5-5 透明人間と包帯


 イツキは崖を降りた先に人影を見つけ、走り出した。

 一人は波打ち際に倒れているホノカ、もう一人は青い髪の人魚だと近付きながら分かった。


 イツキはそれが何だ、と言わんばかりに思い切り人魚の肩を突き飛ばした。


「ホノカに何してんだよっ⁉」


 人魚は海の中に身を翻して飛び込み、数秒で海面から顔を出すと岩場に腰掛けた。イツキの介入がお気に召さなかったようだ。


 イツキが名を呼び、ホノカを振り返るとホノカの黒い瞳は空を見上げ虚ろだった。


 イツキは急いでホノカの身体を水から乾いた砂浜に引き上げる。

 Tシャツとジーンズから覗く包帯は解けかけている。そこから見える白い肌には傷跡一つない。

 しかし、ホノカは意識を持たない無機物のようにぐったりと動かない。


「ホノカッ!」


 ホノカの血色が悪すぎて紫になった唇だけが微かに動く。


「先輩……。ダメじゃないですか……。何で、私なんか……」


「帰るぞ! これ、手当てする必要があるんだろっ⁉」


「いえ……。私、多分もう死ぬので……」


 イツキがホノカの呟きが信じられず訊き返そうとした時、青年の綺麗な声が遮った。


「ねえ、君の肌、瑞々しそうで素敵な色だね」


 人魚の青年がイツキを物欲しそうな顔で見ている。

 ホノカが焦ったように途切れ途切れの声を上げた。


「や、めて……。先輩には、手を出さないで、下さい……。とるなら私から……」


「要らないよ、君はもう残骸でしかないじゃないか」


 イツキはホノカを見下し言った人魚のその一言に自身の中の何かがブチ切れた。


「……ふざけんな。ふざけんなよ、お前っ!」


 海に入り人魚に掴みかかろうとしたイツキを止めたのはホノカの独り言だ。


「私、人魚と取引したんです……。人魚の涙を貰う代わりに……私の毛皮と目をあげました……。これでいいんです……。気持ち悪かった、から……狼になった時、自分が恐ろしくて……。だから、これでいいんです……」


 毛皮と、目をあげた……? では先程からホノカは目が見えていないのか……?


