第2話 後編

 さっきまで気づかなかった。もちろん僕があげた青い石のリングではなく、装飾の施されていないシンプルな指輪。いわゆるエンゲージリングなのだろう。ああ、と僕は小さくため息をついた。


「よし、ボドゲカフェはどう?」


隣でさや姉が元気よく提案した。


「え、ボドゲですか?」


さや姉とボードゲームで遊ぶのも久しぶりだった。元々は人生ゲームくらいしか知らなかったさや姉だったけど、僕がお気に入りのボードゲームをいくつか紹介したら、あっという間にドハマリしたようだった。今となっては僕よりはるかに詳しい。


「ここからならAZ cafeが近いんじゃないですか?」


「あのスムージーが美味しいとこね。うん、あそこなら『宝石の煌き』もあるし」


「さや姉ほんとにあれ好きですよね」


「あれだけは負けたくないもん」


「元々教えたのは僕ですからね。そう簡単に負けるわけにはいかないです」


薬指に光る指輪を見ても、それほど落胆の気持ちはなかった。当たり前だよな、と俯瞰しているような気分だけが心を満たしていた。ただ一つわがままを言うなら、こんな盗み見のような事でこっそり気づくのではなく、さや姉本人の口から聞ければ良かったのにと思った。


 AZ cafeはこじんまりとしたカフェだった。ニスを塗った木造りの扉を開けると、4人がけのテーブルが4つ並べられているのが見えた。その奥の本棚には色んな種類のボードゲームの箱が所狭しと並べられている。右のカウンターからエプロン姿の店長さんが顔を出した。


「お、久しぶりだねたっくん」


「お久しぶりです店長さん」


「今日は特に予約もないし、2人でゆっくりしてくといいよ。たっくんはいつものやつだね。えっと……」


飲み物は何にする?と目線だけでさや姉に尋ねる。


「ザクロのでお願いします」


「おっけー」


そう言って店長さんはカウンターの向こうに戻っていった。一時期色んな人を誘って足繁く通っていたせいで、すっかり店長に覚えられてしまった。さや姉は僕ほど通っていたわけではないけど、メニューを覚えるくらいにはここの常連だった。


 窓際のテーブルに腰を下ろす。向かい合って座ると、今日は初めてさや姉の顔を正面から見たことに気づいた。


「あれ、ちょっと目赤くないですか?大丈夫です?」


「え、ホント?うーん、コンタクトのせいかな」


「外しておいたほうが良いかも」


「うん、そうする」


バッグから小さな手鏡を取り出して、手早くコンタクトを外す。そしてメガネケースから赤縁のプラスチック眼鏡を出してかけた。大学時代から使っている眼鏡だ。それから髪を縛っていた髪留めをくいっと引っ張って外すと、それを右手の手首にかけて、髪をくしゃくしゃっと少し混ぜるように梳かした。それを見て僕はくすっと笑ってしまった。


「え、なに?」


「あ、いえ。その髪留めを外す時の仕草、さや姉の癖だったなって思っただけです」


「ん?」


戸惑うさや姉。本人はそれを癖だとは思っていなかったらしい。僕の好きな仕草だということは黙っておくことにした。誤魔化しも兼ねて僕は棚からゲームを探す。


「さや姉さっき『宝石の煌き』って言ってましたし、まずはあれからやりますか」


「いいね、本気だすよー」


『宝石の煌き』は5種類の宝石を順番に確保しながら、その組み合わせで徐々に強い得点カードを獲得していくゲームだ。宝石は数に限りがあるので、自分の欲しい得点カードを手に入れるために、相手の動きを見ながら先読みつつ宝石を確保していかなくてはいけない。


 説明書を読むでもなく、2人でテキパキと準備していく。その合間に店長さんが2人のスムージーをそれぞれ運んでくれた。


「たっくんと遊ぶの久々だもんな。楽しみ」


「そんなこと言っても手加減しませんよ」


「えー、ケチ」


さらりと『楽しみ』なんて言われると、心の奥に何かが滲む。そういう言葉を気負いなく言えるのがさや姉の良さであり、僕にとってはちょっとつらいところだった。


 序盤はいいペースでお互いに宝石を確保していった。そしてさや姉が先に1枚目の得点カードをゲットした。取られたカードは、山札から補充する。一番上のカードを表にすると、奇しくもさや姉にとても有利なカードだった。


「え、そのカード出てきちゃうか」


思わず唸る僕。今回は大差で負けそうだなと思いながら、でもさや姉と遊んでいる時間が楽しい僕にとっては勝敗にさして関心もなかった。


 一応なるべく置いていかれないように、地道に点数を稼ぐ方針に切り替える。でも僕に不利なカードばかりが場に増えていた。終盤に差し掛かり、さや姉の手元を見ると、確保しているカードの傾向から次に狙っているのが場の一番上のカードだとわかった。


