円満な婚約と初恋4

「ジョエル、戻るわよ。あなたはまた、そうやってふらふらふらふらと……今日は顔合わせをすると言っていたでしょう」


 王妃さまはその美貌の目元を吊り上げて、ずかずかと──この表現以外の表現が思い付かないほど、見た目に反した勢いで歩いてくる。ジョエル殿下が、じりじりと後退った。さっき一瞬見せた大人の顔は、一体なんだったのだろう。

 ほら、わたしも緊張しているんだから、早く捕まってくださいな。


「まあ、王妃様。このような場所にいらっしゃるのは珍しいですわね」


 お母さまの声がした。


「ミレーヌ! 会いたかったわ~!」


 王妃さまの顔が、ぱあっと輝いた。それはもう、一瞬にして般若が少女に変わったと言って良いほどの変化だ。お母さまの人気は知っているけれど、王妃さまとも仲が良かったのね。お母さまが王宮に行くとき、わたしは留守番だったから、知らなかった。

 ジョエル殿下が、わたしと薔薇の影に半分身体を隠して、ほっと息を吐いている。あ、これは叱られずに済んで気が抜けた顔だわ。


「お呼びいただければいつでも参上しますわ。私も、王妃様とお話しさせていただくのは、楽しみですから」


「なかなかあなただけ呼ぶのも難しいのよぉ。あーあ、立場って面倒だわ。──でも、安心して! 今日からは、堂々と会えるから」


 王妃さまは頬に両手を当てて、夢見るような顔だ。


「母上のあんな顔、初めて見た……」


 振り返ると、驚いたようにジョエル殿下が隙間からにょきっと顔を覗かせていた。わたしだって王妃さまには驚いているけれど、相手がお母さまだから仕方ないかな。


「お母さまはいつも通りですわよ、いつも通り……レディキラーですわ」


 わたしの言葉を聞いたジョエル殿下が、悩ましげに引き結んだ口の端を痙攣させている。


「まさか、こんなに早くリュシエンヌにお話しをいただけるとは、思いませんでしたわ」


 どうやらわたしの話のようだ。なんのことだろうと思って首を傾げるが、わたしに構わず、話は続いている。大人の話には首を突っ込んではいけないと言われているから、気になっても聞くだけにしておこう。今は我慢だ。


「あら、王族としては普通よ。私も陛下と婚約したのは十歳のときだったわ」


 こ、婚約?


「そうでしたわね。ですが、夫がずっとごねておりまして」


「あら、侯爵にとっても悪くない話じゃない」


 お父さまが深い溜息を吐いた。


「王妃殿下。お言葉ですが、父親といたしましては、そう簡単に割り切れるものではないのです」


 婚約って、この話の流れだと、わたしが、ということだろう。でも、いったい誰と。


「ふふ、良いわ。陛下も待たせておりますし、移動しましょう。──ジョエル、あなたもいらっしゃい」


「はい」


 ジョエル殿下がちらりとわたしを見て、すぐに視線を逸らした。その耳が赤くなっているのは、照れているからだろう。え、照れている? ジョエル殿下が、わたしに?

 突然わたしもどきどきしてきて、どんな顔をして良いのか分からなくなってしまった。この子は天使のような顔をした、失礼な男の子、なのに。分かりやすく照れた表情を見せられたら、わたしも嫌でもつられてしまう。というかこの表情。もしかして、婚約の相手は。


「リュシエンヌ、行こうか」


 お父さまがわたしに手を差し出してくる。今は何かに縋りたくて、わたしはすぐにその手を掴んだ。





「──リュシエンヌ、先程少しお話していたね。第一王子のジョエル殿下だ」


「ジョエル・バルシュミーデです。はじめまして、リュシエンヌ嬢」


 王さまと王妃さまにご挨拶をした後、わたしはお父さまから改めてジョエル殿下を紹介してもらった。ジョエル殿下は軽く膝を折って、にこやかに挨拶をしてくる。


「ジョエル殿下、はじめまして。リュシエンヌ・バルニエと申します」


 わたしも最近やっとふらつかずにできるようになった、正式な王族に対する礼をする。勿論、精一杯の笑顔だ。

 でも、さっき出会ってなければすっかり騙されてたわ! ジョエル殿下ったら、王子さまオーラを全身に纏って、あの失礼な男の子の影なんてぴくりとも見せないのだもの。あれを見た後でこれを見ると、別人みたいだわ。


「これからよろしくね」


 ジョエル殿下が子供らしくない優雅な仕草でわたしの右手に触れ、胸の高さまで持ち上げた。何をするのかと思って見ていると、膝を折って、手の甲に唇を寄せてくる。


「──なっ」


 そこに感じたのは、柔らかな温かさ。

 顔が熱い。男の子にこんなことをされるのは初めてだ。さっき婚約ってお父さまたちが言っていたけれど、この感じ。やっぱり、わたしの相手は。


「知り合えて嬉しいよ。あのネモフィラの花のような可憐な姿が目に焼き付いて、忘れることはできそうにないんだ。──あなたに心を寄せても良いかな、リュシエンヌ嬢」


 わたしの大好きなキャンディに、チョコレートをかけて、更にお砂糖をまぶしたような台詞だった。九歳の男の子が言うには、随分と大人びている台詞だ。お父さまもお母さまも、王妃さままでもが満足そうにわたし達を見ている。ジョエル殿下も本音は分からないが、異論はないだろうから、わたしが頷けばこの婚約は成立するのだろう。

 でもだからこそ、わたしはどきどきしつつも首を傾げざるを得なかった。この男の子は誰だ。なにを企んでいるのか。

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