円満な婚約と初恋6

 結局どうにか講師が帰ってくる前にわたしも課題を終わらせることができた。ジョエル殿下は退屈そうにしていたけれど、もう知らない。


「なあ、なあ」


 授業が終わった部屋で迎えを待つわたしに、ジョエル殿下が話しかけてきた。さっきのことで少し怒っていたわたしは、つんとそっぽを向いて返事をする。


「何ですの?」


「お前、暇なのか?」


「ひ、暇ではありませんわ! お父さまが迎えに来てくださるのを、待っているのです」


 王宮で授業を受ける日は、部屋までお父さまが迎えに来て、馬車乗り場まで送ってくれる。しかしお父さまが忙しいときには、仕事がひと段落するまで、わたしは手持ち無沙汰だった。

 暇だとは言いたくなくて、待っているのだと虚勢を張ってみたけれど、ジョエル殿下は首を傾げた。


「それって、迎えにくるまでは暇ってことじゃないのか?」


「余計なお世話ですわっ」


 そりゃ、忙しいと言うのは無理がある状況なのは自分でも分かっている。だけど、暇かと聞かれて暇だと答えるのは、ちょっと、いや大分、慎みがないことのように思う。

 ふいっと顔を背けたわたしを、屈んだジョエル殿下が斜め下から覗き込む。


「まぁいいや。お前に見せたいものがあるんだよ」


 空いていたわたしの手を、ジョエル殿下が掴んだ。


「勝手に部屋を出てしまっては……」


 叱られてしまう。ただでさえ、顔合わせのときに勝手に中庭に行ったことを、お父さまに注意されているのだ。藤祭りも今年はお預けだと言われている。

 これ以上、お父さまのお怒りを買うようなことはしたくない。それなのに、ジョエル殿下はぐいぐいと手を引いて部屋から出ようとする。わたしも踏ん張っているけれど、やっぱり男の子の力には敵いそうもない。わたしより小さくて綺麗でも、やっぱり男の子、なんだ。


「今じゃなきゃ駄目なんだ。すぐ戻るから。な、良いだろ?」


「ですが──」


「良いから。怒られるときは一緒だ!」


 思いっきり手を引かれて、わたしは引き摺られるように部屋を出た。


「あっ、ちょっと!?」


 ぱたぱたと走るジョエル殿下の後ろを、一生懸命ついていく。まだ王宮に慣れていないわたしは、どこを走っているのか全く分からなくて、不安だった。しかしジョエル殿下は、迷うことなく明確な目的を持って走っているようだ。


「ど……どこへ向かっているのですか!」


 やっと立ち止まった物陰で、わたしは息を切らしつつも抗議の声を上げた。わたしの口を、ジョエル殿下は慌てたように掌で塞ぐ。


「ほら、静かに。見つかるだろっ」


「わたしが悪いのですか……」


 なんだか納得いかない。

 ジョエル殿下について廊下を走り、階段をいくつも上り、使用人達の作業スペースを抜けた。さっき授業を受けていた部屋は二階だったから、上った階段の数から考えると、ここは五階だ。下の階とは違って、人がかなり少ない。

 リネンを回収している使用人がいなくなったタイミングを狙って、ジョエル殿下は物陰から出た。そして、並ぶ扉の中でも特に豪奢なものの一つを開けて、中に入った。

 そこはどうやら誰かの私室のようだった。一目見ただけでも一級品だと分かる調度が、上品に、しかしどこか可愛らしい印象で揃えられている。生活感があるから、客間というわけでもないだろうけれど。


「ここ、俺の部屋なんだけど」


「殿下のお部屋ですかっ?」


 まさか本人の部屋だとは思わなかった。改めて見ると、この可愛らしさは子供部屋だからだろう。というか、と……っ殿方の部屋に二人きりというのは、ちょっと、いやかなり恥ずかしい。


「ああ。それで、ここから見える庭なんだけどさ」


「庭?」


「そうだよ。お前に見せてやろうと思って」


 そう言うと、ジョエル殿下は部屋の奥にある大きな窓を開ける。バルコニーがあるようで、導かれるままにそこに足を踏み出した。


「う、わぁ……っ!」


 そこから見えた景色は、わたしが想像していたよりもずっと、美しかった。

 時間は夕刻。空は茜色に染まっていて、藍が少しずつ侵食している。広い庭園はところどころに明かりがついていた。そしてそこに広がっているのは、巨大な迷路だ。


「薔薇の、庭園迷路?」


 この王宮には、薔薇の庭園迷路と言われる巨大迷路がある。薔薇の木が壁になっており、気を付けなければ脱出できなくなるらしい。上から見ると特に、その複雑さが分かる。今は薔薇の盛りの時期で、上から見ても色鮮やかだった。

 薔薇の庭園迷路の中には、幻とされている『天使の庭』があるらしい。噴水があって、とても美しい場所だと聞いたことがある。迷路の中に丸く開けた場所があるから、あそこだろうか。場所が分かっても、そこまで行ける気もしないが。庭師はよくここを手入れできるものだ。

 わたしは景色に心を震わせながら、夕闇に染まっていく庭園をじっと見つめていた。

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