ラブリー、だけれどそこはかとなく不気味な
倉井さとり
ラブリー、だけれどそこはかとなく不気味な
私たちの朝は、おはようのキスから始まります。
ただ唇が一瞬触れ合うだけで、まるで太陽に当てられたように、身も心もあたたかくなるのは何故でしょう。
相手に愛を伝える方法はいろいろありますが、その中でも、キスは特別です。キスほど、私たちを痺れさせるものは他にありません。もし現代に魔法があるとすれば、それはキスなんだと私は思うのです。
そうして起き出して、私はすぐに、腕によりをかけ、ノリタケさんのためにお弁当を作ります。味も見た目も完璧を目指し、丁寧に作ります。辛い仕事の昼休みに、少しでも幸せな気持ちになってくれたら。お弁当を食べている間、私のことを想ってくれたら。
溶き卵を菜箸で混ぜながら鳴らすときの鼻歌が、一番上手なのは私だけでしょうか。
朝のお見送りにはもちろん、いってらっしゃいのキス。
そして一緒に玄関から出て、ノリタケさんの姿が見えなくなるまで見送ります。ノリタケさんも時々、ふり返ってくれます。その度に私たちは、無邪気に手をふり合います。
それから私は腕まくりを2つして、一生懸命、家事に勤しみます。ときどき一息ついてノリタケさんのことを想いながら。そして思うのは、私たちは互いに愛し合った理想の夫婦なのだということ。
私たちは結婚6年目なのだそうです。しかし私が彼に初めて出会ったのは、3ヶ月前のことなんです。
どうやら私はある種の記憶障害で、ノリタケさんのことだけをすっぽり忘れてしまっているようなんです。
3ヶ月前の夕方のこと、私が庭いじりを終え台所でお茶を飲んでいると、突然見知らぬ男性が家の中に入ってきたのです、堂々と当たり前のように。見知らぬというのは、あくまで私の認識ではということですが、当然私は心底驚きました。
しかし、男性はあまりに自然に家に入ってきて、まるで我が家にいるようにくつろいだ振る舞いだったので、私は声を上げることができませんでした。……何より私は、彼の顔に見とれてしまいました。ものすごく私のタイプだったのです。だからなのか、私は大声も上げず、彼に静かに問い掛けました。ここに、なにをしに来たのかと。すると彼はこう答えました。
「なにって、……あれ? 俺たちケンカしてるんだっけ……?」
それから私たちは言葉を重ねました。噛み合わない話をなんとか噛み合わせようと。簡単にとはいきませんでした。時間の認識も違い、片方を相手を知らないのです。おそらくそれは、江戸時代のからくり人形と、現代の精密機械をつなぎ合わせるようなものだったのでしょう。調整に時間がかかるのは当然です。ですが私たちは、大きな岩を突き崩すように、疑問符を取り去っていきました。
「俺は君の夫だ」という彼に、なにを世迷言を、と私は最初こそ疑いの目を向けました。ですが、次から次へと、私たちが夫婦だという証拠が、私の家から見つかるのです。信じないわけにはいきませんでした。私たちは夫婦だと。認めないわけにはいきませんでした。おかしいのは私の方だと。
しかしながら、認識のうえでは、私はずっとこの家で独り暮らしをしていたはずなのです、誰とも結婚などせずに。
とはいえ、それからの毎日は幸せ一色でした。2人の生活は、なんの苦労もなく、スムーズに進んでいきました。
おそらく私の一目惚れだったのでしょう。だけれど、日に日に彼のことを、ますます好きになっていくのです。彼のやることなすこと、すべてが私の心をくすぐるのです。
後からノリタケさんに聞いたのですが、1度目の時も、私が彼に一目惚れをし、私の方から告白をしてお付き合いを始め、やがて結婚に至ったのだと。
ということは、私は同じ相手に2度一目惚れし、2度恋をしたのです。この3ヶ月間は本当に幸せな時間でした。まるで初恋をしたかのように、熱く燃え上がりました。
私の初恋は高校生の時でした。その相手が、初めてお付き合いをした男の人でした。結局は別れてしまいましたが、若かった私たちは激しい恋をしました。今思うと、ちょっぴりだけ爛れた関係だったように思います。しかし、初めて恋や愛を知ったら、誰しもそうなってしまうのではないでしょうか。若さゆえに、初めてだからこそ。
ノリタケさんはその相手が姿形を変えて、成長し、大人になって、私の前に現れた存在なのではないかと、妄想したことがありました。そう思ってしまうほどに、ノリタケさんは、私にときめきと幸せを与えてくれました。
私は、家事の合間に宝探しをしたりします。彼との思い出の品や写真などを、家の中から探すのです。その、どれもこれもが、幸せに満ち溢れ、温かい気持ちになり、でもときに、それを覚えていないことに悲しみを覚えたり、写真の中の私自身に嫉妬したりしました。その度にノリタケさんを好きになっていきました。
私の趣味は庭いじりです。庭にはちょっとした家庭菜園があります。私がせっせと世話をして、少しずつ大きくしてきたものです。土をいじっているだけで私は幸せですし、植物が成長し、実が生ったりすれば格別の喜びを感じます。
