんだよ。もし今話してた北欧神話が事実でも何でフェンリルが百年前にヨーロッパに流れ着いてたかも不明だし。そーゆー経緯よりどう対処するかのがよっぽど大事」


 納得いくような、いかないような……。


 でも確かに本来なら人間界にいるはずのない架空の種族や妖怪やらが、人間の作った話の通りにここに存在しているのだと考えるよりは、そういう架空に語られていた存在を後から発見して名前を当てはめた、と考える方がまだ分かる。


 顎に手を当てて脳内で店主の話の妥当性を検討するイツキ。

 店主がくいっとイツキに向かって顎を煽った。


「で、お前は神々と渡り合っていた北欧神話の怪物をガブガブ喰べたわけだ」


 イツキが「うぐっ」と喉で呻いた。

 嫌な事実を嫌なタイミングで蒸し返す。ほんとこの人、性格悪いな。





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