1-4 春峰芽吹と刹那の冒険 4


 ピピッ、と携帯電話が短いアラーム音を奏でた。

 寝ぼけた頭を起こし、スマートフォンに明かりを灯す。突っ伏していたのは家の食卓で、時刻は夜の十一時に迫っていた。

「そろそろ帰ってくる時間ね」

 慌てて台所へと向かい、食器棚からハンバーグ用の鉄板を取り出す。

 普段なかなか出番が訪れないこの鉄板は、私の同居人であるいとこの兄さんが実家から譲り受けたものらしい。このほかにも、高校時代の日記帳や巨大なタケノコなど、兄さんの実家からは時々珍妙なものが送られてくる。銀行口座に現金だけを振り込んで済ませる私の両親よりは幾分もユーモラスだ。

 けれども、いずれも使い所に困るのが難点である。

 私は鉄板を再び食器棚へと収めた。料理とは別個に加熱するため面倒な上に時間がかかる。加えて、私の目論むには残念ながら適していない。次にこの鉄板が日の目を見るのは、遠い未来になるかもしれない。

 代わりに用意した陶器のプレートに、合い挽肉のハンバーグと付け合わせの野菜を盛る。私の夕食の時間に合わせて作ったものだ。すっかり冷め切っていたそれらをレンジに放り込み、その間に別の鍋に用意したハンバーグのソースを火にかけた。

 頃合いを見て味を整える。完全なる私の好みで、和風のおろし醤油味を用意させてもらった。最後にちょっとした『一工夫』を施し、直ちに証拠隠滅。三角コーナーと排水溝の生ゴミを可燃の袋に放り込む。

「ただいま……あれ、起きてたのか」

「お帰りなさい」

 間一髪、なんとか間に合った。

 玄関から姿を現したのはスーツ姿の痩身な青年。塾講師のアルバイトから帰宅した、私のいとこの兄だ。

「おお、今日はハンバーグか。うまそう」

 キッチンに顔を出すなり、ぼんやりとした表情の兄さんは目の奥を輝かせた。大人びた風貌の裏側に、隠しきれない少年のような無邪気さがある。それもそのはずで、まだ兄さんは御年十九。教え子である倉橋さんが気安く『あんちゃん』と呼ぶ道理が少しだけ理解できたような気がする。

「ソースも自家製なのか。大根おろすの大変じゃなかった?」

「慣れてるから大したことないわ。それより兄さんはさっさと着替えて、ご飯とお箸を持っていってくれないかしら」

「了解」

 兄さんを部屋に追いやった隙に配膳を済ませる。ハンバーグの乗ったプレートは熱く、素手では触れそうにない。冷蔵庫にマグネットで張り付いているゴム製の小さな鍋掴みと迷った末に、手近なところにあった布巾越しに掴んで運搬する。入念に手を洗ったら、準備完了だ。

 しばらくして。部屋着で現れた兄さんは炊飯ジャーから適量の白米をよそい、キッチンを隈なく眺めた上で食卓に着いた。

「いただきます」

「どうぞ召し上がれ」

 茶碗に手をかけた同居人をじっと観察する。

 本人には伝えていないけれど、これは夕食の形式をとったある種の試練だ。

 倉橋さんと別れてからの帰り道。私はずっと『存在しないモデル』の件を兄さんに相談するか躊躇していた。再三悩んだ末に浮かんだアイデアが、相談するに値するか否かを試すというものだった。

 完食までに、私の施した『一工夫』に気づくかどうか。固唾を飲んで見守る中、兄さんと目が合う。

「ハンバーグから食ったほうが良かったか?」

「別にこだわりはないわ」

「そうか。いや、じろじろ見られてると食べづらいんだけど」

「お気になさらず。こちらの都合だから」

「ならいいけどさ。どうにも気が散って、せっかくの隠し味の正体が分からなくなりそうだ」

「……えっ?」

 私は耳を疑った。核心に近い単語が聞こえたのは気のせいだろうか。

 必死に動揺を隠す。けれども兄さんはそれを気にすることもなく、考え込む様子でたった一言、

「柑橘類だとは思うんだけど……」

 思わず息を呑んだ。

 もう驚愕を隠すどころではない。恥を忍んで自分の指とプレートの上のハンバーグの匂いを確かめるも、それぞれハンドソープとおろし醤油の香りが漂うばかり。それもそのはずで、私がソースに絞ったレモンはわずか数滴。香りで気付くことなどまずありえない。