最近は、よりいっそう力を入れています。ノリタケさんに、美味しい野菜や果物やハーブを食べてもらうためです。私の料理を美味しいと言ってくれ、私が作ったものを褒めてくれるのが、何より嬉しいんです。
ある日、いつものように庭いじりをしていると、土の中からミミズが顔をのぞかせ、地上に這い出てきました。そしてしばらくの間、うねうねと、のたくっていました。私は、何故だかミミズに見入り、じっと観察しつづけました。
どちらが頭かしっぽかわからないような生き物です。どちらが頭だと言われても不思議ではありません。本当にものを考えて動いているのか、疑ってしまいます。一見、目も鼻も口も無いから、そう感じるのでしょうか。そんなわけはないでしょうが、私にはミミズが何も考えず、何も感じず、ただ動くだけの存在に思えます。これが生き物だなんて、私には信じられません。恋もせず、生殖もせず、ただ大昔から存在する、のたくるだけの、そんな仕掛け。
このミミズは、この庭だけが世界だと思っているのでしょうか。ミミズは、私を認識しているのでしょうか。何故か、私の心はひどく冷たくなっていきます、お墓の土のようにしっとりと。このミミズはいったい、いつ、自身の醜くて滑稽な姿を認識するのでしょう。
自分でも驚くほどに、残酷で見下すような気持ちになっていきます。このミミズは、私の菜園を支えてくれる大切な存在だというのに。
ミミズをじっと凝視していると、突然、信じられないことが起こりました。ミミズについた土や砂が、その身体に入っていくのです。まるで溶け込むように自然に、そしてそれにつれ、ミミズの身体も少しずつ融け、庭に染み込んでいくのです。少しもしない内に、ミミズは消えて無くなってしまいました。
私はたいそう驚きましたが、どうしてか、怒りの方が勝っていました。私が見下したから、こんなに手の込んだ真似をしたのか。私を驚かせる、ただそれだけのために。自分自身の怒りに恐怖を感じ、震えるほど寒気がしました。
私は記憶喪失になるくらいです。脳にどこかしらの異常があるのかもしれません。だからこんな幻覚を見てしまうのだと、私は結論付けました。しかし、病院に行こうとは思いませんでした。何故かというと、今のノリタケさんとの関係を気に入っていたからです。
それからは何事もなく、ノリタケさんとの甘い新婚生活のような日々が続きました。
ノリタケさんも当初は戸惑ったようでしたが、3ヶ月がすぎた今では、私の変化に喜んでくれているようでした。当たり前です、妻がある日突然、新婚生活の頃のように、自分にぞっこんになるのです。女の私が想像しても、嬉しくないわけがないと思います。彼も恥ずかしがりながらも、私に付き合ってくれています。日に日に私への愛を強くしてくれているようにも思います。
ある日の夕方、ノリタケさんから電話があり、今日は仕事で少し遅くなるとのことでした。仕事でトラブルがあったらしく、電話の向こうはどこか騒がしげ。
「夕飯、先に食べて、寝ててもいいから」
ノリタケさんは気遣うような声でいいます。大変なのはノリタケさんの方なのに。その優しさが、却って少し憎いくらいです。
だからでしょうか、私は頑なな声色で、
「ううん、待ってる。だから一緒に食べよう。だから、なるべく早く帰ってきて」
と返しました。そんな私に、ノリタケさんは呆れながらも嬉しそうに、
「ありがとう。なるべく早く帰るよ」
と言ってくれるのでした。
私は、ノリタケさんが帰ってくるまで、仮眠をとることにしました。疲れた彼を元気に迎えたいと思いましたし、独りの夜はどこか寂しいものですから。
ノリタケさんが帰ってきたような気配を感じ、目をはっと目を覚ましました。ですが、寝起きだからか、頭がぼんやりとして起き上がることができません。直前まで見ていた夢の内容だけが、頭をぐるぐると駆け巡りました。その夢は書きなぐりのように曖昧な内容で、次第に頭の中から抜け落ちてしまいました。
私はうつらうつらとしながらも、ノリタケさんを驚かせようと眠ったふりをしました。
ノリタケさんはそっと部屋に入ってきて、ベットに静かに腰かけ、私の前髪を丁寧にかきわけ、私の額にやさしくキスをしました。
そして、やけに冷たい、感情のない声で、言った。
「ねぇ きみは いったい いつ きがつくの?」
その声を聞いた途端、私を包むシーツや掛け布団が、身体の中に入り込んでくるではありませんか。連れて、身体がひび割れ、崩れていくではありませんか。そして、少しずつ、ベットの中に溶け込んでいくではありませんか。
私は怖ろしくなり、ノリタケさんに助けを求めました。しかし、部屋の中には、誰の姿もありませんでした。
私は何か思い違いをしていたのでしょうか。何かの前提や認識を誤っていたのでしょうか。
いったい、いつ、どこから?
ラブリー、だけれどそこはかとなく不気味な 倉井さとり @sasugari
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます