エピローグ3【完】

 しばらくそうしていると、宰相様がやってきて、国王様達と会うことになった。そわそわしながら廊下を歩いて、謁見室に入る。奥の椅子には、国王様と王妃様が並んで座っていた。私を見て息を呑んだ国王様の左頬には、真っ赤な掌の跡がある。


「──こちらへ」


 最初に口を開いたのは王妃様だった。歳を重ねていても美しいその姿は、貴族の令嬢も憧れているらしい。でもママの恋敵だった人だと思うと、複雑だ。この人がいなかったら、ママは国王様と結婚して、王妃になっていたのかもしれない。


「こちらに来なさい、と言っています。聞こえませんか」


 ぼうっとしていた私を王妃様が急かす。私は慌てて奥へと進んだ。そうするべきだという無意識の元、適当に頭を下げる。


「どうです、ミレーヌ」


「そうですわね……貴女、顔を上げてくださる?」


 王妃様と国王様しかいない筈の部屋から、そのどちらでもない女性の声がした。どこかに隠れていたのだろうか。驚いて顔を上げ、そこにいた人物にまた驚く。

 言葉が出なかった。この美しい人は、いったい誰なのだろう。

 豊かな髪を軽く結い上げて、計算されたほつれ毛が波打ち細い首筋を際立たせている。すっきりと細身の身体なのに、どこか芯が通っているようにしっかりとして頼りない印象がなかった。白磁のように透き通った肌に、見つめられるだけで自身の価値が上がったように感じさせる魅惑の瞳。ふとした所作の一つ一つが美しく、どうしても引きつけられる。

 誰よりも美しいと思っていたママとも、ついさっき美しいと思った王妃様とも違う。その美しさは、女神もかくやと思わされるほどだった。だけど、誰かに似ているような……?

 私が惚けたように見入っていると、女神は慣れているというようにくすりと笑った。


「エミリアの血縁で間違いないでしょう。この瞳と顔立ち……生き写しと言って良いほどですわ」


 女神はママの知り合いだったようだ。こんな人と知り合いだったなんて、さすが私のママだ。


「ありがとう、ミレーヌ。わざわざごめんなさいね。陛下の言葉では信用できないから、助かったわ」


「良いのよ。ついでに夫と娘に会って、驚かせてきますね」


「この埋め合わせは必ずするわ。二人にも謝っておいてくれるかしら」


「ええ、かしこまりました」


 ミレーヌと呼ばれた女神は、軽く笑って謁見室を出ていった。

 ママの話が聞きたい。あの人と話をしてみたい。そう思った私は、しかし王妃様の低い声で、何も言えなくなってしまう。


「──貴女、リュシエンヌちゃんからジョエルを奪おうとしていたのですってね」


「それ、は」


 その迫力は想像以上だった。私は震えそうになる足を抑えようと必死になるしかない。こんなに怖い人だったなんて、聞いていない。


「ミレーヌの娘を私の息子に嫁がせるのは、私の野望なのよ。それなのにこちらから頼んで結んだ婚約を反故にしようとしたなんて……こんな小娘が」


「こ……むす」


 というか、女神の娘が王妃様の息子の婚約者? それってつまり、王子様の婚約者である──リュシエンヌ様が、女神の娘!?

 言われてみれば、リュシエンヌ様はまだあどけなさが抜けないが、確かに女神に良く似ていた。洗練された所作や、その面差しまでも。

 一番だと思っていた私の愛らしさが、途端にリュシエンヌ様には勝てる筈がないと言う落胆に変わっていく。これから大人になるにつれてあんな風に美しくなるなんて、聞いてない。敵うわけがないじゃない。

 だから王子様は私に靡かなかったのか。瞬間、王子様に対しての苛立ちがふっと収まったのを感じた。


「そうでしょう? ねえ、陛下」


 国王様は王妃様から向けられた鋭い視線にびくりと顔を引きつらせ、無言のまま俯いた。


「もう知っているかもしれませんが、貴女はこの人の娘で間違いないようです。──ラマディエ男爵には話をつけました。今日からここで暮らしていただきます。数日は客間ですが、すぐに後宮に貴女の部屋を設えましょう。申し訳ないけれど、その王家の者にしか持ちえない色を持って社交界に顔を出してしまった以上、貴女は王家で王女として引き取らなければいけないわ」


 きたきたきた! 私は王妃様から向けられる視線の種類を分かっていながら、わくわくと胸を高鳴らせた。こうなれば王子様が手に入らなくてもなんの問題もない。リュシエンヌ様に対抗する気もなくなった。

 やって来る、私の最高の生活……!!


