円満な婚約と初恋2

 バルニエ侯爵家は王城を囲むようにある貴族街の中でも、特に王宮の近くにある。だからわたしが馬車に乗って十分もしないうちに、あっという間に着いてしまった。


「お、お母さま。ここに……王子さまもいらっしゃるのですよね」


 わたしは目の前の王宮を見上げた。家から門までよりも、門を抜けてから馬車を降りるまでの方が遠かったように思う。いくつもの尖塔があり、回廊がそれらをぐるりと繋いでいる。中心にある建物は特に大きかった。さ、流石のわたしでも、これは緊張するわ。


「ええ、そうよ。リュシエンヌ、行きましょうか」


「はい……っ」


 これまでわたしは、お母さまについてお茶会などに参加したことはあるけれど、どれも貴族の邸でのものだった。だから王宮は、部屋の窓から見ていたばかりで、入るのは初めてだ。どうしても心臓がどきどきと煩くなって、落ち着かない。

 王宮は外観だけでなく、中もとても綺麗だった。壁には細かい細工の飾りやなんだか高そうな絵画があり、天井には伝承の天使の絵もあった。そのどれもが気になって、さっきから目が忙しい。回廊の片側は中庭に繋がっていて、開放的な雰囲気でもある。


「まあ! バルニエ夫人じゃないの」


「お久しぶりでございますね」


 お父さまの先導で回廊を歩いていると、向かいから歩いてきた貴婦人がきらきらと瞳を輝かせてお母さまに駆け寄り、声をかけた。お母さまも笑顔で応じている。あれは確か、シュヴァリエ公爵夫人だ。前にお母さまと一緒に行ったお茶会で、わたしも何度かお会いしたことがあるはず。

 シュヴァリエ公爵は今の国王陛下の弟だって、家庭教師のお姉さまに習った。臣籍降下していても、公爵はいまだに王位継承権第一位だとも。つまりこの人は、王弟殿下の奥さまで、王妃さまにもなり得る人だ。なのだが、その公爵夫人は、お母さまの手をひっしと両手で握りしめている。

 お母さまはその凛とした美貌で女性にもファンが多い。とはいえ、このような状況を毎度見せられるのは、娘としては複雑な心境になる。


「今日は侯爵様とご一緒でいらっしゃいますのね。仲が良くて羨ましいですわ~」


「ええ。夫人は、夫とは久しぶりでございますね」


 お父さままで巻き込んで、お母さま達はその場で話し始めてしまった。こうなってしまうと長いことは、わたしも経験から知っている。こんなんじゃ、いつになるか分からないわ。今日は、王子さまにお会いするのに。

 わたしは退屈で、回廊から見える中庭をきょろきょろと見渡した。中庭の花壇には、星のような小さな青い花がいっぱいに咲いている。白薔薇もあって、青と白のコントラストが、日の光を受けて鮮やかだった。


「さすがお城ね。とってもきれい……」


 お母さま達はお喋りに花を咲かせていて、わたしのことは気にしていないみたい。あの青い花を、綺麗な白薔薇を、もっと近くで見たかった。

 ちょっとくらいなら、離れても大丈夫だよね。どうせこのお話、しばらくは終わらないもの。わたしは花の誘惑に耐えられず、ふらふらと中庭に足を踏み入れた。お父さまとお母さまは気付いていないみたいだから、近くで見てすぐに戻ってくれば良いのよ。


 中庭を囲うように配置された花壇と、背の低いわたしを隠してくれる白薔薇。ドレスの裾がバラの棘に引っかかってしまわないように気を付けながら、その場にしゃがんで青い花に触れた。薔薇よりずっと小さく、軽やかな印象の花だ。背の低いその花は、花壇いっぱいに咲いている。


「このお花、可愛い。なんて名前かしら」


 独り言を言いながら指先でつんつんとつついて遊んでいると、背後からがさりと音がした。びくりと肩を揺らして振り返る。


「──ネモフィラだよ。母上が好きな花だ」


 天使の子かしら……!? わたしは大きく目を見開いた。

 そこにいたのは男の子だった。でもただの男の子じゃない。これまでに見たどの男の子よりも、綺麗な男の子だ。目の前にある花よりも鮮やかなサファイアみたいにきらきらとした青い瞳に、プラチナブロンドの髪。それがさらさらと風に揺れている。

 しかしその男の子も、わたしを見て硬直してしまっている。どうしたのだろう。わたしは目を逸らせないまま、こてりと首を傾げた。すると男の子は急に怒ったように腕を組んで、ふんと鼻を鳴らした。


「お前、誰だよ?」


 可愛らしく美しい容姿をしていながら、言うに事欠いて、お前、とは何か。確かにこの中庭に勝手に入ったのはわたしだけれど、どうしてこんな扱いをされなければいけないの。一応これでも、綺麗に着飾っているつもりなのに。

 でも、落ち着いて考えれば、王宮にいる男の子ということは、どこかの貴族子弟かもしれない。下手に対応したら、お父さまの迷惑になったりしないかしら……。はっと気付いて、わたしは慌てて立ち上がった。生意気な相手であっても、こちらが礼を失してはならない。


「わたしは、リュシエンヌ・バルニエと申します。以後、お見知り置きを」


 本当は、こちらの名前を聞く前に男性から名乗るのが礼儀ではないの。内心ではそう思ったが、微笑んでドレスの裾を摘んだ。軽く腰を折って、礼をする。


「バルニエ……侯爵の関係者か」


 男の子は、ぽつりと言った。ああ、知っていたのね。わたしは少し嬉しくなる。バルニエ侯爵であるお父さまは、今は宰相を務めている。この男の子が知っているのも当然だろう。


「はい、娘ですわ」


 ところであなたは誰なのよ。このまま名乗らないでいるつもり? 視線に込めた思いは、全く伝わっていないようだ。


「じゃあ、お前が──」


 男の子が突然手を伸ばして、わたしの右手に触れた。わたしは驚いて息を飲む。触れた肌の感触に戸惑って、とっさに手を引いてしまった。男の子はばつが悪そうに手を引っ込めると、視線を彷徨わせている。それから、またわたしに目を向けた。

 一体なんだと言うのだ。


「失礼した。俺は、ジョエル。ジョエル・バルシュミーデだ。今日、お前と会う約束をしていたんだけど、少し時間が空いてな。こうして中庭に出てきたんだ」


 相変わらずのぶっきらぼうな物言いは腹立たしいが、わたしはそれどころではなく、目を見張った。

 バルシュミーデ。その名を名乗ることを許されているのは、王家に籍を置く者だけだ。臣籍降下した王族は、別の姓を与えられ、バルシュミーデを名乗ることはなくなる。つまりこの男の子は、今王族であるということで。しかも、ジョエル、というと。


「ジョエル殿下、でございますか?」


 その名前は馬車の中でも聞かされている。そうして、呼ぶときを楽しみにしていた。それは間違いなく、今日これからお会いするはずの、王子さまの名前だった。

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