12/23 10:00

 それから――ユキが半分くらい雪穂になってから――の一週間は、とても満ち足りたものだった。

 今までのように作り物臭い笑顔をせず、むくれて、拗ねて、驚いて、それから本当に笑って。言葉も淡々としたAIというよりはちょっと不愛想なだけの、見覚えのある彼女になっていた。

 俺はそれがただただ嬉しくて、だからこの一週間はずっと笑顔を耐えるのに必死で、そして本当に、矢のように過ぎていった。

 向こうにとってそれがどんな一週間だったかは分からない。聞いたことが無いからだ。けれどきっと、同じように思ってくれていたんだろうと思う。


 朝の味噌汁の香りはまた日常になって、部屋のあちこちに転がっていた酒の缶は冷蔵庫からも姿を消した。

 前にも行ったカフェを含めて、雪穂との思い出がある場所にはもう一度一緒に行った。今度は周りにユキが見えていない、ということを意識していたせいか、なるほどと思い当たる節がいくつも見つかった。例えば朝に軽く降った雪で滑る地面を通った時、甲高い悲鳴と同時に景気のいい尻餅をついたユキを道行く奴らの誰も気に留めなかったり。


 昔と違うことが一つだけあった。俺もなるべく早起きして、一緒に朝のキッチンに立つようにしたことだ。

 最初は不可解そうに見て、それから少し邪魔そうに「ではお皿を」と言っていたユキだったが、三日目辺りからは困ったように笑ってくれた。


「俺にも手伝わせてくれよ」

「駄目です、私――はこの味噌汁に特にこだわりがありますから。下手に手を出されて味が変わっては沽券にかかわります。隠し味も教えるわけにはいきません」


 初日は遠慮したが、それ以降は毎日交わしたやり取りも七日目だった。

 本音を言えば、雪穂の作る味噌汁の味を自分も再現できるようになりたくて手伝いをしていただけに、そこは少し残念だった。けれど同じくらい、このやり取りにくすぐったさを感じてもいた。

 そんな、朝食の後だった。


「食器、片付けてしまいますね」

「いや、俺が――」

「冬彦さんはトレーニングの準備を。とりあえず着替えて、軽いストレッチでもしていてください。体力まだまだ無いでしょう、もう明日なんですよ?」


 窘めるような口調のそれも、決して棘は無かった。


「トレーニングが済んだら、また市場調査に出ましょうか」


 見慣れていて落ち着く雪穂の柔らかい笑顔で言ったそれを「デート」と言い換えたらやはり怒るのだろうか。

 そんな、馬鹿馬鹿しい事を考えながら、着替えようとした、その時だった。


 がちゃん、ぱりん、とけたたましい音が部屋に響いた。

 キッチンの方。背中に電撃が走ったように、俺はすぐにそちらへ駆け寄った。


「雪穂、どうした!」

「あ、ふ、冬彦く……冬彦さん。わた、わたしの、手が」


 咄嗟の事で口に馴染んだ方の名前が飛び出した事をいちいち気にしてもいられず、近寄った俺は信じられない物を見たんだ。

 足元に散乱する皿の破片。顔面蒼白で立ちすくむユキ。そして、その左手。

 肘から手首までがガラスのように透けて、向こう側の景色が透けている。指先に至ってはもう、目を凝らしても輪郭が見えない。

 消えている、と、そう理解するしかない光景だった。


***


 血の気が引く音を自分の耳でしっかりと聞きながら、どうにか自分を強く持ってユキをキッチンから連れ出し、布団に寝かせる。そんなことをしても意味がない事なんか、誰に言われるでもなく自分が一番よく分かっていた。

 風邪や眩暈とは違う。彼女の左手の先が消滅していたのだから。割れた皿を片付けて、その時に少しだけ怪我をして、指に絆創膏を貼って。そうこうしているうちに時間はすっかり昼過ぎだった。布団で寝ていろと、半分気が動転した状態で言った俺の言葉を律儀に守っていたユキはその間ずっと、こちらに泣きそうな目を向けていた。


「すまん、片付けに手間取ってな。体調とかは大丈夫か?」


 一段落して、と言うと実は言い訳だ。他の事に必死で取り組みながら、とにかく自分の頭が冷静になるのを待っていた。

 絆創膏を貼り終えてから一息ついて、そう尋ねた俺に対してユキは寝たまま小さく頷いた。

 視線を横に逸らしながら。


 考えるよりも前に、掛布団を剥ぐ。そこにあったユキの左腕を掴もうとして、あるはずの位置で手は空を掴んだ。ついさっき見た時は、半透明だが輪郭が残っていた場所のはずだった。


「お前、これ、明らかにさっきよりも」

「バレないようにしていたつもりなのですが」

「ふざけてるんじゃない。どういうことだよこれは」


 心当たりはあるんです、と語り始めたユキの言葉は、これまでのどんな与太話よりも、サンタクロースの使者なんて名乗りよりずっと耳を疑いたくなる内容だった。


「サンタクロースの使者は、元々クリスマスが終わればこうやって消える決まりになっています。本当なら十二月二十五日の日の出が私のタイムリミットで、それまでにサンタクロースの補助をするためだけに現世にいるんです」


