5-4 透明人間と包帯


 ホノカが帰宅するとイツキはいなかった。流れてきた風の匂いでイツキが魔法道具店に程近い街路にいることを知る。


 普通の人間の何千倍も利く鼻はこういう時には便利だ。イツキは律儀にも、家に帰るなというホノカの言い付けを守ってくれているらしい。


 ほっと安心して息を吐くと、今のうちにと制服を脱ぎタンクトップ姿になって自室の鏡の前に立つ。

 制服のスカートからカッターナイフを取り出し、背中の皮膚に滑らせた。




 数か月前のことだ。

 自分の中から心当たりのない破壊衝動が湧いてくることに気付いた。


 ――全てを壊してしまいたい。噛み砕き、爪で裂き、押し潰したい。存在を喰らいたい。壊れたい。


 突然に襲ってくる衝動に最初の一週間は辛かった。

 が、ある時偶然に指先を怪我した。滴る血の匂いを嗅ぐと少し身体が楽になることが分かった。

 それ以来辛くなると少し指を切って血を舐め、やり過ごすようにした。


 数日前、ホノカの身体が変貌した。

 鏡を見ると一匹の黒い狼がいた。目が黄色く夕闇に光っている。

 それが自分だと認識した瞬間にパニックに陥った。訳も分からず部屋を飛び出した。


 次に周囲の状況を冷静に把握できるようになった時にはイツキを自室に攫ってきていた。

 大学から帰宅途中のイツキと遭遇かつ衝突し、イツキが気絶してしまったので、やむを得ず連れて帰ってしまったらしい。


 ホノカはイツキを誘拐した時にはもう、イツキを喰い千切ってしまっていた。




 ホノカはカッターの刃を背中からそっと離した。

 今回はかなり広範囲の皮膚を剥いだため、血を失い、目眩がしてカーッペットの上に座り込んだ。

 救急箱から包帯を取り出すのも億劫で暫くぼーっとする。


 と、その時だった。


「ホノカッ⁉」


 イツキがホノカの自室に飛び込んできた。

 ホノカの背に視線が向くと、ぎょっと顔が強張る。


「何で、先輩、帰ってきたんですか……?」


「お前、何してるんだよっ!」


 怒気を抑えきれないイツキの声に、ホノカは取り敢えず「あ、えっと、すみません」と謝る。正直、何故イツキが怒っているのか分からない。


 ホノカが困惑していることを感じ取ったイツキは更に信じられないと言いたげに目を見開いた。

 しかし、すぐに自身を落ち着かせるように息を吐く。


「……まずは手当てだ。どこ?」


 手当てできる道具はどこだ、という意味だと理解したホノカは救急箱の場所を教える。


 イツキに手当てされながら、ときめきを押さえられなかった。

 自分は今タンクトップだ。裸の肩にイツキの手が触れる程に心臓の音が早まる。

 いつもより真剣な表情で好きな人が自分の背中に包帯を宛がう。


 ホノカはそんなことを考える自分を心の中で叱責して唇の裏を噛んだ。


 イツキはホノカが着替えている間、背を向けていた。

 そのままホノカに話し掛けてくる。


「何でこんな事してたんだ?」


「……先輩は知らなくていいですから」


「そうかよ」


 溜息交じり不機嫌さを吐き出すイツキ。

 唾を飲むほどの間が空いて、固い声が続く。


「お前は狼人間らしいな」


 びくりとホノカの肩が跳ねた。

 ああ、そっか。知っちゃったんだ……。


「すみません、黙ってて。

 ……先輩が私みたいなのに関わりたくないのは知ってるので、先輩が元の状態に戻ったらもう一切関わりませんから」


 自分の声に温度がないのは、少しでも温度を載せたら決壊するからだと知っている。


 ふわり。

 不意に温かいものが肩のあたりに触れた。


 それが怪我をした身体に触れないようにホノカを抱き締めたイツキの手だと気付いたのは数秒後だ。


「馬鹿か……! もっと自分を大事にしろよ……」


 イツキの声は怒りに震えていた。


 何でイツキが怒っているのかはやっぱり分からない。

 けれど、ホノカのために怒ってくれているのだということがストンと腑に落ちた時、報われた、と思ってしまった。


 爪の先に載るほどの小さな粒。人魚の涙と呼ばれるそれが虹色に瞬く。


 もういっか。だって、きっと私はこの人に恋したことを後悔しない。だったら、最後に好きな人の役に立とう。そうして消えるんなら、いいや――。



 イツキは、ホノカの家のリビングで眠っていたはずが朝目覚めると住んでいるアパートの布団の中にいた。

 混乱するままいつもの習慣に従って大学に行く。

 同じ学科の男友達、川下とすれ違った。


「おはよ」


 とイツキが声を掛けると、


「おう、おはよ。ずっといなかったけど何かあったか?」


 ごく普通に、長期間休んでいた友達を心配する返事が返ってきた。

 イツキは心の底から安堵しながら当たり障りのない答えを返して彼と別れた。漸く今まで通りの生活が戻って来たのだと実感できた。


 ――じゃあ、ホノカは?