 唐突に、イツキが抱き起したホノカの輪郭が限界を超えたように、崩れた。

 バキバキと木の板を割るように連続的な音を立てながら、ホノカの身体がイツキの背と同じくらいに膨れ上がり、変貌していく。


 赤黒い肉が剥き出しになっていた。

 その塊が身を震わせる度に表面を伝う黒い血がぐじゅりと水音を立て飛び散る。所々から白い骨が枯れ木のように突き出している。

 原形を留めない。顔がどこかも分からない。あまりに歪な姿。


 その塊をイツキは何の躊躇もなく抱き締めていた。

 力加減が分からぬまま“ホノカ”を手繰り寄せる。


 二人の重なった影は海岸の洞窟の入り口のように窪んだ岩場に落ちていた。

 ルビーやエメラルドやアメジストを透かしたように煌めく幻想的な色合いの影にあまりに似つかわしくない、狼人間だったものが一つ。


「馬鹿だろ……。俺のためだったんだよな……。お前が、そんなになったの」


「……どうなん、でしょうか……」


 イツキに答えた声が二重、三重にも罅割れていた。

 その中に確かにか細い少女の声音を聴き取る。


「お前、そんなに健気キャラだったっけ……?」


「……酷いですよ。……私は、最初から、鶴の恩返し並みに健気ですぅ……」


 ホノカはおどけてみせたらしい。

 イツキの耳元には後輩の少女の体温があった。


 イツキは“ホノカ”を背に庇い、人魚を見据える。人魚はわざとらしく「うえっ」と吐くようなジェスチャーをする。

 ホノカの流した黒い血が浸み込み、イツキの服と肌を染めていた。


 イツキは何が辛いのか悔しいのかも分からない気持ちに支配されていた。人魚がイツキたちに近付いてくる。

 気付くとイツキの目の縁から涙が零れていた。


 それに目を留めた人魚が楽しそうに無邪気にイツキの涙を掬う。


「綺麗! 綺麗! これでいいや、久し振りに最高の“人魚の涙”が作れそうだな!」


 人魚は上機嫌にはしゃいで海の中に潜り消えた。


 イツキは最初に人魚を見た時から、あれは人間には共感できないものだと感じていた。

  以前、魔法道具店の事件で鬼と関わったこともあったが、それより遥かに言葉が通じない。関わってはいけないものだ。


 人魚が去ってから背に庇っていた塊を再び抱き留めた。

 ホノカはシューと音を立てて、風船が萎むように、元の人間の、傷跡すらない姿に戻った。

 けれど瞬きを繰り返し、か細い吐息を漏らす様子に今すぐ治療する必要があることは明白だった。


 イツキはホノカの身体を抱き上げた。軽い、軽すぎる。二十キロもないんじゃないか。

 ホノカの顔色の変化を見逃さないよう、所謂お姫様抱っこでホノカを抱えたまま走り出した。


 かなり急な坂になってはいるが海辺の崖の上まで続いている岩場を苦労して上る。


 腕の中のホノカは痛みを堪えようと夢中なのだろう、イツキの首と鎖骨の間に爪を食いこませていた。ギギギ、と傷が大きく裂け、パタッパタッとイツキの首から血が飛ぶ。


「ごめんなさい……。私、先輩の、存在を喰べてしまい、ました……。わざとじゃ、ないんですけど……」


「存在を喰べるってすげえ言葉……」


 息荒く走るイツキに揶揄う気配を感じ取ったのか、ホノカが拗ねる。


「私、すっごい、真面目に話してますって……。

 ……でも私、自分が許せなくて……。自分の存在も、喰べちゃいました……」


「は? どういう意味だ……?」


 訊き返したイツキの声は掠れていた。訊き返しながらもホノカの言葉の意味を理解してもいた。


 ホノカの家を訪ねた時、ホノカの母親は「私に娘なんていない」と答えた。嘘を吐いている様子じゃない。

 本当にホノカという存在が消えてしまったのだ、いや、ホノカが自分で喰べてしまったのだ。


 ホノカが虚ろな瞳で少し微笑んだのは、イツキがそれらを察したことに気付いたからだ。


「私の母は……昔からちょっと育児放棄気味の人で……。父も、私が、手がかからなくなると、ほとんど母と同じように接するように……いえ、必要なければ、話し掛けてもくれなく、なりました……。

 私はあの家に、いてもいなくても、同じなんです……。だから、私の存在が消えても……誰も、何も変わりませんから……」


 イツキには初耳の話だった。

 少なくとも以前、子どもたちの世話を焼くホノカを見た時はそんな家庭で育ったなど思いもしなかった。


 イツキは反射的に大きな声を出していた。多分ホノカの弱々しく自身の価値を否定する言葉を遮断したかったのだ。


「変わる! お前がいなくなったら、俺は……困る、多分」


「多分……?」


 ホノカが呆れ返って非難するトーンで問う。

 イツキは、汗で頬に貼り付いたホノカの黒髪を払ってやりながらホノカの身体を抱え直した。


「ホノカ、俺と付き合って。多分俺、お前が好きだから」


 イツキは世間話の延長の口調で告白した。


 ホノカはぱちぱちと瞬きし、痛みを忘れたように顔をほころばせた。甘やかな声音でイツキの肩に囁く。


「お断りします」


「………………ああー、うん、分かった」


 イツキが一瞬固まった後、不自然に数回頷いた。

 イツキだけが気まずい沈黙が降りてくる。


 ホノカは幸せそうに、ちょっとイツキの鼻を明かし得意気に笑って、イツキの首に腕を回した。




 崖を上った先には魔法道具店の店主がいた。店主が一部始終を知っていることは言わずもがなだ。

 崖の上は草原が広がっていて風が服や髪をはためかせる。


 イツキは何の説明もせず一言。


「ホノカを助けて下さい」


「ええー、んじゃあ、百万円払えよ」


「いいっスよ。一生働いて払います」


 イツキは何の躊躇もなく頷いていた。

 店主は表情を消し、イツキの心の奥を覗き込んでいるかのように目を細めた。


「何でそこまでする? お前はホノカに興味ないだろ」


「ここでホノカ見捨てたら俺ダサすぎるだろ。それは嫌なんで」


「へ~。結局自分のためか」


 店主は明らかに馬鹿にしながら、冷酷にイツキを見定めているのが分かる。

 イツキは清々しく笑って、


「はい。自分のためっス」


 絶対に諦める気はないという意図で発した台詞はいっそ脅すようにも聞こえる。

 

 店主はこの答えに満足したように、声の色合いを和らげた。


「じゃあ百万はいいから、俺の後を継いで魔法使いになる?」


「え、やだ」


「百万払うより嫌なのかよ」


 ははは、と珍しく肩で笑う店主。


「そんなら、ホノカの命は? ホノカを失うより魔法使いになる方が嫌か?」


 店主はイツキの答えが分かっていて訊いている。

 イツキは苦虫を嚙み潰したような顔をするしかなかった。


「いいえ! なればいいんスか、魔法使いに? そうしたらホノカを助けてくれるんスね?」


「ああ、まあ助けるつったって皮膚と目は盗られてんだからもう元には戻らないけどな。止血して命は助けてやれる」


 イツキは怪訝に思って首を傾げる。


「取り返せばいいんじゃないんスか? あの人魚からホノカの毛皮と目を」


「無理だろ、人魚が一度手に入れたコレクションを手放すわけが……」


「殺せば? 人魚を殺せばいいんじゃないんスか?」


 店主は息を呑んで目を見開いた。


「……ああ、そっか。お前もそーゆーことを普通に言う“人間”なんだな……」


 店主に失望や憐憫の色はなくただ驚くままに呟いた様子だった。

 しかし、すぐにその驚きを引っ込めて風に翻弄される髪を鬱陶しげに払った。


「人魚は不老不死だ。あれは殺せる代物じゃない。だが言っただろ、ホノカはちゃんと助けてやる」


 イツキはもう店主の言葉に異を唱えることはせず頷いた。

 朦朧とした意識のままイツキの腕にしがみついているホノカ前髪までも風は撫でていった。





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