1-1 春峰芽吹と刹那の冒険 1


 地元の科学館で聞いた話によれば、どうやらこの宇宙は『何もない状態』から誕生したらしい。

 原理などの詳しい解説が書いてあるパネルには難しい物理用語が所狭しと並んでいて、私は早々に読むのを諦めてしまった。

 けれども、今は熟読しなかったことを少しだけ後悔している。別に学者を志そうとかこの宇宙を作り直そうとか、大層な野望があるわけではない。

 無から有を生み出す、あるいは見つけ出す。

 その方法だけが、今となっては欲しい。別に喉から手が出るほど欲しいわけではないけれど、もしそれが分かれば現在抱えている至極くだらない問題の全てが解決する。

 そう思い始めたのは、今日の放課後のことだった。しかし、そこに至る経緯を併せて説明するべく、少し遡って本日の午前中から物語を進めようと思う。

 


 シャープペンシルの走る音が鳴り止まない教室の中で。

 私は退屈にまかせて、うつ伏せのまま電子辞書で『女傑』と検索してみた。

 どの辞書の検索結果も似たり寄ったりで、概ね『知性に優れ、しっかりした気性を持った行動力ある女性』といった意味合いで載っている。おおかた予想通りの結果を目の当たりにして、私は心の中で毒づいた。

 ……そんな異名、女子中学生に付けるかね。

 私の知るところによれば、そんな大層なあだ名を提唱したのは数学の授業を担当している若手の男性教員らしい。彼はこの時間も演習問題に励むクラスメイトたちを教卓から温かい目で見守っていた。

 おそらくきっかけは、五月の連休明けに行われた抜き打ちの小テスト。各科目の教員たちが結託して作ったテストで、その生徒はすべての科目でぶっちぎりの高得点を叩き出したらしい。さらには、どの回答用紙も右半分に波打ったような独特のシワが寄っていたという。

『試験時間の半分以上を解答用紙に突っ伏して、睡眠に充てていたに違いない! そうでなければこのシワの説明がつかない』

 数学教師は職員室の中を、そう吹聴して回っていたそうだ。次第に話が大きくなり、しまいには分かりやすく『女傑』と見出しがついた、ということらしい。

 キーンコーン、とチャイムが静寂を切り裂く。

「はい、今日はここまで。解ききれなかった分は宿題ね」

 数学教師はそう言い残して、三年二組の教室を去っていった。その背中に、何人かの男子生徒が静かにブーイングを送る。確かに、今日はいつもに増して課された演習問題の量が多い。覚悟を決め込んだため息が、教室のあちこちから上がった。

 現在、昼の十二時過ぎ。

 私は足元のカバンから弁当の包みを取り出す。机に置いたところで、一人の女子生徒が正面から私を見下ろしているのに気がついた。

「ねー、芽吹めぶき。ちょっと頼みがあるんだけどさー」

 ところどころ間延びした特徴的な喋り方。それだけで、はっきりと誰だか分かる。顔を上げれば、ショートボブの級友が茶目っ気たっぷりの表情で両の手のひらを顔の前で合わせていた。

 どことなく、悪い予感が頭を駆け抜ける。

「どうしたの倉橋さん」

 一応、尋ねてみることにした。倉橋さんは合わせていた左右の手のひらを離して、開いたままの私の数学のノートを指差している。

「今日の数学の宿題、ちょっとだけ写させてくれないかなー、なんて」

 ダメかなー、と照れ臭そうな上目遣いがおまけでついてきた。

 倉橋さんの細い人さし指に視線が吸い寄せられる。自然と目に飛び込んできた私のノートは、ある特徴を呈していた。びっしりと最終問題まで埋められた数式。その右上に波打つ、小さなシワ——

 ——まあ、そういうことだ。

 私はなるべく顔色を変えないよう心がけながら、倉橋さんの頼みに可否を言い渡した。今まで何度か繰り返してきたやりとりを、そっくりそのままなぞる。

「……ダメに決まってるでしょ。ちゃんと自力で頑張ってちょうだい」

「だよねー! やっぱ今回もダメかー」

 あっはは、と空虚な笑い声が教室に響いた。それを聞き届けてから、私はノートのシワを指で伸ばしにかかる。一応弁解しておくと、別に倉橋さんに意地悪を働きたかったわけではなく、単に友人が堕落するのを見たくなかっただけなので念のため。