「──ですが、男爵は何を教育していたのでしょう!? 最低限の礼儀作法は知っているようですが、粗だらけで優雅さはない。顔は整っているようですが、姿勢も悪い。ジョエルを誘惑するなんて百万年早いわ。……頭の出来も残念でなければ良いのだけれど」


「な……っ」


「貴女は私が直々に教育するよう、陛下に許可をいただきました。王族として、しっかり躾けて差し上げますわ。覚悟、してくださいね」


 王妃様は笑顔だが、目が全く笑っていない。逃げる先を求めて国王様に視線を移す。

 私が甘えれば、男なら誰でもきっと絆される筈。ましてこの国王様は、私の父親だ。瞳を潤ませて、上目遣いで……。


「パパ。怖いの……」


「う」


「何がパパですか、はしたない! お父様か陛下とお呼びなさい!!」


 一瞬甘い顔をした国王様だが、それよりも王妃様の方が早かった。その迫力に、私はもう立っていられなくて、震える足に任せてぺたんと床に座り込んだ。

 王妃様が広げた扇で、口元を隠す。


「王族になるということは、他の誰にも侮られてはいけないということ。教育の成果がなければ貴女は人前には出せません。離宮に幽閉されたくなければ、せいぜい明日から必死で勉強することですね。──……連れていって」


 すぐに無言のまま近付いてきた使用人に担がれ、私は元いた客間に戻された。同時に次々と運び込まれる分厚い本が、机の上だけでは足りず、お茶をするためのテーブルの上にまで山と積まれていく。それらは、礼儀作法や歴史、地理、法律など、私が嫌いで苦手な科目ばかりだ。そもそも得意な科目は体育だけ(それもダンス以外)だったけれど。

 客間には外側から鍵がかけられた。逃げ場はない。

 私は頭を抱えて本の山に突っ伏した。ばさばさと音を立てて落ちた本は、学院で使っていた教科書よりも文字が細かい。


「──……そんな。こんなのって……嘘でしょーっ!?!?」


 嘆きは誰にも聞き届けられず、私には現実を受け入れる以外の選択肢が無かった。




   ◇ ◇ ◇




 私は卒業してから、毎日王宮に通っている。結婚式の準備と、王家に嫁ぐための最後の調整のためだ。来年の春には王太子妃となる。そう思うと嫌でも身が引き締まった。ジョエル殿下と結婚すると思うと、忙しい日々も頑張れた。

 それでも、今日は楽しみな予定だった。花嫁衣装を、仕立屋と打ち合わせるのだ。

 お母様も一緒に王宮に来るのは久しぶりだ。並んで慣れた廊下を歩いていると、正面から見知った顔が近付いてきた。


「まあ! バルニエ夫人じゃないの」


「お久しぶりでございますね」


 声をかけてきたのはシュヴァリエ公爵夫人だ。お母様は立ち止まって、回廊の途中で話し始める。私は手持ちぶさたで、中庭の花を見る。そういえば、ジョエル殿下に初めてあった日にも、ここで呼び止められたわ。

 あのときと同じ季節だった。

 中庭には懐かしい白薔薇が咲いていた。囲むように咲くネモフィラの花も美しい。 その花の名前を教えてくれたのはジョエル殿下だったわ。

 私は誘われるように回廊から中庭に出た。幼い日を思い出して、花壇の側にしゃがみ込む。ネモフィラの花びらを指先でつつくと、小さな青い星がゆらりと揺れた。


「──『ネモフィラの花のように可憐な姿が目に焼き付いて、忘れることはできそうにないんだ』」


 突然の聞き慣れた声に顔を上げた。いつかも言われたその言葉に、思わず頬が緩む。

 それは、かつてとってつけたように言われた子供らしくない口説き文句だ。


「懐かしいですわね、ジョエル殿下」


 ジョエル殿下は苦笑して、こちらに歩いてきた。衣装合わせには顔を出さないことになっていたから、今日は会えないと思っていた。見つけて会いに来てくれたのだろうか。


「あれ、本当にそう思ってたんだよ。……多分、初恋だったんだと思う。子供過ぎて、あの頃はからかうようなことしか出来なかったけどな」


 ジョエル殿下の頬が赤い。今更になって告げられた気持ちに、私の胸が高鳴った。


「……私も、殿下が。初恋、でした」


「そうか!」


 恥ずかしいのを我慢した言葉に、ジョエル殿下は本当に嬉しそうに笑ってくれた。私は差し出された手を取って、ゆっくりと立ち上がる。

 すぐに離されると思った手は、代わりに強く握られた。殿下が片膝をついて、その手に唇を落とす。物語のような行動に、どきりとした。


「貴女に、想いを寄せ続けることを許してほしい。叶うなら、この先ずっと。結婚して、王太子に……将来は王になる俺を、一番側で支えてほしい」


 支えてほしい、という言葉が、どれだけ私を強くするだろう。

 ただ守られたいわけじゃない。これまで厳しい王妃教育も花嫁修業も耐えて乗り越えてきたのは、守られるためではないから。

 ジョエル殿下の隣に立ち、この国を守るためだから。


「当然ですわ。ずっと、一緒ですわよ」


 はっきりと言うと、ジョエル殿下が頷く。私は微笑みを返して、殿下の額に口付けをした。


 悪役令嬢になり損ねた私は、最愛の婚約者と婚約破棄をせず、未来を望んだ。

 この先の私達の物語は、まだ、誰も知らない。

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