「うーん……」


あのカードを取られると決着だな、後3ターンかなと思っていると、次の手番で、さや姉はそれまでの流れとは全く違う宝石を確保した。


 あれ、と思ったが僕は何も言わなかった。結局、その寄り道のおかげで猶予ができたので、僕が駆け込みで得点を伸ばし、割と僅差でさや姉の勝ちになった。


「はーい、あたしの勝ちね」


「さや姉、途中手加減したでしょ?」


カードやチップを箱に戻しながら僕は聞いた。


「えーなんのこと?」


しれっと答えるさや姉。場のカード運のせいであまりに差が開いてしまったので、点差が開かないよう余計な手数を増やしたのだ。僕がこのゲームをやり込んでいたせいで気づいたけれど、実際絶妙なタイミングの寄り道だったと思う。そんなさや姉を可愛いと思ってしまう自分がいた。


 2つ目のゲームは時間がかかるタイプの物を選んだ。効果カードやサイコロを組み合わせて戦略を立てるゲームだった。考える時間が増えると、相手の手番での待ち時間も増える。その隙間に、僕は考え込むさや姉の顔を盗み見ていた。


「……たっくん?」


さや姉に呼ばれてはっとする。手札を扇状に広げて右手に持ちながら、でもさや姉は僕を上目遣いに睨んでいた。


「あ、どうかしました?」


「どうかしました、じゃないよ。あたしのことじっと見て。何、なんか付いてる?」


「別にそういうんじゃないですよ。何ていうか、懐かしいなと思って」


「懐かしい?」


僕に尋ねながら、さや姉は左手で僕の方に転がっていたサイコロに手を伸ばした。


「さっきの手加減とかもそうですけど、さや姉って意外と気遣いがすごいですよね」


「意外と、ってなによ」


「いや、他意はないですよ」


あまり考えずに喋ってしまった気がする。さや姉は少し首をかしげて先の言葉を促した。と同時に右手のカードを一旦テーブルに伏せると、左手でとったサイコロを右手に乗せて転がした。慌てて僕は言葉を重ねた。


「さや姉はすごく話しやすいし、逆にこっちのフィールドにもすっと入ってくる感じがあって。でもそれって勢いで距離を詰めてきてるわけじゃなくて、実は相手の気持ちや空気をすごく敏感に察知して、だからこそできる技なんだろうなって思ったので」


出た目の数だけカードを山札から補充すると、テーブルに置いた手札と合わせてまた右手に扇状に持つ。その間もさや姉は僕を見ていた。こちらの心を見透かすような、かつて時折見せたあの視線だった。


「そんなこと思ってたんだね」


「言わなかっただけで、結構前から思ってましたよ」


何だか照れくさい言葉がいつになく次々と口から出ていく。これでさや姉とゆっくり話すのも最後だと、どこかで思っているからだろう。いつもなら感じていたプレッシャーのようなものがなくなって、素直な言葉がたくさん浮かんできていた。


「さや姉って、コミュニケーションが上手くて伝えたいことの8割とか9割とかを上手に伝えるのに、最後の最後で本当に伝えたかったことを飲み込んで、一歩引いてしまいそうだなって。そんな気がします」


口にしながら、ああそれって自分のことじゃないか、と思う。僕はそもそもコミュニケーション自体も下手くそだけど、結局大事なことを伝えられなかったのは僕の方だ。


「……急にどうしたの。たっくんがそんなこと思ってたなんて知らなかった」


さや姉が左手でスムージーのグラスを持つ。店内の柔らかい照明に薬指のリングがキラリと光った。カツンと細身のグラスとぶつかる硬い音がする。


「勝手なイメージだったらごめんなさい。何となく僕の中にそんなイメージがあったんです」


「やっぱりたっくんって不思議な人だよね」


今度は僕が驚く番だった。


「不思議ですか?」


「うん、私が初めて出会うタイプの人だったから。なんかね、反応が読めるというか、癖のない受け答えをしているのに、時々すごく心にひっかかる時があるの、たっくんの言葉って。私が持ってるたっくんのイメージとは、不意に全く違う方向からやってくる。そんな感じ」


お互いの心の柔らかいところに踏み入っている。そう思った。多分僕たちが互いに感じていたそのイメージは、どちらも的を外してはいないのだろう。でもだからこそ、この先重なる可能性のない僕とさや姉で、この話題を続けてはいけないと思った。


