2-2 手紙と棺桶


 ヒロシが家に帰り着くとリビングが散らかっていた。

 またか、と怒りを通り越し索漠さくばくとした思いに駆られる。


 部屋はカーペットの一部が捲れていたり、棚の雑誌がテーブルや椅子の上に広げてあったり、食器が床に置かれていたりする。

 何か壊されたり汚されたりしているわけではないのだが、ヒロシが帰宅すると散らかっているのだ。


 こんな状況が三か月前からほぼ毎日続いている。やったのは亡くなった妻の連れ子、トモヤしか考えられない。


 トモヤは必ずヒロシの気付かぬ間に部屋を散らかし、問い掛けても「知らない」と首を振る。

 青ざめた顔で本当に何も分からないというようにしらばっくれるのだから、最近は相手にするのも馬鹿らしくなってきた。


 トモヤの名を呼ぶと二階から降りてきた。

 小学一年生になったばかりだが、子供らしい腕白さは欠片もない無表情。一見女の子と見違うくらいの瞳の大きさが顔立ちをより幼く見せているため、子供らしくない表情に一層異様さを感じてしまう。


「おかえり、ヒロシさん。

 ……この部屋どうしたの?」


 僅かに目を見開くトモヤは到底嘘を吐いているようには見えない。


「どうしたって。お前が散らかしたんだろうが。

 ……まあ俺も今日は怒る気力がないから片付けて晩飯にしよう」


 トモヤはコクリと頷いたが、片付けながら物言いたげだった。

 おそらく自分は散らかしてなどないという弁明が半分、ヒロシの疲労の色が濃い顔を見て心配が半分。

 結局、口を開くことなく黙々と本を所定の位置に戻すトモヤにヒロシが根負けして声を掛けた。


「トモヤ、晩飯お前の好きなもんにしてやる。何が食いたい?」


 ヒロシには自分の子供が居たことがない。だから、このような時トモヤにどう接していいかわからなくなる。

 問い詰めて悪いことは悪いと叱ってやるべきか、何かあったのかと優しく問うべきか、もしくはリアクションしなければ勝手にトモヤが飽きて止めてくれるのか。


 魔法道具店では高ぶった感情のまま愛情なんか1ミリもないと口走った。

 それでもトモヤと対面すると居心地の悪さや罪悪感を覚えるのは不安だからだ。


 妻はトモヤが扱い辛い子供だと分かった上で楽しそうに笑い掛けていた。妻と同じことが自分に出来るとは思えない。

 だが、どれほど無感情に見える子供だろうが親からの愛情を欲しているものだということは理解している。


 自分にはちゃんと育てられないかもしれない。愛情を持って接してやれないならこの子の将来は……?


 いつしか不安が苛立ちに変わり、この子さえいなければ、という思いが鎌首をもたげてくる。

 それを押さえつけようとすれば、妻が今ここに居てくれたらという考えに振り切ってしまうのだ。


 一気に降り掛かってきた子供の命という重圧にヒロシの精神は摩耗していた。


 ヒロシは晩御飯の途中でついほろりと呟いていた。


「なあお前、お母さんが生き返ったら嬉しいか……?」


 カタンとトモヤが箸を置いた。膝の上で拳を作ってぐっと俯く。考え込んでいるようだ。やがて、


「……僕、お母さんとね、約束してたんだ。入学式はヒロシさんがお仕事で来れなくてお母さんだけだったから、次の授業参観はヒロシさんと一緒ねって。だけどお母さんいなくなっちゃったから、お手紙読めなかった」


