1-3 春峰芽吹と刹那の冒険 3


 日の暮れかけた茜空に、浮雲が三つ。

 実際の正確な個数は不明。けれども校舎に渡る廊下の窓には一瞬で数え切れるほどしか見えていない。のろのろと吹く春風に追いやられるように、雲の影がひとつ窓枠の隅に次第に消えていく。

 春風などではびくともしない私を家路へと追いやるのは、完全下校時刻を知らせるチャイムの音色だった。人影のない廊下を私の靴音だけが進んでいく。

「あれ、珍しいねー。こんな時間まで学校に残ってるなんて」

 階段の踊り場に出ると、見知った顔に出会った。倉橋さんだ。

「遅くまで何してたのー?」

「別に、人と話してただけよ。倉橋さんだってそうでしょう?」

「そうだけど……何かはぐらかそうとしてない? もしかして相引きか何か? いやー、芽吹も隅に置けないねー」

 アイビキと聞いて、無性にハンバーグが食べたくなった。挽肉は家にあっただろうか、付け合わせは何にしようかと考えを巡らせる寸前で思い違いだと気づく。今疑われてるのはきっと『相引き』の方だ。

「違うわ。教室にいたのは佐内さない先生。頼まれていた仕事をすっぽかして叱られて、そこからすっかり遅くまで話し込んでしまったわ」

 途端に倉橋さんの顔が青ざめる。

「鬼軍曹と!? 大丈夫? 肋骨とか折られてない?」

 そんな教師がいたら世も末だ。

 体育館から教室に戻った私を待ち構えていたのは、ウィンドブレーカーを羽織った三十代手前くらいの女性教師だった。ネームカードには『佐内真琴さないまこと』との名前と、出立ちからは想像もつかない『担当科目:国語』の文字が窮屈そうに収まっている。何かと話題に事欠かない、三年二組の担任教師。

 誰が呼んだか、別称を『鬼軍曹』。

 その物騒かつ的確なあだ名は、佐内先生の男勝りな風采や性格に由来している。あだ名を起点として様々な尾ひれがついた結果、実態以上に恐れられているらしい。

「大丈夫、どこにも怪我はないから。というか、そんな噂に聞くような野蛮な先生じゃないでしょう? さっきも私の学校生活について心配してくれてたし」

「そうなの? うーん、俄には信じがたい……」

 倉橋さんはまだ小首を傾げて唸っている。私は少しだけ佐内先生に同情した。あだ名で苦労するもの同士、何かと分かり合えるものがあるのかもしれない。

 その後はどちらからともなく、他愛もない話を交えながら一階へとつづく階段を降り始めた。

「そういえば美咲は?」

「塾があるって先に帰ったよー。なんでも、芽吹と同じ高校に行きたいから頑張るんだってさ」

「ふぅん」

 自分の頬が少しだけ緩むのを感じた。

 夕暮れの校舎は、日没より一足先に長い影に覆われている。

 その原因は日野原中学校の立地にある。小高い丘の斜面を切り開いた土地に立っているため、ちょうど西日の陰になるのだそうだ。私は校舎の背後に佇む石垣をもう一度睨んだ。久慈君のセリフを借りれば、設計者には出頭して責任を負ってもらいたい。

 昇降口にて、薄暗さに目を慣らしながら靴を履き替える。順応を始めた視界の中に、うっすらと深緑色の掲示板が映った。

「部活の勧誘と生徒会月報と、あとは……注意喚起?」

 掲示板の右下に追いやられているかのように並ぶのは、『ケータイを持ち込むべからず』『許すまじ不法侵入』『未然に防ごうカンニング』の文字。張り紙の色あせ具合やフォントも三者三様だけど、共通して目に留まるようなデザインが施されている。標語の独特なセンスに、思わず脱力しそうになる。

「うん。先生たちが作っているんだと思うよ。まあ、全部内容がしょうもなくて気が滅入るけどねー」

 倉橋さんはわざとらしく肩をすくめた。突拍子もない行動が多い倉橋さんだけど、節度を守ることはしっかり念頭に置いているらしい。

「貼られているということは、何か前例があるのかしら?」

「そうだと思うけれど、ケータイとカンニングに関してはあまり聞かないかなー。先生たちがしっかり目を光らせていることだろうし」

「不法侵入は?」

「ああ、それなら去年起きたらしいよー。全校生徒と保護者宛に注意勧告のプリントが交付されたから。でも、詳しい内容と犯人は書かれてなかったからそれ以上のことは知らないけどね。確証のある噂も立たなかったし」

「ふーん」

 私は日野原中の歴史に疎い。転入生であるとはいえ、それも一月半ほど前の話だ。おそらく、その手の分野に元々興味を持っていないのだろう。

 しかし、情報のターミナル駅こと倉橋さんが知らないとなれば奇妙な話だ。何かあるのではないかと勘繰ってしまう。

「というか、不法侵入を注意する張り紙を校内に貼るのも滑稽だよねー。普通は学校の周囲に貼るもんじゃないの、こういうのって。これじゃ変質者か誰かが中学の敷地に侵入してきた後にお目にかかることになるよね?」

