円満な婚約と初恋5
「な……何を仰っているのですか」
さっきまでお前と言っていたのはどの口だ。まったく、騙されるとでも思っているのか。わたしだってそんなに馬鹿じゃないのよ。こうも分かりやすく演じられて、わたしが頷くと思っているのなら、失礼極まりないわ。
「本当のことだよ。さっきはあまりにあなたが素敵で、つい心にもない言葉を口にしてしまった。申し訳ない」
う。その綺麗な顔でそんなことを言わないでほしい。悔しいけれど、素直な言葉に聞こえてくる。
「い、いえ。わたしは、気にしておりませんわ」
思わず口ごもって、恥ずかしくて俯いた。ああ、言い返せなかった。相手が本物の王子さまだと思うと、どうしても強く出られない。わたしは、こんなにおしとやかな女の子ではないのに。
すると少しして、床とドレスしかなかった視界に、茶色い靴が映り込んだ。顔を上げると、すぐ側で、天使が微笑んでいる。天使──ジョエル殿下は、わたしの耳にその口を寄せて、お父さま達まで聞こえないように小声で囁いた。
「──お願いだから、頷いてくれ。俺にも事情があるんだ」
その声音の真剣さに、わたしは頷くしかできなかった。きっと殿下にも何か事情があるのだろう。ならば、わたしがここですぐに断るのも可哀想だ。
別に今ここでジョエル殿下と婚約しなくても、わたしは遠くないうちに誰かと婚約することになる。バルニエ侯爵家に生を受けた時点で、そうなることは理解していた。九歳とはいえ、わたしは国家の中枢たるバルニエ侯爵家の一員なのだから。この貴族社会に自由恋愛は難しく、いくらわたしに優しいお父さまだって、そんなことは認めないだろう。
どうせ見知らぬ誰かと婚約するなら、理由は分からないけれど、わたしと婚約したがっている王子さまと婚約する方が良い。王子さまとお姫さまの物語への憧れだって、まだ心の中にある。これから仲良くなって、恋をしていけば、幸せな結婚だってできるかもしれないのだ。
「良いのか!?」
「はい。わたしも、殿下のことをもっと知りたいです」
その言葉は、偽りのない本音だった。ジョエル殿下は輝かしい満面の笑みを浮かべて、わたしの両手を握った。わたしは少し照れ臭くて、はにかむことしかできなかった。
◇ ◇ ◇
このときのわたしの返事によって、バルシュミーデ王家直系の第一王子ジョエルと、バルニエ侯爵家長女であるわたしの婚約が成立した。正直、流されてしまった感は否めない。
何か重大な理由があるのかと思ったジョエル殿下がわたしとの婚約を望んだ理由が、まさかの『この縁談が成立すれば、もう面倒な女の子に言い寄られることもないし、断ることもできるだろ? その分自由な時間ができる。本当に助かるよ』だったことが分かった時点で、断れば良かったと幾らか後悔したことは、両親にも内緒だ。
それはともかくとして、王位継承権第一位の王弟殿下──シュヴァリエ公爵に次いで王位継承権第二位のジョエル殿下と婚約したことで、わたしは本格的に将来王妃となるための教育を受けることになった。そもそも王家のしがらみが嫌で既に臣籍降下したという王弟殿下だ。なんでも、ジョエル殿下が十三歳になった時点で、シュヴァリエ公爵は継承権を返上することになっているらしい。
そうしてわたしは、これまでの家庭教師との勉強の他に、週二回王宮に通ってジョエル殿下と授業を受けることになったのだ。
「なあ。お前、よくそんなに真面目に授業受けれるよなー」
隣の机でジョエル殿下がこつこつと机をペンのお尻で叩いている。頬杖をして、退屈そうだ。
「わたしにとっては、初めてのことばかりですから」
わたしは、広げた紙に思いついた言葉を書き並べていた。
今は作文の授業だ。講義を聞き、指定された本を参考に、講義の主題について自身の意見をまとめる、というものだ。今日の主題は『自由貿易と関税』。正直、九歳の子供にこれはかなり難しいんじゃないのと思う。教師は講義を終えると課題が終わった頃に戻ると言い残し、部屋を出て行ってしまった。部屋に残されたのは、わたしとジョエル殿下の、二人だけ。
「ふーん。俺、飽きてきたんだけど。──っていうか、お前、俺と同い年だろ。敬語とかいらないから」
「ですが……」
わたしは困ってしまった。歳の近い友人がいないわたしは、ため口での会話に慣れていない。それを説明すると、ジョエル殿下ははあっと息を吐いて、ゆるゆると首を左右に振った。
「堅苦しくされるのも嫌だと思ったんだけどな。仕方ないか」
「ど、努力はします……あ。努力はする、わ」
早速敬語になってしまい、慌てて言い直す。うまくできないものだ。ジョエル殿下はそれでもそんなわたしを見て、面白そうに笑っていた。悔しい。
「な、なんですか! そんなに笑うことないんじゃなくて!?」
ただちょっと言い間違えただけじゃない。
「いや、可愛いとこあるじゃんと思って……ああ、言葉は楽な方で構わないから、気にすんな」
殿下はついにペンを机に置いて、両手を伸ばしてしまった。そして、天使の顔で笑う。
「そのかわり、俺のこの言葉遣いも気にしないでくれるよな、リュシエンヌ?」
「──もう、殿下っ。からかわないでくださいませ!」
強い口調になってしまったことに気付くが、もう遅い。ジョエル殿下は思わずといったように吹き出して笑っていて、わたしはどうして良いか分からなくなった。悔しくて机の上の紙を見ると、ジョエル殿下のそれは文字で埋まっていて、既に課題が終わっているようだ。いつの間に。
わたしの紙はまだ三分の二くらいしか埋まっていない。ひょいと身を乗り出した殿下がそれを見て、意地悪な顔をする。
「なんだ。まだ終わってなかったのか。教えてやろうか?」
「け……結構ですっ!!」
講師が戻ってくるまで半刻を過ぎている。そりゃ、あなたは慣れているのでしょうけれど、わたしはまだ始めて数回目だ。同じようにできなくて当然でしょう。得意げな顔をして、まったく。
わたしはジョエル殿下からふいっと顔を背けて、机の上の紙と本に集中した。
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