 だからこそ、私には信じられなかった。

 だって兄さんはハンバーグにまだのだから。



 いとこの兄さんこと門出窓太かどでそうたとの共同生活は、年度の境目に幕を開けた。

 きっかけは、両親の海外転勤と兄さんの大学進学が重なったことだった。母親同士でとんとん拍子に話が進んだ結果、私は生まれ育った東京を離れ、神奈川県相模原市にある2DKのアパートが新たな住処となった。

 以来、私たちの二人暮らしは大した問題もなく続いている。

 強いて挙げるとすれば、塾講師のアルバイトをする兄さんと夕食の時間が合わないことくらいだろうか。普段なら、私は兄の帰宅を待たずして布団の中にいる。夜の九時から徐々に襲いかかる眠気にはなかなか敵わない。

 けれども今は、完全に眠気など吹き飛んでしまった。

「どうして分かったの?」

 うまいうまいとハンバーグを頬張る兄さんに、私は尋ねた。柑橘の正体がレモンであることは一口目で勘付いたらしい。

「私、そんなに不自然だったかしら」

「うん。そもそも、まだ起きてる時点で充分珍しい」

 言われてみれば確かにそうだ。私としたことが、実に根本的な点を見落としていた。

「おまけにずっと食事を観察されると来た。何かあるのは確実だとしても、芽吹の様子に後ろめたさはないから、どうしたんだろうと思ってね」

 なるほど。それで隠し味、というわけか。

「でも、なぜそれだけで言い当てることができたの?」

 待ってましたと言わんばかりに、兄さんは空いている左手でキッチンを指さした。相変わらずの冴えない表情のまま口元だけは得意げに緩んでいる。

「芽吹は盛り付けと配膳に、陶器のプレートと布巾を使っていた。ハンバーグ用の鉄板や百均で買ったプラスチックゴム製の鍋掴みがあるのにもかかわらず、だ。だから、隠し味はそれらを溶かしうる酸性物質の可能性が高いと考えたんだ」

「ふぅん。でも酸性なら、お酢の可能性だってあるわ」

「そこで、次に着目したのが水回りだ。我が家ではいつも、三角コーナーのゴミは食器を洗い終えた後に排水溝のネットと一緒に捨てているだろう? なら、今日すりおろした大根のヘタなどがまだ残っているはず。だけどさっき見た時には既に三角コーナーは空だった。まるで何かを隠蔽しているかのように、綺麗さっぱり片付いていた」

 なるほど。だから、酸性かつ必然的に生ゴミを生じる柑橘類だと推理したのか。けれども、まだ完全に反論の余地がないわけではない。

「う、梅干しの可能性もあるわ」

「梅干しを入れるとなると必然的に果肉を入れることになる。デミグラスやケチャップならともかく、薄い色のおろし醤油ソースだと梅干しの果肉はどうしても目立ってしまう」

 盲点だった。香りと刺激を少しでも紛れさせようと用いた大根おろしが、まさか決め手になろうとは。必死に残りの可能性を探していくも虚しく、何一つ思い浮かばない。

 その間にも兄さんは手のひらを合わせて「ご馳走さま」と呟く。

「ありがとう。美味しい上に、楽しい晩ご飯だったよ」

 完食、そして私の完敗だった。



 食後。兄さんと並び立って食器を洗いにかかる。

 流れ作業の形を取れば、二人分の食器と調理器具はすぐに片付く。その間に、私は『存在しないモデル事件』についての説明を済ませた。

 あれだけ知恵を借りることを躊躇った割には、不思議なくらい気分が軽い。安堵さえ覚えている。もしかしたら、本当は兄さんなら試練を軽々と打破できるだろうと期待すら寄せていたのかもしれない。

