8-2 狼人間とカラーボールペン


 三限目の講義を終えた時、イツキの前に座っていた顔見知りの男子学生がくるりと振り返って話し掛けてきた。イツキと同じ学科の同学年、川下だ。


 受け答えながらも真意を探る。普段こんな挨拶を長々と喋る奴じゃないからだ。

 話の区切りがついた時、川下が今思い付いたように声を上げた。


「あ! あのさ、ちょっと、金貸して」


 内心は、はあ? と思いっ切り顔を顰めたかった。

 イツキは相手を凝視しながら、


「……いくら?」


「あ、取り敢えず、五万で」


「悪い、無理」


 即座に川下の申し出を切り捨てて席を立った。

 彼は切羽詰まったように縋る。


「頼む。今日、財布忘れたんだわ」


「俺だって今、五万なんて大金持ってねえよ」


「……コンビニで卸してくれれば……」


 ここまであからさまな詐欺があるかとイツキは乱暴に川下の腕を払う。


 その時イツキは彼の手首に痣が、というよりイツキにとっては魔法書を読む中で見慣れた魔方陣らしき印があることに気付いた。頭が冷える。


「……それ、何……?」


 川下はイツキが指差した痣を嬉しそうに撫でた。


「森野も興味ある?」


 川下から話を聞くと、ある人から貰ったのだという。


 彼は昨日、ある団体に勧誘されて加入した。

 それは大勢の人間が加入している慈善団体で、より沢山の人からお金を借りることが出来る人ほど団体内でのランクが上がっていく。ランクが上がれば自分の願いがどんなものであっても叶えられるのだそうだ。


「……それ、完全にカルト宗教じゃん。お前大学で何習ってんの」


 イツキと川下は法学部だ。

 怒りとか呆れとかを蓄えすぎてイツキの声音が平坦になる。


「いやあ、そーなんだけど。それは分かってるけど。願いを叶えるのはマジらしいぞ」


 ヘラヘラしている目の前の知人を殴らなかっただけイツキは大人だった。




「……ってわけなんスけど、これうちが解決すべき案件っスよね?」


 自販機で買ったソーダを喉を鳴らして飲み、布型通信機にカルト宗教のあらましを話した。


 ちなみにこの通信機は一見、裁縫道具の針山に見えるが、離れている相手と話せる魔法道具だ。

 現代科学で発明された携帯電話との違いは、衛星のないところでも異界を跨いでも通信できるところくらいだと以前、店主が詰まらなそうに解説した。


 イツキは割と詳しく説明したのだが、店主は「今回はお前が自分で解決してみろよ」と丸投げモードだった。

 弟子に修行をさせてやろうという心意気ではなく、完全に面倒臭がりだ。

 イツキは分かっていながらもげんなりした。


 兎も角、イツキは川下の案内でカルト宗教の調査を始める。その団体が拠点にしているビルがあるらしいので訪ねることにした。


 ビル内。案内された部屋の中央に黒い影のような男が座っていた。


 イツキはその人物を眼前にし、戦慄した。

 脳内で危険信号ばかりが瞬く。

 案の定。


「この人だよ」と呑気に左手で示した川下が、その人物が伸ばした左腕にぐわんと喰われた。


「なっ……⁉」


 イツキは反射的に数歩飛び退く。こめかみに心臓が移動したようにドッドッドッと心音が響く。


 さっきまで川下がいた場所に立った得体の知れない男。

 ローブで顔を隠す黒い影がこの世のものではないだろうということだけ分かる。


 イツキは無駄かもしれないと思いつつも、声を張った。


「……あんたは誰っスか? 今、川下を喰べたのか……?」


「欠片だ……欠片が足りない……。……願いを叶えてやる。……代償を支払え……。代償を、お前の最も大切なものを差し出せ……」


 文脈も何も意識していない虚ろな言葉におぞましさを覚える。

 イツキの鼻に獣臭さが掠めた。

 頭の隅にはそう多くない選択肢。


 背を向けて、逃げるか? ……逃げ切れるのか?


 戦う? どうやって……⁉ 今、何の手段も持ってないのに!


 店主が助けに来るまでの時間を稼ぐ? 助けに来るのか、あの面倒臭がりの人が? いや、きっと来る。大体いつもの流れだともっと大きなトラブルに発展する前に動いてくれるはずだ、多分!


