1-2 春峰芽吹と刹那の冒険 2
体育館は、さながら一頭の巨大な動物だ。
運動部員たちの掛け合う声で高く嘶き、ボールの弾む音で心臓を鳴らし、靴のスキール音で地面を蹴る。そんな想像が膨らむほどに、放課後の体育館棟は活気で満ちていた。
また、立地や周囲の風景も動物らしさを醸し出すことに一役買っているところがある。棟の左手と背後には見上げんばかりの石垣がそそり立ち、その上にはステンレス製のフェンス。それらも相まって『檻の中の猛獣』といった物々しさを存分に漂わせている。
久慈君から相談を受けて間もなく。
気づけば、そんな猛獣の眼前に私は立っていた。絵画のモデルを突き止めるためにとにかく現場を見てくれとせがむ久慈君の勢いに押し負けた結果、渋々ついて行くことと相なったからだ。
「ぼーっと突っ立ってないで、さっさと入ろうぜ。滑り道と現場検証は早い方がいいって言うだろ?」
言わない。
「……ちょっと待って」
中へと足を踏み入れようとする久慈君を呼び止める。
私の声に振り向いた久慈君は、すでにバッシュに履き替え始めていた。
「どうした?」
「やっぱり、美咲が頭髪を描き足したんでしょう? それで片付く話だから、謎でも何でもないわ。わざわざ現場を見る必要はないと思うのだけれど」
「いいや、それだけは絶対にない」
予見していたかのように、間髪を入れずに否定が入る。
「なぜそう言い切れるの?」
「いいから行くぞ。きっと春峰さんも中に入ればわかる」
そう言うが早いか、久慈君は体育館の中へ吸い込まれるように入っていった。慌てて私も靴を履き替え、彼に続く。何か大事な用を忘れている気がするけれど、忘れているということはきっと些事に違いない。
体育館内は、灼熱の只中にあった。
おおよそ全ての窓が開け放たれているにもかかわらず、漂う熱気に私は息を詰まらせそうになる。フロアを折半する男子バスケ部と女子バドミントン部の面々も苦しげな表情を浮かべていた。あとで聞いた話によれば、石垣に囲われた立地が災いして空気が循環しづらいことが原因らしい。
「よくこんな環境で部活やってられるわね」
「本当なら、学校の設計者には今すぐ出頭して謝罪してもらいたいぜ。まあ、でも使わせて貰えるだけありがたく思うことにするさ」
思いのほか考え方が大人だった——憎々しげな顔さえしなければ。
備え付けられた階段を上り、二階部の壁面を伝うキャットウォークへと足を踏み入れる。窓がすぐそばにある分、一階部より少しだけ涼しい。遠くまで続く石垣とフェンスしか見えない殺風景な光景を嘆くのは、きっと贅沢だ。
「着いたぞ。渡合さんが絵を描いていたのはここだ」
「さっき聞きそびれたのだけれど、それっていつ頃の話だったのかしら?」
「ちょうど先週だったかな。毎週水曜は顧問の先生が来ない自主練の日だから、渡合さんと日取りを合わせたんだ」
「自主練」
久慈君の言葉を繰り返す。
部活動に所属していない私にとっては、あまり聞きなれた言葉ではない。
「もしかして、やけに人数が少ないのは普通の練習日じゃないから?」
「ああ。今週末に大会があるから、レギュラーとベンチメンバーだけで最終調整をしたくてコートを半面借りてるんだ」
ふーん、と相槌を挟んでバスケ部の自主練に目をやる。
久慈君の言った通り、コート内の九人は全員坊主だった。縦横無尽に駆け回る毬栗頭の集団は最初こそ異様に映ったものの、数分もすれば見分けがつくようになる。素人目からもわかる『目立つ選手』二名の姿を、知らず知らずのうちに私は目で追っていた。
「あの上手い二人、うちのクラスの男子でしょう? 器用な方が
「バッチリ正解。よく分かったな」
「だって二人とも『ビンゴ』『シティ』って呼び合ってたから」
聞いた話によれば、どうやらコートネームというらしい。
試合中でもコミュニケーションを取りやすいように、短く簡潔に発音できる部活上でのもうひとつの名前。変なあだ名の影がちらつく私にとっては、単純な呼び名が少し羨ましく思えた。
「俺にも一応『エース』ってコートネームがあるから、春峰さんもそう呼んでくれていいぜ」
「分かったわ、久慈君」
「呼ばないのか……」
お約束だ。
試合形式の練習は、終盤の競り合いに突入していた。