 ――厳正なる審査の結果として貴方は今年のサンタクロースに選ばれました。来る二十四日、貴方にはサンタとして世界中にプレゼントを配る義務が課せられました。そのための準備、および実際のサンタ遂行補助は私が行わせていただきます。

 最初にそう言われた時は気でも狂ったのかと本気で心配になった。目の前の光景を見るともう、そんなことは到底思えない。


「ですが、私は今回例外を発生させてしまいました。死ぬ前の事を、思い出してしまったことです」


 そう言って掲げて見せたのが、すでに肘近くまでが消えているその左腕。

 死んだ人が蘇って、生前の事を思い出す。どうやらそれはタブーだったらしくて、それが今彼女の左腕に出ているのだ。


「思い出したのは当然、この前の事故の時です。あれ、私と同じことをしていたんですね、冬彦さん」


 記憶喪失を治すには、記憶を無くした時と同じような状況を見せること。古今東西どんな物語でも使い古されてきたような、いわゆるショック療法だ。それしかないだろうと思ってはいたが、やはりあの時にユキは雪穂としての記憶が戻ったのだという。


「一つ思い出すと、そこからは芋づる式といいますか。少しずつ、思い出し始めていたんです。貴方との関係のこととか。多分それが、こうなったきっかけで」


 本当なら涙が出るほどうれしくなる言葉のはずなのに、今はそれが少しも嬉しくなかった。

 それが原因で、彼女は今消え始めているのだから。


「どうにかならないのか、お前」

「無理です。もう一度全部忘れたら、もしかしてと思いますが。それは、あの、えっと」


 布団に横たわったまま、彼女の視線が右へ左へと泳ぎだす。少し間を空けてから。


「私は……忘れたく、ないです」


 抱きしめてやろうかこいつ、とどうしようもない衝動に駆られるが、それをどうにか飲み込んだ。


「今からだと、あとどれくらいは消えずにいられる?」

「正確な時間は、ちょっと。ですが多分、見た目ほど切羽詰まっているわけではないかと」


 一応彼女曰く、これは完全に消える準備のようなもので今すぐ全身が消えるわけではないらしい。この状態から、足や右腕も同じように関節辺りまでが透け始めて、最後の瞬間に全身が溶けるように消えるのだ、と。

 ただ、どうあがいても十二月二十四日の深夜――クリスマスイブまで消えずにいることはできない。腕と同じように指先が透け始めた己の足を見ながら、彼女は静かにそう断言した。


「ですが、貴方がサンタクロースであることには変わりがありません。明日の深夜、貴方はサンタクロースとして世界にプレゼントを配る必要があるんです。だから、これを」


 そう言って彼女はいつの間に取り出したのやら、右手に握ったハンドベルをこちらへ差し出してきた。

 忘れるわけがない。丁度彼女が記憶を取り戻し始めるきっかけになった、あの夜に見せてもらったものだ。これを鳴らせば、サンタの時間が始まる。必要なものがその場に全部現れると、彼女がそう言っていたベル。


「お前、まさかこれを、お前が消えてから俺自身に鳴らせって言うのか」

「はい」


 できるわけが無いだろう、と言いそうになった言葉をすんでの所で飲み込んだのは、彼女の目がどこまでも真剣だったからだ。

 嘘でも、適当でもない。至極大真面目に、そして真実として、彼女は俺にこのベルを託すのだ。明日のサンタクロースを投げ出すなと。


「なら、一つだけ教えてくれ」


 どうにか飲み込んだ弱音の代わりに、言葉を懸命に選びながら尋ねる。


「お前は、どうしてほしい? なあ、雪穂」


 作り物の笑い方をしなくなった、その目を真っすぐ見て尋ねる。時々事務的な口調をすっかり忘れて、俺が何かを言う前に慌てて取り繕う、少し気を抜いたり取り乱したりするだけで呼び方が昔の「冬彦くん」に戻るそいつの目を、じっと見据えて。


「私、は……私は、貴方に。冬彦くんに、サンタクロースになってほしい。酒浸りでどうしようもない事になっていた貴方に、もう一回私の知る笑い方をして、陽気にそのベルを鳴らしてほしい、です」


 そう言われて初めて、そうか笑い方が昔と違うのは向こうだけじゃなかったか、と自覚する。

 お互い、昔の笑い方をしていなかった。ユキは事務的な作り笑顔ばかりで、俺は多分、ちょっと嘲りとか諦めがずっと混ざっていた。

 言葉にわざわざ「貴方」と「冬彦くん」が入り混じるのは多分、向こうもその事を気にしていたからだ。


 だから、俺はこう言うしかなかった。

 いや違う。

 明確に、自分の意思で、それに応えてやりたくて、言ったんだ。


「わかった。任せろ」


 差し出されたハンドベルを受け取り、確かこうだったよな、と自分で思い出せる自分の笑い方を再現する。

 くすくすと笑ってくれたのは、昔通りの笑い方ができたからだろうか、それともあんまりにも不格好だったんだろうか。そんなことは今の俺にはどうでもよかった。


「ただし」


 受け取ったベルを胸元で強く握り、立ち上がる。

 言葉が続くと思っていなかったんだろう、寝そべったまま彼女は目を見開いていた。


「どうせやるなら俺は、お前に見てほしい。ベルはもう渡したんだ、文句言うなよ?」

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