「ザザ……」


 テレビの砂嵐のようなノイズが黒い人物から発せられる。

 イツキがそれに身構えると、


「……ホ、ノカ……。ホノカ。そうか、そこに、いたか……」


 先程の虚ろな男の声とは違う、罅割れた電子音のような声だ。


「ちょっと、待て……! 今、ホノカって言ったのかっ……?」


 イツキがホノカの名に狼狽えて心に隙が出来た瞬間に、黒い男は背後に回っていた。

 その人物はドロリと溶け、イツキの中に憑りついた。




 覚束ない足取りでアスファルトの坂を上る。

 向かわないと。向かわないと。


 道路をつま先で蹴り付け、突っかかってこけそうになる。

 向かわないと。早く、早く歩くんだ。


 上り坂でよろめきながら足を引き擦る。


「早く、早く行かなきゃ。早く……」


 ……どこへ? 自分はどこへ向かってる……?




 辿り着いたのは魔法道具店だ。

 窓辺のソファに腰掛けるのがイツキのお決まりになっている。奥の机でだらだらしている店主の姿を一瞥する。

 冷蔵庫からタイ焼きでも出そうかと思案した時、店主がイツキの横に立ち見下ろしてきた。


「え、何スか?」


「お前、何を連れてきた?」


 店主の問いの意図が分からず首を捻る。

 店主は冷淡にイツキを観察する目だ。


「……何って、俺は何も……つーより、自転車忘れたみたいっス」


「へえ?」


 イツキがへらりと笑って見せても、店主は視線の鋭さを一際深める。


 イツキは自分が狼狽えていることに気付いた。本当は分かっているのに見えていない振りをしている何かがあるような。


 店主は腕を組み、ソファーの肘掛けに腰を凭れ掛けた。唐突に話し出す。


「……俺が百年前から追ってる魔物がいるって話、前にしたよな?」


「え?」


 記憶を掘り返すと、もしかしてと思い至った。


 百年以上前、レモン――現在は世界の全てから隔離された箱庭で過ごしている元魔女――が十一歳の人間の少女だった頃。


 レモンは比較的裕福な家庭の娘だった。

 彼女は幼馴染のアボカドと共に生きることを望み「アボカドと結婚するの!」と言い張ったが、周囲は、特にレモンの母親はそれを理解しなかった。

 当然だ。周囲から見れば子供の言うこと、仲の良い幼馴染のだからだ。当時、同性婚は認められない。

 レモンは自分の願いを叶えるために自身の屋敷の地下にあった封印を解き放ってしまった。

 そこには魔法石に姿を変えられた魔物が封じられていた。レモンを救うために助けに飛び込んだアボカドは“心”を売って魔物と取引した。


 その後、逃げた魔物を百年間店主が追っていたようだ。


「それで、えっと? その魔物はどうなったんスか?」


「……ああ。五十年前に一度瀕死の状態まで追い詰めた。そん時にバッカスがやられた。けどそこまでしても結局逃げられたんだよね。魔物の怨念みたいなもんが人間界のあちこちに散らばって回収困難になった」


 バッカスがやられた、という文言には聞き覚えがある。


 確か不死鳥であるバッカスは五十年前に死んで、生き返るまでに二十年かかって、現在生き返ってから三十年経っているんだったか。

 当時バッカスを殺したのが、アボカドの“心”を奪った魔物……。


 嫌な繋がり方にイツキの背中を冷や汗が伝う。

 店主がイツキの顔が曇っていることもお構いなく言葉を投げる。


「……で、最近になって魔物の残りカスに過ぎなかった怨念が意思を持って集まり始めたって怖い話がある。人間に憑りついてどころにして、普通の人間に混じってうろうろしてるんだと。ああ、ところで、飛び散った魔物の魔力を持った怨念の一つはどこに落ちたと思う?」


「えっと、どういう……?」


「それまで人間だったのに突発的に異界のものと混ざったりは普通しねえんだよ。怨念が憑りつく先に選ばれたりしない限りはな」


 まさか、と零す前に腑に落ちてしまった。

 店主が示唆しているのはホノカのことだ。


 店主が以前に告げた。

 魔法道具店を訪れる前からホノカは人間界にないものと混ざっている、ホノカは狼人間だ、と。

 それは店主の追っていた魔物の怨念の欠片がホノカの魂に混ざった状態だったのか。

 …………。


 ……許せない。こんなはた迷惑な話、冷静に聞けるか。

 ホノカがどれだけ迷惑したか。

 おそらく半年も魔物と混ざった状態の身体で耐えていたのだ。一人で苦しさを抱え、イツキを助けようとして自身の身を捨てる真似をした……。


 イツキが怒りを露わにするのを待ち構えていたように、意識が心の奥に引き摺り込まれた。





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