三度目の春と編入生6

 流石に怖い、そろそろ怖い。逃げ出しても良いのなら、すぐにでもここから逃げ出したい。ちらりと入ってきた扉に目を向けると、母上の忠実な侍女が扉を塞ぐようにして立っていた。くそ、逃げられないか。


「は……母上?」


「なんですか、ジョエル?」


 明らかに機嫌が悪いことがわかる口調に、俺は素直に呼び出しに応じたことを後悔した。ここに来なければ、こんな状況に陥ることもなかったのに。


「──……怒っていらっしゃいますか?」


 今更聞くことでも無かったか。しかし効果はあったようで、母上は椅子に座った──そう、やっと仁王立ちをやめて、である。俺はほっと息を吐いたが、母上は向かい側の椅子を手で指し示した。座れ、ということだろう。

 逃げるまでの道のりがまた少し遠のいたことを自覚しつつ、俺はそれに従った。母上はすっかり冷めているであろう紅茶に手を伸ばして、王妃らしく優雅に口を付ける。


「いいえ、怒ってなんていないわよ。別に陛下がどこかで愛人の一人や二人作っていたとしても? 正妻であり唯一の妃である私には関係のないことですからね」


 いや、関係はあるだろう。

 この国では一夫多妻が許されており、貴族の中には正妻とは別に妻を何人か置いている者も多い。しかし国王である俺の父上は、母上以外に妃を娶っていなかった。それは母上の自信の根拠となる重要なことであり、同時に夫婦間の愛を証明するものでもあった。

 母上は侍女がいつの間にか淹れ直していた紅茶を飲んで、自身を落ち着けるように深く深く息を吐いた。というか俺の前にも紅茶がある、いつの間に。


「そんなことより、髪色よ。貴方が見間違うことはないでしょう?」


「あれは──」


 俺はそこで言葉を切った。思い出すのは、ルヴェイラ学院で何度も見かけたオデット嬢の姿だ。編入してきたばかりの頃は近くにいることはなかったが、最近は、食堂ではシリルやセドリックの側にいることが増え、更に、侯爵家の令息の友人にもなったらしい。意識して見てみると、若く見目が良いと令嬢達に評判の教員とも懇意にしていることが分かった。

 俺としてはああもあからさまに男に媚びる姿は浅ましいとしか思えないが、そういった媚びるような振る舞いを魅力的に思う男が一定数以上いることは理解できる。貴族令嬢というのはとかく礼儀やしきたり、暗黙のルールを重視しがちで、それが美点だとは分かっていても、年頃の男子にとってはどうしても堅苦しい。その点、オデット嬢は育ちが平民だからか、そう言った面倒ごとなど関係なく、するりと懐に入り込んでくるのだ。

 思考が飛んでしまった。俺はオデット嬢の髪について考えることにする。屋外でも屋内でも見かけたが、確かにあの絹のように艶やかな銀色と、光を受けて輝く桃色は、見知っているものだった。血を分けた弟と、同じ色だったから。俺だけは、見間違えるはずがないのだ。


「本物、です」


 俺の言葉を聞いて、母上はまた眦を釣り上げた。


「そう……そう、なのね。ふふふ」


 その笑い声が怖い。もう俺に聞きたかったことは聞いただろう。そろそろ自室に戻っても良いだろうか、というか帰らせてくれ。今日はこの後夕刻から、リュシエンヌと二人で家庭教師の講義を聞くという、俺にとってとても大切な予定が入っているのだ。

 それに、まだオデット嬢が父上の隠し子だと決まったわけではない。


「父上は母上一筋かと……」


「じゃあその令嬢は誰の子だと言うの? 父になれる人間なんて、数人しかいないわね」


「それは」


 不用意に言葉にできない人々だ。俺の父上でなければ、年齢的に最も可能性が高いのはレオンスの父上である叔父様、万一の可能性があるのが引退したおじい様。もちろん他家の貴族に降嫁した王女も過去にいるが、直系から離れれば離れるほどその特徴の発現率は低くなるから、王族の血が混ざった子孫の誰かとは考えられない。

 父上に兄弟は一人しかいないし、おじい様のお兄様は故人だが、年齢が十歳離れているらしい。病弱で早くから離宮の一つで療養生活をしていたらしいので、この可能性も低い。女性の妊娠は隠せないため、王女の隠し子ということはあり得ないだろう。

 可能性が高い候補者は、やはり父上と叔父上の二人だけだ。

 言葉に詰まったままの俺に、母上が不気味に笑みを深めた。


「──貴方が、内密に調べてくれるかしら?」


「え」


「ジョエルは同じ学院で同級生でしょう? 近付いても、怪しまれないと思うの」


 怪しまれることはない。ないけれど、それはなんて面倒臭い……というか、俺にはリュシエンヌという最愛の婚約者がいるのだから、他の令嬢に近付くのは遠慮したい。


「ですが、俺にはリュシエンヌが」


「あら。私は貴方に、浮気をしなさいと命じている訳ではないわよ? ただ令嬢と話をして、その素性を調べなさい、と言っているだけ。何か問題が?」


 母上のティーカップを持つ手に力が入っているように見えるのは気のせいだろうか。うっかり手が滑って紅茶をかけられるのは嫌だ。

 問題なんて山のようにある。俺はオデット嬢の『(リュシエンヌが以前小説について語るときに使っていた言葉を使うならば)攻略対象』になるのはごめんだ。しかし母上の怒りも尤もだし、同時に、これはレオンスの家にも関わることになるかもしれない。少なくとも、放置していて良いことではなさそうだ。そして誰かに話して良いことでもないだろう。

 つまり俺には、頷く以外の選択肢がない。


「問題はありますが、承ります。では、家庭教師が来る前に準備がありますので、俺は失礼させていただきますね」


 今まで口を付けていなかった、母上の侍女が入れてくれていた俺の分の紅茶を、行儀を気にせず一気に呷る。ソーサーに戻すと、がちゃんと勢いよく音が鳴った。顔をしかめた母上は、しかしそれを咎めることはない。


「頼みましたよ」


 扉に手をかけた俺の背中に、母上のどこか縋るような声がかけられた。

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