 授業参観は両親にあてた手紙を発表するというものだった。その日の二週間前に妻は亡くなり、ヒロシだけが出席したのだ。


 トモヤはその後から言葉が続かなくなったらしく、食べ掛けの晩御飯を前に固まってしまった。一体何を言いたかったのか。

 ヒロシが「冷めないうちに食べなさい」と促すと漸く食事を再開した。



 魔法道具店、店内。


「状況分かるか? 荒井トモカさん」


 店主の言葉にゆっくりと振り返ったロングヘアの女性が「はい」と頷いた。


「あ、分かってんのならいいや。君の夫は君に生き返ってほしいと願ってるけど、俺はその依頼受けるわけにはいかないのね、色々面倒だし」


 店主の遠慮のない物言いにトモカは苦笑する。


「では、私を一時的に生き返らせたのはどういったご用件ですか?」


 トモカはたおやかで芯のある声音で訊き、店主を真っ直ぐ見詰めた。


「直接君を夫や息子に会わせることはルール違反だから出来ない。が、間接的になら出来る」


「間接的……」


呟き意味を咀嚼するとトモカの瞳が潤んだ。


「……手紙を、夫と息子に手紙を書いてもいいですか? 夫には遺言を残しました、トモヤを頼むという主旨のことを。でも、いざ死んでみるとまだまだ伝え足りないことがあるんです」


「ああ勿論。そのために君をここに呼んだんだ」



 トモヤは小学校から下校しヒロシが帰宅するまでの間、家で一人になる。三か月前は母がいた。

 今は一人……。


 ふと居眠りをしていたようだ。はっと目を覚ますと自分の部屋が酷く散らかっていた。いつものことながら、悔しくなって膝に爪を立てた。


 いつもいつもトモヤがつい目を離した隙に部屋が散らかっているのだ。自分がやったはずはないのにヒロシに注意されてしまう。

 否定するとヒロシはそんなわけないと責めるようにトモヤを見る。そしてすぐにトモヤを傷つけたことに対して辛そうな顔をするのだ。


 ヒロシに見咎められる前に片付けてしまおうと立ち上がった時、机の上の見覚えのない水色の便箋が目に留まった。


 そこには「トモヤへ お母さんより」。


 ひったくるように封を開け、夢中で読み始めた。


「まず約束を守れなかったこと、ごめんなさい。でもお母さんね、実はこっそりトモヤがじゅぎょうさんかんのために書いてくれてたお手紙、読んじゃった。

 トモヤはずっといっしょだよって、これからもよろしくって書いてくれてたもんね。お母さんとってもうれしくてたくさん泣いちゃった。

 あと、今はあんまりヒロシさんとうまくいってないみたいねえ。トモヤがわるいところなんて一つもないって、お母さんが一番わかってるわ。ヒロシさんはね、トモヤのこと大事にしたくて大切にしたくて、どうしたらいいかわからないだけなの。

 ここで、ていあん!

 ヒロシさんのこと、トモヤがいやじゃなかったら『お父さん』って呼んでみて。きっととってもよろこんでくれるわよ~。

 あなたがいくつになってもどんな人に成長しても、えいえんに愛しています。」


 トモヤが読めない漢字だけひらがなで書かれている。それは間違えようもなく母からの手紙だった。


 トモヤの胸の内でこれまで経験したことのなかった強い感情が嵐のように吹き荒れた。母が亡くなったと聞いたその時はただ呆然とするので精一杯だった。


 喉の奥から嗚咽が漏れる。

 この感情をどう制御したらいいのか分からない。


 ガタガタと家全体が揺れ始めた。

 固定していない家具が宙に浮き、窓ガラスに亀裂が……。


「トモヤッ」


 部屋に飛び込んできたのはヒロシだった。そのまま抱きしめられる、トモヤが痛くないくらいの強い力で。

 家の異変に気付いていないのか、ヒロシはトモヤの耳元で低く囁いた。


「さっきな、トモカから……お母さんから手紙が来たんだ。トモヤのことがどれほど大事かたくさん書いてあったよ……。

 ごめんな、今までちゃんと真っ直ぐ見てやれなくて」


 いつの間にかポルターガイスト現象が収まっていた。

 トモヤはヒロシに抱き留められたまま声を上げて泣き崩れた。


 感情を露わに震えるトモヤの小さな背を、ヒロシは不器用ながら優しく撫で続けていた。


 トモヤが泣き止む頃には部屋が暗闇に包まれていた。ヒロシが灯りを点けた時、


「ねえ、あの」とトモヤが呼び止めた。


「あの、これからヒロシさんのこと、お父さんって呼んでいい?」


 ヒロシは束の間呆気にとられて、すぐに「ああ! いいぞ! 勿論だよ」とトモヤの頭を撫でた。


 トモヤはまだ少し遠慮がちにそれでも確かに顔をほころばせた。それは母のトモカの笑い方によく似ていた。





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