点数は僅差。残り時間は秒読み。数多のディフェンスをひらりと掻い潜ってゴール下に迫ったのは備後君だった。万全の体制から、ボールを額の前に掲げて跳び上がり、放つ。
黄金曲線を描いたシュートは、奇しくもリングを鳴らすに留まった。途端に鳴り響くホイッスル。備後君の目は、彼と同時に跳んでいた眼前の巨壁——市ノ瀬君を悔しげに睨んでいた。
「お見事。まさかここまで完璧にシュートコースを潰されるとはね」
「……」
市ノ瀬君は一言も発することなく、サムズアップだけで応える。
巨大な彼のどこかゆるキャラじみた仕草に毒気を抜かれたのか、備後君は涼しい表情に戻って他の部員を労い始めた。先程までの鎬を削る攻防が嘘のような光景だ。
「部活って、いいわね」
「だろ?」
私の小さな呟きに、久慈君がにかっと笑う。
もしかしたら、こんな青春を送る日々も有り得たのかもしれない。そう思う反面、蒸し暑い体育館でボールと得点を奪い合っている自分の姿を想像すると、あまりの似合わなさに苦笑が漏れる。
自分が何をしに体育館を訪れたのか、すっかり忘れかけた頃合いにて。
「ほらエース、そろそろ練習戻るよ。試合近いんだから。二週にわたって女の子連れてくるくらいの余裕があると言うなら強要はしないけど。自主練だし」
「……いつも一言余計なんだよなぁ、お前は」
キャットウォークに現れたのは、部長・備後君だった。
数分前まで試合形式の練習に燃えていたとは思えないような爽やかさが彼にはある。坊主頭にして聖母さながらの微笑が彼のトレードマークだ。
「こんにちは、春峰さん。悪いね、エースに付き合ってもらっちゃって」
「いえ、お構いなく。こっちも美咲がお世話になったみたいだから」
美咲の名前が出ると、備後君は微笑を聖母からチェシャ猫に変えた。獲物を仕留めんとする視線の先には、必死の形相で『喋るな』とジェスチャーを送る久慈君の姿がある。
そんな彼の訴えが、受け入れられるはずもなく。
「お世話になったなんてとんでもない。コイツ、こないだ渡合さんが練習見に来るって聞いてからそりゃあもう有頂天でさ」
「やめろっ、それ以上は」
「そのくせ自分から体育館に連れてくるのは恥ずかしいって、思いっきり僕に泣きついてきて——」
「ハイ練習練習! さっさと再開するぞ!」
パンパンと手を打ち鳴らし、久慈君はお喋りなチームメイトをコートへと引っ張っていく。運動直後でもないのに、耳だけが真っ赤に染まっていた。
なるほど。美咲も隅に置けない。
ひとつの収穫(?)を得て、体育館を後にするべく私も階段へと向かう。
帰り際に、ずっと気になっていた事柄について尋ねてみた。
「ねえ。なんでバスケ部は全員坊主頭なのかしら?」
「別に全員って訳じゃない。外でランニングさせている一年生たちは、まだ立派に生えているよ」
「そう。なら、あなたたちが揃えているのは何故なの?」
うーん、と唸り声が上がる。
しばらくの沈黙を経て。ようやく口を開いた久慈君は、まだ言葉に迷っている様子だった。
「雨降って地肌固まったら毛穴が塞がった、的な感じ?」
「……は?」
何を言ってるのだ、こやつは。
暗号化の類だろうかと考えを巡らせていると、横から助け舟が入った。
「絆の証、かな」
前言撤回。備後君の言い回しは、ますます混迷を招くだけだった。
こんな調子で終えた今回の現場検証、もといバスケ部の見学。その中で、私はひとつの確信を抱いていた。
「やっぱり、美咲は毛髪だけ描き加えたわけじゃないみたいね」
渡り廊下を伝い、本校舎へと戻る道中。
今なら久慈君が私の考えを否定した理由が分かる。体育館内のある一点を考慮するとなると、それだけでは到底説明がつかないのだ。
「ここは改めて、無から有を生み出す方法を……あっ」
思わず小さく声を上げてしまった。
アイデアが降って湧いたわけではない。頼まれていた大切な用事を思い出し、三年二組の教室へと駆け戻る。そういえば、クラス全員のノートを職員室へ持っていくよう頼まれたのだった。
しかし、時すでに遅し。
「遅れた理由を説明してもらおうか、春峰」
教室の前に仁王立ちしていたのは、我らが担任の国語教師だった。
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