眼鏡と髪留め

シャルロット

第1話 前編

 京都の街中、人にあふれた週末の交差点。その向こうに懐かしい人の顔を見つけられたのは、本当に偶然だったし、ある種の運命だったのかもしれない。


 1年半ぶりに見たさや姉は、全然変わっていないように見えた。トレードマークだった、あの長いポニーテールがばっさり切られていたこと以外は。今日も髪は縛っていたけれど、長さ的にはポニーテールというより一つしばり、という感じだ。でも行動的なさや姉の雰囲気には、今の方がむしろ合って気がする。秋物のカーディガンと深緑色のティアードスカート姿は、頼れる先輩を超えていよいよ素敵な女性の雰囲気を纏っていた。


 信号が切り替わり、周りで待っていた沢山の人達が一斉に横断歩道を渡りだす。慌てて僕も歩き始めながら、けれど彼女から目を離せずにいた。スマホとにらめっこしていて、こちらに気付く様子はない。二人の距離がゆっくりと縮まっていく。あの頃、憧れと尊敬と、そしてそれだけじゃない気持ちを抱えながら、一歩引いてさや姉を見ていたことが思い出される。


 このまま声をかけずに通り過ぎてしまおうか。気づかなかったことにして。こんな偶然なかったことにして。そんな考えが頭をよぎる。同じサークルにいたあの頃ですら、遠慮ばかりしていた僕のことだ。こんな千載一遇の機会を物にできるほどの度胸なんて、はじめから持ってない。


 お互いがあと三歩進めばすれ違う。いよいよ近くで見るその横顔は、あの頃と変わらず優しくて温かい。そこに、さや姉が僕によく見せた、ちょっと人を見透かしたようにからかう悪戯っぽい笑顔が重なった。


 あと少しでこの偶然が終わる。そんなときになって、どうやら神様は気まぐれをおこしたらしい。あるいは、僕が無意識に願っていた奇跡だったのか。先輩は顔を上げて、そしてまるでそこに僕がいることを知っていたかのように僕を見つけた。驚くでもなく、まるで待ち合わせの相手を探し当てたかのような自然な仕草。


「おー、たっくん」


やっほー、と左手を挙げると、先輩は僕に手を振った。その屈託のない雰囲気に心から懐かしいと思った。一方の僕はというと、同じタイミングで見つけたようなふりで


「さや姉じゃないですか」


と驚いてみせる。下手な小芝居だ。ちょうどその時ブルブルとポケットの中で僕のスマホが鳴った。タイミングの悪い通知だ。電話ではなさそうなので無視しよう。


 先輩は当たり前のようにくるりと向きを変えると、僕と同じ方向に向かって歩き出す。まあ横断歩道の真ん中でのんびり再会の挨拶というわけにもいかないけど、さっきから仕草一つ一つがいちいち自然すぎて、完全に流れに乗せられているような気になる。本当に久しぶりのはずなのに、一瞬であの頃の空気感に変えてしまうのは、さや姉のさや姉たる所以かもしれないと思った。


 横断歩道を渡りきって、人の往来の邪魔にならないところまで下がる。


「こんなところでたっくんに会うなんてびっくりしたよ」


少しハスキーなさや姉の声。ぺしぺしと僕のリュックを叩くあたりの茶目っ気も相変わらずらしい。


「さや姉こそ、こっちに来てるなんて思わなかったですよ」


「ほんと、たまたまだったの」


と答えながらさや姉はさっきまで見ていたスマホをちらりと確認する。と、一瞬動きが止まり、声にならないくらいの大きさで、「あっ」と呟いたのが聞こえた。


「あ、大事な連絡ですか?それならそっちを先に……」


急いでそう言ったが、いいのいいのと言いながらさや姉はスマホをかばんにしまい込んだ。僕を見つけた拍子に打ち掛けのメールを送ってしまった、とかじゃないだろうか、と心配になるような一連の動作。でもさして気にも留めていない様子をみると、杞憂だったらしい。


「ううん大丈夫。それよりたっくんはどうしたの?今日は買い物?」


「特に決めずにぶらっと出てきたとこです」


「そうなんだ。あたしもそんな感じかな」


そこで一旦言葉を切るさや姉。


「この後たっくんは予定ある?良かったら、着いてってもいい?何かあるならその時間まででも全然いいんだけど」


「え、あ、いや僕は今日暇人なんで全然構わないですけど。さや姉こそいいんですか?用事があってきたんじゃ……」


「あ、いいのいいの。たっくんこそ大丈夫?あたし邪魔じゃない?」


「それは大丈夫ですよ」


「やったね。こっち来るの久しぶりだし、とりあえずたっくんの行きたいとこに着いて行こうかな」


「そうですか……」


そう言われても、僕の行きたいところも別に決まっているわけじゃないんだよな。行く所か、と考えていちばん大事な用事を思い出した。妹から受け取りを頼まれている品物があったんだ。


 どうもこっちの本店でしか売っていないバージョンのアクセサリーらしく、通販にすればいいものを、来週の連休に帰省するならその時持ってきてよ、と配送料をケチった妹におつかいをさせられたのだった。


「じゃあ、とりあえず一つ用事を片付けてもいいですか?」


「うんうん。いこいこ」


何だかやけに楽しそうだ。偶然僕に会ったからかな、と考えてそれを打ち消す。そういう期待はしないに限る。


 おつかいのアクセサリーショップはここから5分も離れていないところにあった。休日でごった返す歩道を、人を縫うようにして2人で歩いていく。そう言えば誰かと並んで歩くのも久々のことだった。急に右側のさや姉の気配を強く感じてしまい、腕が触れないようにおもむろに僕は後ろ手を組んだ。


