5-3 透明人間と包帯
*
ミカンは隔離された箱庭の草原と森に近付く気配を感じ取り、箱庭の果て近くの森に来ていた。
箱庭の果てに辿り着くことは出来ないが森には行くことが出来る。魔力を全て失っているレモンとアボカドは草原の中央の小さな家に残してきた。
草原から森に吹き込んでくる朝の爽やかな風にミカンの鮮やかな金髪がさらさら舞う。この箱庭の中は時の流れはなく、いつも朝なのだ。
ミカンは近付いてくる気配に悪意がないことに気付いた。ただどこか悲壮感が漂う。
缶バッチを二つ取り出し、微量な魔力を込める。
木漏れ日の差し込む場所まで駆けて、入り口を作った。
箱庭の内側に転移してきたのは一匹の黒い狼だ。
ミカンの背を優に超すしなやかな身体。光沢のある黒い毛皮に
ミカンは「んっ」と精一杯伸びをして狼の頭を撫でた。
撫でているミカンの方が嬉しそうに目を細める。満足すると二つの缶バッチを差し出した。
「はい、これつけてね。ちゃんと向こう側に帰れるように魔法を掛けたからね」
*
イツキがホノカに「もういいですよ」と声を掛けられて目を開けると、「ヘンゼルとグレーテル」のお菓子の家のようなメルヘンな家の中にいた。
家具の色合いはそう派手でもないが……。敢えて言うなら朝日の差し込む窓のカーテンレースが子供っぽすぎるくらいか。
目の前に元魔女のレモンと、長身金髪のアボカドと、マネキンのミカンがいてホノカと喋っている。
何故かイツキとホノカの胸元には缶バッチがつけられている。
イツキが目を閉じてすぐに衝撃が来て、数分で目を開けていいとの許可が下りた。
何をどうやってここに来たのかホノカに尋ねようとしたところでレモンが口を開く。
「ホノカちゃん、ごめんね。あたしはもう魔女としての力も権限も全部失くしてるから。人魚の涙は持ってないのよ」
「……そうですか」
ホノカの声が一段沈む。
アボカドは張り詰めた気配で成り行きを見守っている。
ミカンはご機嫌にポットからミルクティーを注いでテーブルに置いた。カップの数は一つ。
……レモンたち三人にイツキの姿は見えていない。誰もいないようにイツキの横を通っていく。その度に疎外感に顔が強張りそうだ。
ホノカは胸に手を当てた。
「……なら、人魚の涙が手に入る場所を他に知りませんか?」
レモンは険しい顔つきでアボカドを振り返った。
その視線を受け、アボカドは小さく首を振る。
そのジェスチャーに込められた意図を読み取ったレモンが「ごめんなさい」と口にした瞬間、ホノカが被さるように言葉を放った。
「お願いです! どうしても、どうしても必要なんです! 可能性が低くても構いません。心当たりを教えてください!」
「どうしてそこまで……」
「レモンさんと同じです」
ホノカはじっと目を逸らさずに声を震わせ答えた。
レモンは辛そうに目を眇める。
「……分かったわ。直接人魚に会ってその涙を貰う方法を教えてあげるから」
ホノカはほうっと安堵したように息を吐いて、泣きそうに笑った。
…………。
イツキたちは人間界のホノカの家に帰ってきた。
ホノカによれば無事人魚の涙を手に入れることが出来たらしいが、イツキの記憶はレモンたちの箱庭で別れを告げた辺りから曖昧になっていて、実際ホノカが人魚と会ったのかどうかも覚えていない。
レモンに人魚の涙を欲する理由を尋ねられた時のホノカの答えが頭に浮かぶ。
『レモンさんと同じです』
これはどういう意味なのか。
レモンはアボカドの心を取り戻すために魔法石を手に入れようとした。
ホノカも同じと言うのなら、ホノカには助けたい誰かがいて、イツキをこの案件に巻き込むことで人魚の涙を手に入れようとした、ということか?