「それってつまり、分かりやすい性格ってことですか?」


おどけて聞いてみせる。


「うん、とっても。あたしたっくんの嘘なら見抜ける自信あるよー」


2人の間に漂っていた繊細で重みのある雰囲気が、すっと霧散していくのがわかった。


 結局2ゲーム目もさや姉の勝利だった。気づくと夕日が窓から差し込んでいる。


「今日は帰りましょうか」


「そうだね、そろそろ行こっか」


店長にお礼と代金を支払って僕らはお店を後にした。


 駅に向かって川沿いの道を上がっていくと、さや姉が河川敷を歩きたいと言った。足元の砂を踏むざくっという音がやけに大きく聞こえる。そう言えばお店を出た後から、ほとんど話をしていなかったことに気づく。2人で並んで歩く鴨川は、時間の流れさえゆったりとたゆたうような気がした。


「写真撮ろっか」


唐突にさや姉が言い出す。


せっかくだし、と言うさや姉の勢いに気圧される僕。見慣れた風景なのに、と思いながら夕日の方を見るとちょうど良く雲がかかって天使の階段がうっすら浮かんでいた。


 さや姉のスマホを受け取ろうと手を伸ばすと、彼女はきょとんとする。それからすぐに、僕の勘違いに気づいてくすっと吹き出した。


「違うよ2人で撮るの」


「え、自撮りですか?」


「あったりまえでしょ。鴨川であたしだけピースしてもしょうがないじゃない」


てっきり僕がさや姉のカメラマンをするのだと思っていた。


「肝心なところで天然とか、やめてよね」


ぼそっと呟く。そして抗議する僕の腕を掴んで、さや姉がぐっと引き寄せた。ポーズを取るべきか迷っていたら、結局中途半端に笑っただけのツーショットになってしまった。


「今の写真、LINEで送るね」


数秒後に僕のポケットでスマホが震えた。取り出してみると、ホーム画面にはさや姉からのLINE通知が数件入っていた。何だかその写真を今見る気になれず、僕はそのまま画面を消した。まるで最後の記念撮影みたいだ。それはいよいよ、もうさや姉と会うことはないだろうことを予感させた。


 後悔はしていなかった。思いをぶつけることなく、先輩後輩というには親密な、でも名付けるには困るこの関係を続けていたことを、間違いだとは思わなかった。さや姉が素敵な人と一緒になるのならそれが良いと思った。多分誰であっても、僕より上手に彼女を幸せにしてみせるだろう。でも、それは優しい人であってほしかった。演じるのが上手いさや姉の、その演技を見破ってくれて、でも何も言わずにそっと受け止めてくれるような人。


 僕がそんな事を願うのはお門違いだともわかっていた。でも願わずにいられない。今も忘れられないさや姉の一言。思えばあの時から、彼女は僕にとって特別な人になっていたのだと思う。


「さや姉」


僕は立ち止まる。呼ばれたさや姉は僕の数歩先で振り返った。


「僕、ずっとさや姉のこと好きでした」


言い訳も装飾もない、シンプルで簡素な告白。それはあの日僕に光をくれたさや姉の言葉への、何年か越しの返事でもあった。


"誰かのために一生懸命になるのは、本当はたっくん自身が一番、誰かに救い出してほしいからだよ”


臆病で空回りばかりだった僕への叱責であり応援でもあった。こんな言葉がすっと言えるのは、さや姉自身がたくさんのことに悩み、それでも優しくあろうとしたことの証拠だった。そしてその時わかったのだ。これ以上側にいたらきっと甘えてしまう。さや姉に頼り切ってしまう。だからこの思いに「好き」と名を付けるわけにはいかなかった。


「本当にありがとうございました。さや姉、幸せになってくださいね」


笑顔が出来ているだろうか。精一杯の爽やかな別れを演出してみせる。


 さや姉はじっと僕を見ていた。真っ直ぐに。そしてふふっと笑った。同時につっと頬を涙が伝う。とみるみる涙が溢れて、なのにさや姉は柔らかい表情のままだった。今度は、らしくなくぞんざいな仕草で、ぐーにした右手で両頬の涙をぐいぐいと拭う。最後の最後で泣かせちゃったな、ほんとだめだな僕って。そう思っていると、今度はさや姉が眉根を寄せて怒った顔をする。あっという間に表情がぐるぐる変わっていって、僕は若干困惑する。


「遅いよ、バカ」


さや姉はさらに頬を膨らませて、初めて見せる拗ねたようなふくれっつらで僕にそう言った。遅いよ。その言葉の意味を図りかねていると、さや姉は左手の薬指から指輪を外し、それを僕に向かってアンダースローで投げてきた。とっさにそれをキャッチする。


「今度は給料……1年分ね!」


語気を強め僕を指差した。まだ状況を飲み込めず、少しぼーっとしたまま僕は右手に目線を下ろす。


 ゆっくりと手を開くと、僕がプレゼントした青い石の指輪が夕日に淡く煌めいていた。


(了)

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