「さや姉は元気にしてました?」


心の中のあれこれを気取られないように注意しながら僕は話しかける。さや姉が大学院に進学してここを離れたのが去年の4月のことだった。研究したいテーマが自分の大学では盛んでなかったせいで、別の大学の大学院に行くことにしたと聞いていた。とは言え大阪だから電車で1時間もあれば行き来できる程度だ。それでも、さや姉が卒業して以来会うこともなかった。


「うん元気にしてたよ。修論に追われてはいたけどねー」


そう言いながらもさや姉は明るかった。


「たっくんこそ元気にしてた?」


「僕の方はですね……」


と答えようとしたところで、ちょうどお店の前に来たことに気づく。


「あ、ごめんなさい。とりあえずここの用事だけ終わらせてもいいですか」


「え、あ。ここなの」


そんなに大きなお店ではないけれど、中にはたくさんお客がいた。妹いわく、女子のあいだでは有名なブランドらしいが僕が知るわけはない。でもさや姉は流石に知っていたらしく、たっくんがここに用があるとは、とやや失礼な気もする呟きが聞こえた。


 でもちょっと入りにくいなあと僕は内心思っていた。男一人で物を受け取りに来たとしても少し勇気がいたとは思うけど、店内には見るからにラブラブなカップルが何組もいる状況で、そこにさや姉と一緒に入るのは別の種類の勇気が必要だった。


 僕の数秒の葛藤をどう受け取ったのか、さや姉は


「あたしは勝手に見て回ってるから気にしないで」


と言う。


「物は決まってるのですぐ終わります。さっと片付けてきますから」


と言い残して僕はずんと足早に店内に入った。


 レジで店員さんに名前を告げると頼まれ物はすぐに出てきた。6500円です、と言われ、妹がちゃっかり立替まで僕に押し付けていたことを知る。多めにお金を持ってきてて正解だった。


 受け取った物を袋ごと、空っぽのリュックに入れてさや姉を目で探す。ほどなく指輪のコーナーにいるのを見つけた。


「おまたせしました」


何かを熱心に見ているさや姉の視線をたどると、青い石が嵌められた指輪が目に入った。ああ、あのときの指輪に似てる、と僕は余計なことを思い出す。僕がさや姉にあげた最初で最後のプレゼントだった。


「用事終わった?」


さや姉がようやく僕に気づいたのか声をかけてきた。


「はい、お待たせしました」


僕はもう一回だけさっきの指輪に目を向けた。するとさや姉は


「こういうシンプルなのって素敵だよね」


と言って青い石の指輪ではなく、その2つ隣に置かれていた銀色の指輪を指差した。石はなくて、2本がからみあうデザインのシンプルだけど品の良いリングだった。


「そうですね」


と返事をしながら、さや姉が気になっていたのが違う指輪だったと知り、少し寂しい気持ちもあった。渡した物も、そのシチュエーションも些細なものだったから、そんな思い出もう忘れているかもしれない。


「ごめん、ちょっと御手洗いだけ行ってくるね」


そんな僕の動揺には気づかなかったようで、さや姉はそう言ってその場を離れた。店内にいるのは気がひけるので、僕はお店を出て入り口の端で待つことにした。


 さや姉のことを意識し始めたのはいつからだったろうか。2歳年上のさや姉は、し

っかり者のお姉さん感と同い年のような無邪気さを兼ね備えた女性だった。大学入学してすぐの頃、流れで付き合い始めた元カノは良くも悪くもお嬢様で、初めは振り回されるのも悪くないと思えたけど、3ヶ月も経つとだんだん面倒に感じることが増えていった。その頃からさや姉と話をする機会が増え、その内には何度か2人で出掛けたこともあった。もちろん僕に彼女がいることはさや姉も知っていたし、なによりそんな状態でさや姉を好きになるのは失礼なことだと僕も思っていた。でもそんな心配をしなくとも、さや姉から見た僕は後輩以上の何者でもなくて、むしろどこかあしらわれているような雰囲気は弟を見る姉のようですらあった。つまり恋愛対象にはなりえない存在として。


 下手にそれを自覚していたせいで、元カノと別れた後もさや姉にアタックすることは出来なかった。可愛がられる後輩というポジションから踏み出す勇気もなかった。そんなある日、さや姉の趣味である古書探しに付き合っていた時に偶然通りかかった小さな雑貨屋。今日来たような本格的なアクセサリーショップじゃなくて、もっとカジュアルな小物が置いてあるお店だった。


 ふらりと立ち寄った店内で、さや姉が青い石の指輪を差して「青って素敵だよね」と言ったのだ。でもこういうのあたしに似合わないし、と続けたさや姉に、「じゃあ今日は僕がプレゼントしますよ」と言って僕はその指輪を取った。慌てて止めようとするのをすり抜けて、僕はさっとレジにそれを出した。もちろん本物の宝石じゃなかったけど、普段からお世話になっている先輩へのささやかな感謝の気持ちだった。


 それからさや姉はその指輪を時々つけてくれた。指輪とか似合わないよね、とか、たっくんからのプレゼントとか照れるよね、とかその度によく言われた。案外女の子っぽい小物をつけるのは慣れていなかったのかもしれない。


「ごめんごめん、遅くなったね」


肩をぽんと叩かれて僕はびくりとした。


「えっと、僕の用事はもう終わりなので、後はさや姉に合わせますよ」


「え、もう大丈夫なの?でもなー、あたしも別に行く場所を決めてきたわけじゃないしなあ」


どうしよっかなーと言いながらさや姉がスマホを取り出す。さっきまで指輪のことばかり考えていたせいだろうか、ふと僕はスマホを持つさや姉の左の薬指を見た。


 そこには銀色の指輪が嵌められていた。

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