9-4 ユニコーンと洞窟《前編》
*
ダイヤが目覚めると、正面に錆びれた鉄格子があった。
剥き出しの岩で四方を囲まれている。つららのような形状の岩の天井から落ちた水滴がぴちょんと反響する。
自分が今いるここは洞窟のようだ。
ダイヤが座り込んでいる所は鉄格子で囲まれている。どうやら自分は誰かに連れ去られたらしい。
てか何で捕まってんの、俺何もしてないのに!
地面には藁が敷き詰められてふかふかしている。
見回すと白い馬がいた。淡いパープルの光が牢を照らしている。
光を帯びる馬の眉間には細い巻貝のような角が生えている。
うわ、ユニコーンだ。という感想で手一杯だった。
ユニコーンは悲しそうにぶるると鼻を鳴らした。
ぐわんぐわんと地鳴りのような反響音をダイヤの耳が捉えた。
話し声だろうか。鉄格子に頬を擦り当て聞き耳を立てる。
洞窟の奥で炎色に蠢く岩場に落ちた黒い影を視認する。
頭を捻じ込むように鉄格子に押し付けると、それらの影の本体を見ることが出来た。
一体は鼻息荒く歯を剥き出しにした牛の頭に、屈強な人間の男の姿。分厚い絨毯のような黒い布を腰で縛って身に着けている。つまりはミノタウロスの伝説そのままの姿だ。
もう一体はカツカツと神経質そうに蹄を踏み鳴らす茶色い毛色の馬の身体に、年配の女性の上半身がくっついている。ケンタウロスは青年の姿でしか聞いたことがないが、そうと言う他ない。
この時この手の話題が好きなジロウに訊けば、ケンタウロスの女性形はケンタウレというのだとすぐさま答えが返ってくるのだが生憎今はいなかった。
馬の身体にくっついている女性はパーマをかけ過ぎたようなアフロに近い形状の髪を振り乱し、粘っこくミノタウロスを挑発している。
ダイヤは暫く耳を傍立てていたが、やがて諦めるしかなかった。
二体の会話は明らかに日本語じゃない。
これから自分はどうなるのか、何をされるのか、無事に家に帰れるのか……。嫌な想像ばかりが次々と湧いては消えずに溜まっていく。泣きそう。
隣でダイヤと同じ立場らしいユニコーンの瞳が不安げに揺れたことに気付き、おっかなびっくり背中を擦ってやった。
多分ダイヤの脳内はこの時点で『誰か助けて~』と百回はリピートしていた。
*
児童養護施設の階段の踊り場に少女……イチゴは背を凭れていた。
目の前には男の子たち……ふわふわの癖毛のキウイと、ツンツンした短髪のレタスがいた。
夜の八時半。この時間帯は先生たちは夕飯の片付けに忙しいので先生たちに秘密の、子供同士の話をする時には今を選ぶ。
イチゴはぽつりと漏らした。
「アボカド団長のとこに帰りたい……」
百年前、アボカドに連れられて笑顔を縫い付けられた。
少女は名も無いピエロ人形としてサーカスで踊った。
最初は恐怖ばかりが心を占めていた。怖くて怖くて堪らないのに顔は微笑んだまま。涙を流すこともない。
しかし、少女は初めて立ったサーカスの舞台で恐怖とは違う感情も得ていた。
観客の歓声、笑い声、囃し立てる声、賞賛の口笛、舞台全体が揺れるような大きな拍手。それらが自分に向けられた時の高揚を知ってしまった。
ああ! 私は必要とされてるんだ! どれ程に気を引こうともママはくすりとも笑ってくれなかったのに。私はなんて小さな世界に閉じ籠っていたんだろう!
