三度目の春と編入生7




   ◇ ◇ ◇




「ジョエル殿下、どうかなさったのですか?」


 私は王宮で受けた講義の後、ジョエル殿下にそう尋ねた。尋ねずにはいられなかったのだ。なにせ、講義の間もずっとうわの空、家庭教師を務めてくれている教授から注意されても、すぐにまた元の状態に戻ってしまう。途中から教授も諦めて、復習に時間を割いていたほどだったのだから。

 こんなこと、これまでにはなかった。一体何が、殿下をこんなふうにしたのだろう。

 ジョエル殿下は、少しずつ意識が浮かび上がってきたのか、それまで宙を見ていたところから、やっと私の顔に焦点が合った。予想以上に近くにあったことに驚いたのか、目を丸くしている。


「──え? あ……ああ。もう講義は終わったのか?」


 寝ぼけてでもいるのか。


「とっくに終わって、先生はお帰りになっておりますわ。私もそろそろ帰らせていただこうと思っておりましたのよ」


「そんなにか!? うわ、外暗いっ」


 窓の外はすっかり日が沈んでいる。夕日の残滓すらない、いっそ清々しいくらいの星空だ。


「本当に気付いてなかったのですね」


「ああ」


 苦笑して頷いたジョエル殿下に、私は小さく嘆息した。そんなに悩むほどの問題が何かあったのかしら。


「殿下……何かあったのですか? ご心配ごとでしたら、私も相談に乗りますわ」


 私にしては、素直で可愛げのある言い方ができた気がする。ちょっとだけ自分に満足しつつ、ジョエル殿下の言葉を待った。もしかしたら、こんな私でも何か殿下の力になれるかもしれない。

 


「それが、オデッ──……いや」


「おで?」


 聞き返すと、ジョエル殿下は言いかけたことを後悔するように眉間に皺を寄せた。


「いや、気にすんな。なんでもないなんでもない! ──なんだ、リュシエンヌ。心配してくれたの?」


 きらきらきら。会話の途中で、ジョエル殿下はもうすっかり見慣れた王子様オーラを全身に纏ってしまった。つまりこれは、紛れもなく演技である。そしてたちの悪いことに、ジョエル殿下のこの仮面は、被り慣れているが故に簡単には剥がせないのだ。


「ええ、心配いたしましたわ。私の大切な婚約者である貴方が、そのようなお顔をしておいでなのは……心が痛いです」


 それでも、どうにか剥がせないかと試みる。おで、の続きが何なのか、私だって気になるのだ。それに……ジョエル殿下が心配なのも、あながち嘘ではないもの。


「うっ……いや、貴女は心配なんてしなくて大丈夫。ほら、そろそろ帰る時間じゃないか? 宰相の迎えが来るよ」


「そう、ですわね」


 ジョエル殿下が言う通り、私はお父様と一緒に帰ろうとしていたから、そろそろ迎えが来てしまう。


「──でも、心配ですのよ……っ!」


 紛れのない本心だった。気になる以上に、心配なのだ。簡単には話せないことなのだろう。王族としてなかなか口にはできないことも多いことは分かっている。それでも……それでも、心配をしてしまうのは止められない。


「リュシエンヌ……」


 ジョエル殿下は目を見開いて、私を見つめて固まってしまった。


「え……っと。殿下?」


 私は目の前でひらひらと掌を振って、意識を引き戻そうと試みた。しかし思ったように上手くはいかないもので、ジョエル殿下が再度我に帰るよりも早く、お父様が迎えに来てしまった。


「リュシエンヌ、帰るよ」


「──お父様っ! お疲れ様ですわ」


 私はお父様に駆け寄って、にこりと笑いかけた。ジョエル殿下の話も気になるけれど、今日は時間切れだ。


「では殿下。また明日、学校でお会いいたしましょう」


「あ……ああ。リュシエンヌ、お疲れ様」


 一礼して部屋を出る。この瞬間、私はいつもとても寂しくなってしまう。たとえ勉強のためであっても、ジョエル殿下と二人きりで過ごせる機会は少なくて貴重だ。学校ではレオンス様もいるし、二年前に一度藤祭りに行って以来、デートと言えるものは一度もしていない。

 誘ってくれればいつでも頷く準備はできているのに、ジョエル殿下ったらお忙しいみたい。去年の藤祭りはおじい様の体調が悪くて離宮に行っていたし、最近では国王陛下から執務を教わってもいるらしい。

 仕方がないことは分かっていても、寂しいものは寂しい。これでも、ちゃんとした……想いが通じ合った婚約者、のはずなのだから。


「──まあ、言ってもらったこと無いんですけどね」


 実は二年前も、はっきりと言葉で好きだとも愛しているとも言われていない。素の状態のジョエル殿下からは、これまでに一度も言われたことがない。

 忙しいと言っても一度もデートができないなんてこと、あるはずがないと私は思っている。気持ちが離れたとは思いたくないけれど、ジョエル殿下が何を考えているのか、私はよく分からないのだ。


「ん? どうした、リュシエンヌ」


 突然独り言を言った私を訝しんで、お父様が問いかけてくる。まさか思ったことをそのまま言うなんてこと、できるはずがない。──というより、『好きな人が好きって言ってくれないの』なんて可愛らしい相談ができるような性格はしていない。


「なんでもありませんわ」


 私は微笑んで窓の外に目を向けた。相変わらずバルニエ侯爵家は王宮のすぐ近くだ。あっという間に家に帰り着いてしまった。


 この日、ジョエル殿下を問い詰めなかったことを、私は少しして後悔することになる。しかしいつだって、時間を巻き戻すことなどできやしないのだ。

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