 温かい麦茶を片手に、もう一度食卓に腰を据える。

「なるほどね」

 いよいよ本格的な強襲を始めた睡魔の奥で、兄さんの声が響く。

「どうかしたの?」

「確認したいことが二つある」

 兄さんは持っていた麦茶のマグカップをテーブルに置いた。私のカップとペアのデザインになっており、母親同士がふざけ半分に買ってきたものだ。最初こそ使用することに気恥ずかしさがあったものの、慣れてしまえば問題はない。

 兄さんの言葉に、私は思わず目を見開いた。

 佐内先生も倉橋さんも、私の話に続く一言目は必ず感想だった。けれども兄さんの場合は違う。既に検討の段階に入っている。

「まず、日野原中のバスケ部にダンクシュートを打てる選手はいるのか?」

「正確には分からないわ。少なくとも、今日の自主練では誰も使っていなかったけど」

「そうか」

 考え込む素振りを挟んで、兄さんは指を二本立てた。

「じゃあ二つ目。学校の周囲は、高いネットで囲われているんだよね?」

「ええ。特にグラウンドの周りは、屋外球技をする際にボールが飛んでいかないよう念入りに張られてるわ。でも、体育館の裏側は石垣がその役割を担ってるから、ネットはなかったと思う」

 なぜそんなことを聞くのだろう。

 私はそう尋ねようとした。しかし、言葉は声に乗らなかった。

 まるで時間が止まったかのように兄さんは微動だにせず、虚空を見つめたまま押し黙っている。深い思考の中にいるのだろう。大学のレポート課題に取り掛かる時、はたまた塾講師のバイトで難題に挑む時。兄さんは時折こうして思考の最奥に頭を埋める。

 そして次に彼の発する言葉はいつも決まって同じだ。

「そうか、そういうことか」

 加えて必ずと断言できるほど、兄さんは私の想像もつかない結論を捻り出す。その度に私は、彼には絶対に敵わないと思い知らされる。

 顔を上げた兄さんに、すかさず尋ねた。

「ねえ。さっきの確認はどんな意図で——」

「なあ芽吹」

 兄さんは私に向き直ると、いつになく真剣な表情できっぱりこう言った。

「この謎は芽吹自身の力で解くべきだ」

 どうして、と尋ねるよりも早く兄さんは立ち上がり、部屋の隅を何やらがさごそと漁り始めた。

「もし、どうしてもヒントが欲しいなら渡合さんに聞くといいよ」

「美咲には聞いてみたけどダメだったわ。モデルが誰なのか、ちっとも教えてくれなかったから」

 私は携帯電話の画面を開く。トークアプリの履歴には、美咲からの『黙秘権を行使します♪』とのメッセージが表示されていた。真面目なんだか不真面目なんだかよく分からない文面だ。

「そうじゃなくて、聞いて欲しいのは別のことだ」

 あったあった。と兄さんは一枚の障子紙を抱きかかえて戻ってきた。描かれていたのは、黒々とした魚が一匹。鱗の仔細な模様まではっきりと写し出された作品の題名は『鯉(20xx/4/8 相模さがみ川中流域)』。何の捻りもない。

「何それ」

「魚拓。魚を版木代わりにした版画みたいなものだ。知人から譲り受けた」

 そんなものが我が家にあったのか。

 本人に負けず劣らずの変な知人が多い兄だ。珍妙なものが家にあることは不思議ではないと自分を納得させる。

「それがどうしたのかしら?」

「いいかい。この魚拓にはあるけれど、見せてくれた渡合さんの絵画の写真にはない情報が二つほどある。それがおそらく手がかりになるとは思うけど……今日はもう遅いから、明日にするといい」