ショーの後、お客さんが波のような騒めきと共に退いていった。
公演の終わりには必ずアボカド団長が冷淡なままの顔で頭に触れてくれる。
束の間だと分かっている温度に毎度寂しさが込み上げた。
でも少女は泣かない。ずっと笑顔だ。
今の私ならママに嫌われないで済む。涙を見せて、この癇癪持ち、とアボカド団長にまで嫌われないで済む。
どれほど辛くとも悲しくともピエロ人形の少女はいつもにっこり笑った。それが誇らしかった。それが唯一自分が誇ることを許されたものだった。
でも、今は違う。
今、イチゴという名前を貰った少女は上手く笑えなくなってしまった。
笑顔の貼り付いたピエロ人形の顔ではなく、いつかの人間の少女に戻ってしまったから。
小学校の先生に叱られる時、イチゴが笑っていればきっと先生も機嫌を直してくれるはずなのに。
それなのにイチゴは大嫌いな、癇癪持ちの、泣き虫の、可愛がられない女の子になってしまった。
階段の踊り場の一点を見るともなく見詰めて、イチゴは学校の先生に叱られたことを思い出してしまった。
「団長のとこに帰りたいよ……。二人はどうなの……?」
泣かないように目元に力を入れると、イチゴは不貞腐れるような顔になって二人の男の子を睨んでしまった。
キウイは眉をハの字にして、けれどイチゴを咎める。
「でも、そんなこと言ったってアボカド団長を困らせるよ」
「そうだよ。団長は僕らが人間界で暮らすのが一番いいって思ってるんだし」
キウイやレタスが言っていることはイチゴだって分かっていた。
キウイたちはイチゴを諭しながらも悔しげに目を伏せた。キウイが虚しく付け加える。
「けどさ、施設の先生たちはいい人だよ」
それもとうに分かっているけど、そうじゃない。
レタスは尤もらしく頷いたので、イチゴも口を引き結んだ。
でも、そう。イチゴだって本当はちゃんと要領良く人間界で生きていかなければならないことは理解していた。
今や人間界以外に自分たちの居場所はない。
小学校のお昼休みの時間。イチゴは運動場でキウイとレタスを見つけた。
キウイが一生懸命クラスメイトらしき子に話していて、レタスがそうそうと横から相槌を打つ。キウイのふわふわの髪の毛が熱心に跳ねているのが背後からでも分かった。
その話題がサーカス団の旅行記だと思い至った時、イチゴの頬は羞恥に熱くなった。クラスメイトたちが胡乱げにキウイを見ているのが分かった。
ああ、ダメだ。このままだと良くない。キウイが皆に嫌われちゃう。
確か里親の家のダイヤというお兄さんもイチゴが懸命に話すほど笑顔のぎこちなさが増していった。
私が、キウイを助けなきゃ。
イチゴはキウイたちの背後から顔を出して無理に注目を集めさせた。
「あーもう。ほらほら、夢の話ばっかりするのは止めなよキウイ。皆、びっくりしてるでしょ」
あくまで子供の世話を焼いているお姉さんのように諌める。
今度はキウイが不可解そうに眉間に皴を作る。
「夢の話じゃないよ、イチゴも知ってるでしょこの話。アボカド団長がユニコーンを拾ってきて……」
イチゴは無理に言葉を割り込ませる。
「ああー! あれね! 漫画の話。皆でよく回し読みするの」
イチゴの明るく繕った声に、周囲の一部がへ~と興味を引かれた顔をした。
イチゴたちが養護施設から小学校に通っていることは隠していないので「施設では漫画読んじゃダメって叱られないの? 羨ましい~」とでも思われたのだろう。
イチゴはひとまず空気が軽やかになったことを感じて、ほっとキウイとレタスの方を向いた。
二人は満月みたいにまんまるに目と口を開けていた。
イチゴが何をしたのか分からないというように。もしくは、サーカス団での思い出をただの夢の話や漫画の話に貶めたイチゴを非難するように。
イチゴはたじろぐ。
あれ? なんで、なんで。私はだって、キウイたちを助けるためにそう言ったのに。
イチゴは居たたまれずに踵を返し、運動場を通り抜け校門を飛び出してしまっていた。
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