しかし、この部分に関してはいくらホノカに探りを入れてもはぐらかされる。
まあ、取り敢えずこの場でイツキが一番叫びたいことは、
「何で人魚の涙を手に入れたのに、まだ俺は家に帰れないんだっ⁉」
ホノカはきょとんとして、すぐに何かに思い当たった顔をした。
「着替えとか先輩ん家から取ってきましょうか? パンツの仕舞い場所教えて下さ……じゃなかった。まず住所を教えて下さい」
ホノカの発言の突っ込みどころを必死で無視してイツキは続ける。
「家に帰らせて欲しいんだけ……」
「ダメです」
ホノカが朗らかにかつ瞬時にイツキの希望を却下した。
「いや話違うだろ、人魚の涙が手に入ったら家に帰っていいって……」
「すみません。事情が変わりました」
まっすぐにイツキを見詰めてくるホノカ。
イツキは少し冷静になろうと視線を外し、重い溜息を吐く。
「理由教えろよ」
「……イツキ先輩を透明人間状態から元に戻すのにもう少し時間が掛かります。その儀式が全部終わって先輩が元に戻ったら家に帰ってもいいですよ」
「何で今帰っちゃダメなの?」
ぐっとホノカが言葉に詰まる。イツキは諦めて質問を変えた。
「人魚の涙は何に使うつもりなんだ? ってか、どういうもんなのかすら俺は知らないんだけど」
「……先輩は知らなくていいことです」
頑なな様子にこれは口を割りそうにないと判断したイツキはまたも別の質問を投げかける。
「ホノカは人間じゃねぇの?」
「……一応は人間ですけど、そうじゃないものも混じってる、らしいです」
言い辛そうにぼそぼそと話すホノカ。
店主の言った通りなのかとイツキは考えつつ、
「何が混じってんの?」
ホノカはぐっとカーッペットに正座している膝の上で拳を作った。
「……すみません、言いたくありません」
流石にイツキにも苛立ちが混じってくる。
「ああ、そう」とホノカを睨み、吐き捨てた。
大学も数日無断欠席している。いい加減にしてほしいという苛立ちやいつになれば普段の生活に戻れるのかという不安がイツキの中をぐるぐる巡る。
ホノカを怒鳴りつけないように感情を抑え込んでぼそっと言った。
「気分転換。散歩に行ってくるから」
自分でも驚くほど低く冷たい声だった。
ホノカは「はい」と青ざめて囁くように返事をした。
その被害者面にも腹が立つんだよ。
イツキは酷い台詞が口から飛び出す前に乱暴にドアを閉めた。
*
ザバン、と豪快な波音を立てて海辺の岩に人魚が腰を下ろした。
青い髪が髪飾りの端から畝って背中に零れ落ちている。腰から下は青く反射する美しい鱗に覆われた尾を持ち、上半身は青年の姿。
さながら神話に出てくるポセイドンのようだ。
人魚は楽しげに手元の木箱の蓋を開けた。色とりどりの羽衣のような淡い布が並ぶ中で、黒いものを手に取った。
すっと撫でてうっとりと微笑む。
「これに黄色い真珠を添えたら完璧に美しいのだが」
幻想的な海岸の光景はしかし、次に波音が立った時には人魚も消え羽衣も消え、ありきたりな海に変わっていた。
*
カッターナイフの刃を寝かせて手首に沿わせる。ピッと赤い筋が腕に滲んだのに心が怯みそうになる。
それでもやらなきゃならないことだと自分に言い聞かせて皮膚を削ぐように刃を動かした。
ホノカは血塗れになった腕を水道で洗い流す。
痛い。剥がした皮膚の下の筋肉や血管が気持ち悪い。洗面所の鏡に映る自分の顔が青白くて少しやつれているように見える。
こんな顔、イツキ先輩に見られたくないな。
いまだにイツキのことを考えるだけで高鳴る心臓が恨めしい。
ホノカは慣れた手つきで腕に包帯を巻きつけていった。
*
イツキは魔法道具店を目の前に仁王立ちしていた。
何度扉を叩いても反応がないので「今からドアを蹴破ります」と本気で宣言したら、焦った様子で中にいた肉食植物が扉を開けてくれた。
奥の机でだらだらしている店主を無視して、イツキは窓の側のソファに沈む。
倒れ込んだイツキに心配そうにブチ猫が飛び乗ってくる。
「ホノカのこと教えてくれよ。知ってんでしょ?」
猫を撫でながら、店主が答えないであろう前提で不機嫌に呟いたので独り言のようになる。
店主が呆れた……なんなら馬鹿にした顔で訊き返してくる。
「それ聞いてどーすんの?」
「どーすりゃ俺、元に戻れるんスか? いい加減に講義サボれる限界来てるんで」
「講義、ねぇ」
含みのある囁き。店主は意地の悪さが透けて見える笑みをイツキに向けた。
「確か今ホノカがお前を元に戻そうとしてんだろ?」
「ほんとに戻れんのか怪しいんスよ。あいつ、まともなこと何にも話さねぇし」
「何で話さないんだと思う?」
店主の鋭い目がイツキを刺した。イツキは店主に獲物を追い詰める捕食者の気配を感じながら、ついそれに圧されて小声になる。
「俺に訊かれたら都合が悪いってことっスよね……?」
「ああ、うん。そうだな」
店主は突如、興味を無くして歯切れ悪く答えた。何なんだこの人。
怒鳴ろうとした直前、店主の何気ない口調で放たれた一言がイツキを静止させた。
「ホノカは多分、狼人間の血と混じってる。で、もうそろそろ限界が来る」
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