 さて。改めて、自己紹介をば。

 相模原さがみはら市立日野原しりつひのはら中学校三年二組、春峰芽吹はるみねめぶき。生まれは東京、この春から神奈川県に越してきた流れ者。

 そして大変不本意ながら、あだ名は『女傑』——改めて口にすると、居心地の悪さと妙なむず痒さが込み上げてくる。自嘲気味に名乗っても恥ずかしいのだから、つくづくどうしようもないあだ名だと思う。



 カーテンを閉めた窓際後方。それが私たちのランチスペースだ。

 まだ五月半ばだというのに日差しは強く、カーテンの隙間から漏れ出た光が室内に差している。教室の中心で弁当を囲んでいた坊主頭のバスケ部男子なんかは『晴れてるし絶好のバスケ日和だな!』なんて大声で叫んで、隣に座る友人に肘で小突かれていた。

「ねー芽吹、天気がいいからちょっとだけカーテン開けない? もしかしたらUFOとか見えるかもしれないしさー」

「開けるならせめて二センチくらいにしておいてほしいわ。日焼けするのは嫌だし、何より私はUFOなんて信じてないから」

 はーい、と適当に返事をしつつ、倉橋さんはカーテンを開いた。しかし、すぐさま『暑っ』と瞬時に閉める。

「UFO見えた?」

「いやー、眩しくて見えなかった」

「……だろうと思ったわ」

 私たちの住む相模原市・淵野辺ふちのべ南口の街は、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の研究所があり首都間有数の『宇宙の街』として知られている。

 けれども、その実態は九割を住宅が占めるごく普通のベッドタウンだ。私たちも近未来的な生活を営んでいるわけではない。万が一UFOが視察に来たとしても、期待外れだと呆れて故郷の星へ帰っていくに違いない。

 まあ、今の私もUFOにかまけている場合ではないけれど。

「それで、本当に他の誰にも伝わってないんでしょうね?」

「何が?」

「私のあだ名。広まってほしくないのだけれど」

「あれ、どんなあだ名だったっけー?」

「言わせないでちょうだい。自分で名乗るのも恥ずかしいから」

「まあ、そのうち慣れるよ」

 弁当箱に詰め込んだ昨晩の残り飯を悪友に投げつけてやろうかと思い至る寸前で、危うくも理性が急ブレーキをかけた。

「冗談だってば。信じてよー。私、そこそこ口は硬い方だよ。それに、もし知れ渡ってるなら他のクラスメイトも宿題せがんでくるよー?」

「確かにそうかもしれないけれど……」

 倉橋さんの談によれば、彼女はたまたま職員室での会話が耳に入ってしまったために件のあだ名を知ることとなったらしい。けれどもその噂を聞きつけた者は彼女の他におらず、どうにか生徒間で拡散する水際で留まっている、とのこと。

 本当かどうかは、正直怪しい。

 この倉橋心寧くらはしここねというクラスメイトは、ことあるごとに色々な方面の噂話を聞きつけてはお昼時に披露している。口は硬いとの弁に関しては、どこにも保証できる点が見つからない。

 ふふっ、と隣から小さく笑い声が上がった。ぱっと道端の花がひとつ咲いたような、柔らかく可憐な微笑。

「そこまで疎まなくてもいいじゃないですか。友達に勇ましいあだ名がついて、私は誇らしいですよ?」

 そう言って、もう一人の窓際族・渡合美咲わたらいみさきは小さな口にプチトマトを放り込んだ。

「冷たくて美味しいです。臓腑にしみます」

「しみるねー」

 明らかに冷やしプチトマトに使う言い回しではないけれど、あえて触れないでおく。もしかしたら、臓腑じゃなくて歯茎にしみているのかもしれない可能性を信じることにする。

 美味しそうに頬張る美咲の挙動につられて、ハーフアップにまとめた毛先がゆらゆら揺れる。所作のひとつひとつが小動物のそれに見えて、不思議と自分の中の毒気が抜かれていくのを感じた。

