5-1 透明人間と包帯

 森野イツキは大学からの帰り、薄暗い細道を自転車で走っていた。

 滞納させていたレポートの始末の算段を付けながらひたすらペダルを漕いでいた。


 最近は忙しく魔法道具店に顔を出せていない。まあ、あの店の店主はイツキが来ることなど待ち望んではいないが。


 下り坂に差し掛かった瞬間、何かに衝突した。

 何か、は何かだ。

 敢えて言うなら透明な空気の塊にぶつかったような感覚と言えばいいか。


 自転車ごとイツキの身体は跳ね上げられて、その時には視界が真っ黒になっていた。



 細い路地を抜けた先に『魔法道具店』と書かれた看板の下がった店がある。

 蔓草が絡まる白枠の大きめの窓。シンプルな装飾。風貌は少し変わった喫茶店と言えるか。


 店内に入ると、パタパタとリズミカルな翅音を立てて棚から棚へ飛び交う本たちが出迎える。


 ケージに入った頭が三つある犬が食事をしている。こけおどしのように満遍まんべんなくかくかくと下を向いては顔を上げる。食事をしていない残り二つの頭が世間話を始めた。

 肉食植物がよいしょ、というように鉢植えから根をずぼりずぼりと引き抜いて足のように動かし床を伝う。笑う度大きな葉を手のようにひらひら動かしている。


 その店の奥には気だるげに椅子に腰掛ける目つきの鋭い男がいた。この店の店主だ。彼を不老の魔法使いと呼ぶ者たちもいる。


 シャランと鈴音を立ててブチ柄の子猫がソファーから店主の前の机に飛び乗った。

「ニャー」と店主を催促するように鳴く。

 店主は無造作に飛んでいる本を掴みパラパラとページを捲る。


「面倒臭い……」


 店主の答えが不満なようでブチ猫はざわりと毛を逆立てる。

 毛が元に戻った時には毛色が真っ赤になっていた。


「……行こうと思ってもさ、もうこの店畳まなきゃいけねえし」


 店主が不機嫌に足を組み替えると、子猫はしゅんと気を落としたかのように毛を元のブチ柄に戻した。


 現在、魔法道具店は実質営業していない。しかし、魔法道具店の店先にはよくある「定休日」や「閉店」の札はない。なぜなら店主が面倒臭がりだからだ。



 イツキは気が付くとホノカの部屋にいた。


 ホノカというのは高校時代イツキが所属していたバスケ部の後輩だ。

 部活を引退する直前にホノカから告白されたが、特にホノカが好きでもなく受験勉強に忙しかったのでこっぴどく振った。


 そのホノカの部屋のベッドの足に背を凭れかけるようにしてイツキは意識を失っていたらしい。

 なぜここがホノカの部屋だと分かるのかというと以前、魔法道具店の依頼に思いっきりイツキが巻き込まれた時、魔法道具店の店主が鬼を弱体化する儀式めいたことにホノカの部屋を使ったからだ。


 その時のことを考えていて否応なしに思い出した。イツキがつい最近、店主から聞いた台詞だ。


『ホノカは多分うちに来る前から人間じゃない何かと混じってる』


 ざわりと鳥肌が立った。嫌な予感がする。

 ホノカの姿は見当たらず、この家に人の気配はないようだ。


 取り敢えずここを出よう、とイツキは慎重にホノカの家を出た。

 暫く当てもなく歩くと頭がぼんやりしてきた。

 はっとするとホノカの家の前に戻ってきている。


 こんな何処かのホラー映画みたいなことあるわけないっ……。


 イツキは思考を妨げるもやを振り払うように頭を振って、走り出した。

 俺は大学に行く、今大学に向かってるんだ、と唱える。


 無事に大学の門を潜り、館内に辿り着いた時は柄にもなく、ほっと息を吐いた。

 以前から偶につるむ同じ学科の男友達が歩いてきた。川下、という。


「お疲れ」


 イツキは片手を挙げて、川下に声を掛けると、素通りされた。

 イツキは困惑するまま「おい」と口調を強めて呼び止めたが何の反応もない。彼はイツキに気付かぬまま横を通り過ぎて行ってしまった。


 さっと過ぎった考えにイツキの血の気が引く。


 ……誰に声を掛けても無反応だった。まるでイツキが見えていないかのようだ。


 ふらふら歩いて行くと食堂に着いた。一角にさっきの川下が座っている。

 イツキは彼の真横に立った。


 川下はスマホを弄って一区切りついたのか伸びをした。続いて独り言。


「しっかし、森野のやつ、一限も二限も無断欠席かよ」


 イツキは思わず叫んでいた。


「違うって! 俺はここにいるって! 何で分かんねえんだよ!」


 目の前の男友達の肩を掴もうとして、イツキの手がすり抜けた。

「ひっ」と反射的に引っ込める。


 川下は何も気づかず、暢気に欠伸した。


 イツキは途方に暮れて青ざめた顔で立ち尽くした。



 ホノカは学校指定のジャージ姿で自分の家の塀に手持ち部沙汰に背を預けていた。

 曲道の先からイツキの姿が現れる。顔色が悪い。


 ホノカは震える息を飲み込んだ。


「お帰りなさい、イツキ先輩」


 イツキは険しい顔で、ホノカの考えていることを探っている様子だ。


「何のつもりだよ。お帰りとか……お前がこの訳分かんない状況の原因としか思えなくなるんだけど」


「まあ、立ち話もなんですし。うちにどうぞ」


 あまりにも普通の声音が出て、ホノカは微かに笑ってしまった。

 それを見たイツキが警戒するように眉を顰める。

 慌ててホノカは「すみません」と謝って、イツキを家の中に招いた。


 自室でイツキと向かい合う。ホノカはジャージの上着を脱ぎ半袖シャツになった。

 イツキはベッドの側に腰を落ち着かせるのもそこそこにホノカを睨んだ。


「で、状況説明は?」


 ホノカは麦茶を手渡しながら口を開く。


「人魚の涙です。私あれが欲しいんですよ」


 イツキは不可解そうに黙っている。


「魔法使いって呼ばれている人たちなら持ってるはずです。先輩、心当たりありませんか?」


「ない」


 即答だった。理不尽に巻き込まれかけていることを悟ったのかイツキは苛立っている。

 予想通りの反応だな、とホノカは肩を揺らし、困り顔で笑ってみせた。

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