プロローグ


 異様な光景だった。

 隣席に腰を下ろしているその若い男は、何度も釣り竿を池に垂らしながら『釣れないなぁ』と首を傾げて唸っている。それらの所作の連続も、慣れていないのかどこかぎこちない。けれども注目すべき点は別にあった。第一、ここが釣り堀であるなら彼の動作は概ね不自然には見えない。

 服装が、スーツなのだ。

 すらりとした体躯をさらに引き締めるストライプのスーツ。ネクタイもシンプルな水色の小紋柄。住宅地の中にぽっかりと設けられた閑静な釣り堀にて、その外見は浮きすぎるほどに浮いていた。

 表情や年齢からしても『会社をクビになったのを、家族にまだ言えなくて……』といった訳ありという風体でもなさそうだ。

 なら、なぜ彼は平日の釣り堀に?

「あのー」

 ふいに呼び止められる。気づけば、スーツの彼が怪訝な顔をこちらに向けていた。

「どうかしました?」

「魚、掛かってますよ」

「あっ」

 慌てて手元の竿を握り直す。全身を揺さぶるような感覚を手繰り寄せると、間もなく一匹の鯉が宙に弧を描いた。落下地点に網を合わせ、手早く引き上げる。大物だ。水揚げを終えてもなお、滝でも登らんばかりの勢いで飛び跳ねている。

「お見事です。こんなデカいのがいるんですね」

 スーツの彼も、巨大な鯉をしげしげと見つめている。

 落ち着いたリアクションだが、その目だけは夢を抱く少年のようにキラキラと輝いていた。

「だろう? 常連の中じゃ『池の主』って呼ばれるサイズだ」

 彼につられて、つい雄弁になってしまう。

「主、ですか」

「そう。コイツを釣り上げるには少々コツと時の運が要るんだが、今日はついてたな。この時間まで粘った甲斐があった」

 五月の日差しは、すっかり西に傾いていた。

 釣り堀を囲んでいた他の面々もいつの間にか帰ってしまったようで、気づけばスーツの彼と二人きりになってしまっている。物淋しさと人目を憚る必要がなくなったことに任せて、ここぞとばかりに彼に声を掛けた。

「ここに来るのは初めてかい?」

「ええ。同居人に勧められたので、来てみました。恥ずかしながら、人生初のフィッシングです」

「そうか。釣り方、伝授しようか?」

「ありがとうございます。嬉しい申し出ではあるのですが……申し訳ありません。これから仕事なので、そろそろ失礼します」

「仕事?」

「ええ。この近辺で塾講師のアルバイトをしておりまして。基本、仕事は夕方からなので暇を潰していました」

 なるほど。だから平日にスーツで趣味に興じていたわけか。

 彼は手元の釣り竿を片付け始めた。釣り堀を後にする際、ちらりと目が合う。

「また機会があれば、教えてください」

「ああ、必ず」

 遠ざかる革靴の音。再び訪れた静けさを、カラスのダミ声が突き破った。なんとなく急かされたような気がして、ゆっくりと帰り支度に取り掛かる。

 良い一日だった。

 池の主と格闘し、感じのいい青年にも出会えた。適度な満足感に浸りながら、釣り堀からの家路についた。



 これがスーツの彼との邂逅の瞬間だった。

 この時、滝登り級の鯉など比べ物にもならないほどのを釣り上げてしまったということを実感するのは、もう少し先の話である。

 

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