 完全に抜けきる前に、これが最後と決め込んで毒づく。

「二人が羨ましいわ、なんたって他人事だもの」

「他人じゃありません! 親友ですッ」

 すかさず美咲が頬を膨らませる。良くも悪くも、瑣末なところまで注意を行き届かせるのがこの美咲という少女だ。

「だいたい、何がそこまで嫌なんですか」

 ついにそれを聞かれてしまったか。

 私は観念して、用意していたセリフをなぞるように吐き出す。

「嫌って言われても……ほら、私ってあまり『女傑』って感じの見た目じゃないでしょう? 看板だけが肥大化しているような気がして、どうにもむず痒いわ」

 しばらく私の全身を舐め回すように見つめてから、二人は『ああ、なるほど』と納得したような顔つきになった。正直、その反応が一番傷つく。

 昔から、実年齢より幼く見られることは度々あった。

 身長は女子中学生の平均より少し下で、体格も目を見張るところのない痩せ型。首の上には幼さを助長する丸い童顔が乗っかっていて、髪も耳にかかる左右一房ずつを邪魔だから結いているだけのスタイル。倉橋さんや美咲みたいな洒落た髪型は、試してみたものの背伸びしている感じが否めなかった。

 極めつけは、厚く重たい上のまぶた。

 おそらくこれのせいで、人生において常人の十倍は『眠いの?』と質問されているに違いない。童顔も相まって『遊び疲れた夕暮れ時の子供』といった印象を十二分に演出している。

 要するに、『女傑』の看板を背負うには土台が少々不釣り合いなのだ。

 そうかそうか、と正面の倉橋さんが頷く。にんまりと浮かべた笑みに、またしても一抹の不安が頭をよぎる。

「なるほどねー。結局、芽吹は周囲の期待にちゃんと応えたいわけだ」

「別に、そういうわけではないのだけれど……」

「ストイックですね、芽吹ちゃん凄いです!」

「だから違うって言ってるでしょう」

 そこからしばらくは似たようなやりとりが続いた。よく飽きないなぁと思いつつ、私も付き合うことにする。不毛な方向に話が進めば、これ以上色々と追及されることもないだろうから。

 私が『女傑』の呼び名を煙たがるもうひとつの理由。

 それを二人に明かすには、まだ自分の中で整理がついていない。



 放課後。私はある約束を果たすために、教室で時計と睨み合っていた。

 別に何かの会合が控えているわけでもなければ、友人や恋人を待っているわけでもない。私は部活や委員会の類に参加しておらず、美咲は所属している美術部に、倉橋さんはいいゴシップネタを見つけたとか何とかで飛んでいったものの、いつ帰ってくるのかは分からない。恋愛ごとに至っては、生まれてこのかた延々と保留音を聴かせ続けている。

『十七時になったら全員分の宿題のノートを職員室まで持ってきてくれ』

 午後の授業で、国語教師にそう頼まれていた。

 理由は至ってシンプルで、本日の日直を任されていたからだ。

 そのため私は教室に残って今日の復習を済ませつつ、時計の長針が真上に回るのを今か今かと待ち侘びている。時々、完成させた宿題のノートを教室に持ってくるクラスメイトはいるけれど、誰も私に声をかけず立ち去ってしまった。

「暇ね」

 復習用のノートをぱたりと閉じてひとり呟く。他に誰もいない教室の中、声は静かに反響するばかりで当然返事はない。

 けれども、不思議と孤独感は薄い。

 グラウンドには野球部のノックの音が鳴り響いている。他の運動部が外周のコンクリートを蹴る音がそれに交わる。校舎を震わす高低さまざまの音は、吹奏楽部のパート練だろうか。ついでに遠く聞こえた誰かの『釣れないなぁ』との呟きは、きっと空耳か何かだ。

 耳をすませば、あちこちから放課後の音が聞こえてくる。目の前には誰もいなくとも、学校の中は十人十色の放課後で満ちている。だからきっと、寂しさを感じなくて済むのかもしれない。

