円満な婚約と初恋7

「俺の事情に巻き込んだことは、ええと……悪かったと思ってる」


 突然の言葉に、わたしは隣にいるジョエル殿下を見た。殿下は、視線を斜め下に向けてばつが悪そうにしている。きっと謝り慣れていないのだろう。王族である殿下はわたしと同じ子供でも、きっとわたしよりも、背負っているものが多いのだ。

 そこまで考えてから、はたと言葉の内容に意識が向いた。巻き込んで、悪かった、って。


「思ってらっしゃったのですか……!?」


「そこまで人でなしではないつもりだ。だから、その……お詫びってわけじゃないが、女ならこういうのは好きだろう」


 こういうの、と言って、ジョエル殿下はバルコニーの手摺りを両手で掴んだ。その横顔が赤らんで見えるのは、照れているからか、それとも夕日のせいか、どちらかしら。


「ありがとうございます。すごく、嬉しいです……」


 ジョエル殿下の部屋から見える殿下だけの景色を、わたしにも見せてくれた。見せようと思ってくれた。それは、なんだかすごく特別なことのように思えた。


「──ごめん。お前にも好きな奴がいたかもしれないって、思って」


 それで、悪いことをしたと思ってくれたのか。王族であるジョエル殿下の頼みを、よく分かっていない九歳のわたしが断ることはできなかっただろうと。だから後になって、好きな人がいたら悪いことをしたと後悔したというのか。

 ああ、なんて不器用で、可愛い人かしら。王子さまも、こんなことで悩むのね。


「いませんでした」


「え?」


 わたしは顔を横に向けて、ジョエル殿下を見た。殿下はわずかに目を見開いて、驚いたような顔をしている。なんだか面白い。わたしに好きな人がいなかったのだから、そこは婚約者として素直に喜ぶところでしょ。


「好きな人なんて、いませんでした。だから、殿下が心配することはないんです」


 急に目の前の男の子が、愛おしく思えてくる。


「そうか。それは……良かった。じゃあ、俺の婚約者でいてくれるか?」


 今なら、あの顔合わせの場でのジョエル殿下が作り物だったことが分かる。素顔を隠して、皆が理想とする王子さまとして振る舞おうとしている、年齢以上に見せかけて作られた姿。

 気を抜く時間がほしくて、わたしと婚約しようと思ったのかしら。それだけなら、今わたしに向けられている、この熱い視線は何? 鼓動が早くなってくる。初めて感じるどきどきが、わたしの頭を真っ白にしていく。


「仕方がないですね。ジョエル殿下には、わたしが必要なんでしょう?」


 精一杯の勇気で答えた言葉は、どうしてか妙に上から目線になった。


「は……ははは」


 ジョエル殿下は急に気が抜けたように笑い出すと、半回転して背中をバルコニーの柵に預けた。そのままずるずるとしゃがみ込んで、上を見上げる。わたしだけ立っているのも変な気がして、真似をして隣に座り込んだ。

 そこに広がるのは、空だ。さっきよりも藍色が強い。


「藤祭り、行けなくなったって聞いたんだ。俺のせいだろ?」


 藤祭りは、初夏に行われる祭りだ。王都では藤の花が街中に飾られて、商業地区には屋台が並ぶ。王宮では夜に藤見の宴が開かれるそうだ。商業地区の屋台には珍しい工芸品や食べ物が並ぶので、わたしも毎年楽しみにしていた。

 この日に藤の花や藤色の装飾品を贈ると恋が叶うというジンクスもあり、恋人同士が想いを込めて贈り物をしたりもしているらしい。わたしだって、いつか誰かに貰ってみたいと思っている──けれど、この場合、ジョエル殿下がくれるのかしら。でも、わたしと殿下は、契約上の婚約者、で。想い合っているわけでは、なかったわね……。


「いえ、その……わたしが、一人でふらふらしていたのが悪いのです。お父さまにも、そう言われました。王宮の中とはいえ無用心でしたわ。だから、殿下のせいでは──」


「そっか」


 ジョエル殿下は空から目を逸さなかった。


「いつか行くか」


「え?」


 あまりにそっけない声で、わたしは思わず聞き返した。聞き間違いじゃなければ、ジョエル殿下は、わたしを藤祭りに誘ってくれたの? 隣を窺うけれど、殿下はこちらを見ようとしない。代わりに、ふいっと顔を背けて、わたしから隠した。


「──べっ、別に俺が行きたいとかじゃないけど、お前はああ言うの好きなんだろうし、俺と婚約したままなら、他の男と行くわけにいかないだろ。だから、お前が親と行くのを卒業したら、その後は、俺が一緒に行ってやっても構わないって言ってるんだ」


 いつか、親と行かなくなったら。つまり、今より少し大人になったときのための言葉だった。ジョエル殿下は、それまでわたしと一緒にいるつもりで、わたしと藤祭りに行くような関係を続けているつもりなのだ。どうしてわたし、ロマンチックでもないこんな言い方なのに、こんなに嬉しく感じるの。


「はい。いつかその日を、楽しみにしてますわ」


 空の茜が消えていく。もうすぐ夜になるのだろう。戻らなければ、お父さまに叱られてしまう。一応、部屋の前にいた近衛の一人にジョエル殿下が何か伝えていたから、誘拐とかは疑われないでしょうけれど。

 でも、どうせ叱られるのなら、もう少しだけ。

 わたしは空が藍に染まるまで、殿下と二人、ただバルコニーからそれを眺めていた。

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