 ふっと当然のように湧いてきた疑問にイツキの心臓が嫌なざわつき方をする。


 大学帰りに隣町のホノカの自宅に向かった。

 玄関に出てきたホノカの母親はホノカのことを覚えていない様子だった。覚えていないというより最初から娘など存在していないと思い込んでいた。


 最後に見たホノカを思い出す。

 包帯が袖から覗く、その痛々しさ。それを何とも思っていない様子。奇妙に卑屈な口調。

 あの時、ホノカに狼人間の血が混じっているという事実が何でもないことのように思えるほど様子がおかしかった。


 イツキは魔法道具店に駆け込んだ。

 肩で息を吐くのももどかしげに怒鳴る。


「ホノカがいないんスよ!」


「あ? ああ、なるほどね」


 店主は何かに思い至った顔だ。


「ホノカがどこにいるか知ってんスかっ? 教えて下さい! いや、ホノカのとこに連れてって下さい!」


「何で?」


 店主が冷徹にイツキの言葉を切る。


「お前、ホノカに興味ないんだろ? 放っとけば? ホノカがどうなろうとお前はもう普通の生活に戻れるんだからな」


「…………」


 自分の中に行き場のない怒りを感じたが、一方で店主の台詞を割と冷静に噛み砕いていた。

 イツキは押し殺した声で、


「ホノカがどうなろうと、つったか? じゃあ、ホノカがどうしているかあんたは知ってるんスね?」


「ああ」


「……ホノカが人魚の涙を欲しがったのは俺のためスか?」


 店主は意外そうに眉を上げた。


「何でそう思う?」


「別に理由とかないんスけど。勘です」


 店主は椅子から立ち上がって、イツキの目を覗き込むように屈んだ。


「……それ知った上で、ホノカに会いに行く~ってのがどんだけ自分勝手か自覚してんの?」


「だから? 俺はだいたいいつも自分勝手なんで関係ねえっス」


 イツキが睨むほど強く店主の顔を見返すと、店主は面白がるようにニヤリと笑った。


「いいよ。ホノカのいるところに連れてってやる。でも手助けはしねぇよ。こっちは謹慎中の身なんでね」



 波のさざめきが鼓膜を打つ。

 砂浜に横たわるホノカの左半身を波が濡らしては引き、濡らしては引く。

 じっとしている間は痛みが鈍る気がして、ひたすら雲一つない空を瞳に映していた。


 海面からまばらに岩が伸びて、ホノカを見下ろせる位置のその一つに人魚がいた。青い髪を持つ上半身は青年の姿、下は魚の鱗に覆われたしっぽ。


 彼は満足げに薄い色とりどりの布の中から黒いもの……狼の毛皮を頬に摺り寄せていた。

 狼の毛皮は海に濡れても陸に上がればすぐに水がはける。

 すっと乾いた毛を撫でれば手のひらに吸い付くように柔らかく靡いた。


 人魚はザバンと水に飛び込むとホノカの前の砂浜に泳いで行って身を乗り上げた。

 人魚の青年はホノカの目を覗き込む。


「空の色を映して金色に輝く目……。なあ、それも私にくれないか?」


 高価な宝石をねだるような人魚の無邪気な期待。

 ホノカはふっと厭世的に口の端で笑って、


「……いいですよ。でも、これ以上欲しがられても……あげられるものは、ありませんからね……」


 人魚は嬉しそうに笑い、水かきのある冷たい手でホノカの眼球を抉った。




 ホノカの瞳が何も映さなくなった時、走ってくる足音がした。人魚ではない。人魚に足はないから。


 走ってきたそれがホノカの前で止まった瞬間に、ドンッという物音と騒々しい水音が立つ。


「ホノカに何してんだよっ⁉」


 イツキの声だと分からないはずがない。


 ……何でここにいるんですか?


 そう責めようとしたが、泣きそうになるのを飲み込むのに必死で声が出なかった。





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