 ただひとつ、気にかけることがあるとするならば。

 私の『放課後の音』は、ほかに比べれば深海の水底のように静かだなぁと、思わないでもない。

「そろそろかしら」

 時計はまもなく十七時。

 ノートを届けに向かおうと座席を立った矢先、私のいる三年二組の教室の引き戸ががらりと開け放たれた。

「あれ、どうしたんだ春峰さん。ひとりで難しい顔しちゃって」

 扉の奥から現れたのは、つるりとした坊主頭と勝気な目。昼の時間にはしゃいでいたバスケ部の一角で、陽気の権化みたいな男子だ。部活の練習着姿で、額からは大粒の汗が流れ出ている。

「なんでもないわ。久慈くじ君こそ部活中でしょう、何か用?」

「いや、忘れ物取りに来ただけ。入ってもいいか?」

「お構いなく。ちょうど出ていくところだったから」

 私の返答を聞くなり、クラスメイトである久慈英輔くじえいすけ君は自分の机の中をがさがさとあさり始めた。

「お、あったあった」

 取り出したのは、一枚のスポーツタオル。そのまま久慈君は手早く全身の汗を拭いにかかる。

「ふぅ、生き返る」

 コンマ一ミリ単位に刈り揃えられた彼の頭髪の上を、タオルが滑っていく。長髪が乾きにくいことに毎晩悩まされている私は、彼が少しだけ羨ましく思えた。かといってバリカンのお世話になる気は毛頭ない。坊主だけに。

 彼はまだ、机の引き出しを探っている。

 やがてタオルとは別の何かを探し当てると、私の机の前に駆け寄ってきた。

「なあ春峰さんってさ。もしかして渡合さんと仲良かったりするのか?」

「渡合さんって……ああ、美咲のことね。良いも何も、本人の口から親友の関係だって聞いてるわ、私」

 気のせいだろうか、目の前の男子の口から微かに『羨ましい』と聞こえた気がした。

「じゃあ、ひとつ頼みたいことがあるんだけど、いい?」

 久慈君は照れ臭そうに言う。

 私は呆れた表情をなるべく出さないように努めた。彼の次の句は大体予想がつく。夕暮れ時に物憂げな少女に声かけて、頼む事柄がそれですかと文句を垂れても良かったけれど、不平は心のうちに留めておく。

「一応、その頼み事の内容を聞いてもいいかしら」

「ああ分かった」

 そう言うなり、久慈君は一枚の封筒を机の上にひょいと乗せた。

 なるほど、そのパターンね。と思ったのも束の間、彼はその封を目の前で開け、中身を取り出し始めた。

 出てきたのは一枚の写真。誰かが書いたと思しき水彩画が、用紙いっぱいに現像されている。

「これは?」

「渡合さんが部活で描いてた絵なんだ。バスケ部の練習中に体育館でスケッチブックを広げて描いてたんだけど、その絵のモデルが誰なのか分からなくてさ。気になったんでこっそり写真を撮っておいたんだ」

 もう一度、現像された写真に目をこらす。

 画調は、文化祭の宣伝ポスターによく見られるようなイラストチックなもの。バスケットゴールのリングに、練習着姿の選手が両手でぶら下がる様子が躍動感たっぷりに描かれている。見上げるばかりの大きな背中とふくらはぎに張った筋肉が、絵画全体に力強さを与えていた。

 実物を見たことはないけれど、いわゆるダンクシュートというやつだろうか。

「これって久慈君が今着てる練習着と同じでしょう? ということは、モデルはバスケ部の誰かではないの?」

「そこなんだ。いいかい、よく聞いてくれ」

 久慈君は一呼吸置いて、真剣な眼差しを瞳に湛えた。

「この選手、短髪だけど一応髪はあるだろ?」

「ええ。はっきり描かれてるわね」

 あまり馴染みはないけれど、スポーツ刈りという髪型らしい。

 水彩画の写された写真から顔を上げると、久慈君は自分の頭をつるりと撫で回しながらこう言い放った。

「その日、体育館にいたバスケ部員はんだ」


 

 

 

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