 兄さんはそう言うなりあくびを一つ溢した。気づけばマグカップの底が見えている。時計を見れば、すっかり日付が改まっていた。

 存在しないモデルの件を解明すべく兄さんに説明した。しかし返ってきた言葉はどれも謎に満ちていて、混迷は増すばかり。解決がますます遠のくように感じる。

 けれども一番の疑問は別にある。これに関しては、ここで尋ねなければ永遠に答えが得られないと直感が告げていた。

 部屋に戻ろうとする兄さんを呼び止める。

「一つだけ質問させてちょうだい」

「いいけど。どうしたんだ?」

 背後を振り返った兄は、既に普段通りのぼんやりした表情に戻っていた。

「私が解くべきってどういうことかしら?」

「なんだ、そんなことか」

 力の抜けたような微笑。馬鹿にされている気がして私は少々むっとした。しかし、次に続いた言葉に怒気はすっかり削がれてしまった。

「芽吹が夢中になっている謎だからだよ」



 翌朝、職員室の前にて。

 私はバインダーに挟まっている借用者名簿を眺めていた。職員室で管理している特別教室の鍵やその他備品などを借りる際に名前を記すものだ。一番下の欄に記載されている生徒名は『渡合美咲』。美咲独特の筆圧の濃い丸文字が、枠内にぎゅうぎゅうに収まっている。借りたのは美術室の鍵、時刻は一分前のものだった。

「おまたせ、借りてきました」

 職員室の引き戸から美咲が現れる。右手人差し指には、こまごまとした複数本の鍵を束ねるキーホルダーが回っていた。

「わざわざありがとう」

「お安い御用です。じゃあ行きましょうか」

 バインダーを所定の位置に戻し、美咲と二人美術室を目指す。正確には、美術部の部室と化している美術準備室が目的地だ。

「どうしたんですか? いきなり私の絵を見たいだなんて」

 あくび混じりに美咲が聞いてくる。現在、ホームルームが始まる三十分前。普段よりも早い通勤を依頼した美咲には、無理をさせてしまったのかもしれない。

 昨日の就寝前、私は美咲に一通のメッセージを送った。『明日の早朝、バスケットボールの絵を見せてほしい』という簡潔な文面で。

「単純な興味本位よ。バスケ部のみんなから前評判を聞いていたから」

「そうですか。嬉しいけどちょっと照れくさいです」

 くすぐったそうに笑う美咲に対し、私は小さな罪悪感を覚えた。

 あくまで嘘は言っていない。

 本来の目的は別にある。昨晩兄さんから貰った手がかりを紐解くべく、いま一度美咲の絵をじっくり観察しようという目論見だ。

 朝の校舎は人通りが少ない。遠く体育館から聞こえるボールの弾む音だけがフロアに反響する。大会が近いためか、彼らも朝練に励んでいるらしい。

「さあ、着きました。直接手を触れないで見てくださいね」

 鍵を開け、得意げな顔の美咲はさながら美術館員だ。

 雑多な画材のひしめく部屋の中心に目的の絵はあった。スケッチブックから外された状態で置かれている。美咲のものと思しきサインがあることから、どうやら完成していたらしい。写真に写っていた時にも増して選手の躍動感が色濃く出ている。

「ねえ美咲。この絵、題名はあるのかしら」

「一応ありますけど、改めて言うとなると恥ずかしいですね」

 肩を竦めた美咲は、それでも一言一句はっきりと題を述べた。

「『刹那の冒険』です」

 それを聞いた瞬間、私の中で思考が弾けた。ここに至るまでの様々な記憶が蘇る。

 蒸し暑い体育館、キャットウォーク、坊主頭、ダンクシュート、自主練、水彩画、画角。まだある。放課後の音、貼り紙の文言、隠し味、魚拓、筆圧、そして『刹那の冒険』——

 ——そうか、そういうことか。

 バラバラだったそれらを貫く真実が、見えたような気がした。

「芽吹ちゃん?」

 怪訝な顔の美咲に、悪いとは思いながらも一言断りを入れておく。

「約束するわ。手は触れないから」

「……はい?」

 ますます困惑を浮かべる美咲をよそに、私は鞄からルーズリーフと鉛筆を取り出した。

 

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