「確かにそうね。変だわ」

「まあ、きっと情を誘って一歩でも足止めしようという魂胆か、それとも貼った先生が阿保だったかのどっちかでしょ。私の見立てだとおそらく後者だねー」

 お気楽にも、倉橋さんは掲示板に背を向けて鼻歌まじりに歩き始めていた。昇降口に漏れ出た西日が彼女の華奢なシルエットを照らす。

「帰ろっか、芽吹」

「そうね。倉橋さんには妙なこと聞いてしまったみたいで申し訳ないわ」

「いいっていいって。それよりさー」

 いたずらな笑みを浮かべた顔がぐっと近づけられる。けれども、倉橋さんにしては珍しく、目の色だけは真剣そのものだった。

 思わず身動ぎつつも、言葉の続きを待つ。

「何よ」

「……本当に、相引きじゃなかったんだよね?」

 通学路の序盤一分間、私は悪友にひたすら無視を決め込み続けた。



「それで、鬼軍曹とは何を話してたのー?」

 短い刑期を終えた倉橋さんは、家路を歩みながら真っ先にそう尋ねた。どうやら彼女の中で『相引き説』は無事に払拭してもらえたらしい。

「近況とか困りごととか、色々聞かれたわ」

「やっぱりかー。佐内先生、人の心を持ち合わせてないと見せかけて意外と情に熱い人だからね。鬼軍曹の仮面の下は、きっと実家のオカンなんだよ」

 私の肋骨の心配をしていたにもかかわらず、倉橋さんは納得しきった様子だった。きっと彼女だけではなく、ほとんどの生徒が理解しているのだ。佐内先生の厳しさは、生徒を思う気持ちに裏打ちされたものであると。

「他には何か聞かれたのー?」

 うーん、と唸りながら記憶を辿る。

 そもそも現状に至る原因は、私が佐内先生に頼まれた用事をすっぽかしたことにある。そして、その最たる要因となったのが——

 気づけば、私は『存在しないモデル事件』の詳細を倉橋さんに伝えていた。

「ふーん。美咲の絵がこんな波乱を呼んでいたとはねー。芽吹、そんな面白いことに巻き込まれてたんだ」

「別に、面白くはないと思うけれど」

「そうかなー。それにしては語り口が饒舌すぎた気もするけどね。よっぽど夢中で考えてたんじゃないの?」

 思わず言葉に詰まる。

 先ほどの教室で、佐内先生からも似たような文言を聞いた。

『春峰。お前はやっと夢中になれるものを見つけたんだな。それこそ、私の依頼を忘れてしまうほどに』

 説教中だというのに、先生の目は優しかった。

 誤解のないように言っておくと、私は本当に今回の件が心底くだらないと思っている。たかが絵画のモデルの毛髪の有無だけで、ここまで迷走することがあろうとは。加えて自分は当事者でもなんでもない。

 けれども、気づけば誰よりも夢中になっていたらしい。一体何が私をそこまで駆り立てているのだろうか。

「ねえ、芽吹ってばー」

 隣を歩く友の声に、はっと我に帰る。

「それで、なんで美咲が毛髪だけを描き加えたわけじゃないと思ったのー?」

 意外と真剣に耳を傾けてくれていたのか、私の説明が曖昧だった部分を倉橋さんは聞き返した。

「角度の問題よ」

「角度?」

「そう。バスケ部の久慈君の話によれば、美咲は体育館の二階部にあたるキャットウォークから見下ろすようにバスケ部の練習風景を見ていたらしいわ。けれども、完成した絵はダンクシュートを打つ選手を下から仰ぎ見るような構図だった」

 倉橋さんが、はっと息を呑んだ。

 どうやら私の抱いていたものと同じ違和感に感づいたらしい。

 なぜ美咲はわざわざキャットウォークからでは見ることのできない画角を選んだのか。加えて、見上げる構図の絵を描きたければ一階部に降りればいいものを、なぜそうしなかったのか。

 謎がまた、新たな謎を呼ぶ。

「もしかしたらだけどさー」

 考え込んでいた様子の倉橋さんが突然口を開いた。

「両手でダンク打ってる選手の下絵はすでに完成していたんじゃないかなー。ネットとかの画像を参考にしてさ。バスケ部に赴いたのはあくまでユニフォームとかを参考にするためだとしたら辻褄が合うんじゃない?」

「どうかしら。それならうちのバスケ部の資料写真を用意するだけで事足りるわ。俊敏に動き回る部員を観察しなくても済むはずではないかしら」

「そっか、それもそうだねー」

 今日の練習風景を思い出す。

 目まぐるしく変化するコートの上から、選手一人ひとりを目で追うのはかなり困難だった。服飾品などに注目し続けるなら尚更だ。それこそバスケ部員と同等かそれ以上の動体視力が必要になる。

 何よりも、ネットから拾った画像を参考に水彩画を描くという手段を美術部の人間はあまり好まないだろう。著作権がややこしくなればコンクール等への応募も面倒になる。

 完全に手詰まりだった。

 隣を歩く倉橋さんも、肩をすくめながら首を横に振っていた。

「あーあ、降参だよ降参。これはもう、あの人に頼むしかないと思うなー」

「あの人って?」

あんちゃんなら、ぱぱっと解決してくれるんじゃない?」

 兄ちゃん。

 倉橋さんがそう呼称する人間を私は一人だけ知っている。

 確かにその人は妙に頭が切れる上に、奇怪な話題が好物だ。誰よりもその人を熟知している私が言うのだから間違いない。今回の件も、私たちよりも巧みな推論を組み上げることが容易に想像つく。

 けれども、それでいいのだろうか。

 小さなプライドが私に問いかける。

 私が『女傑』の呼び名を煙たがるもうひとつの理由。それこそが、無力さを感じた時に思わず頼りにしてしまうその人の存在だった。自分よりも遥かに知恵と人徳に富んだ人間を差し置いて女傑呼ばわりされることは気が引ける。まあ、"兄ちゃん"は女性ではないけれど。

 だから私は、あくまで最終手段であると自分に言い聞かせ続けていた。それなのに。

「……分かった。気が向いたら頼んでみるわ」

 迷った末に、私は倉橋さんの提案にかぶりを振った。決意を固めた後に深くため息をつく。

 胸を張って『女傑』のあだ名を誇れる日は、当分訪れないのだろう。

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