12/16 8:00
次に目を開けた時、まず最初に感じたのは懐かしさだった。
目に映っていたのは単なる天井で、それ自体は飽きるほど見てきた自分の部屋のものだ。今更懐かしさも何もあったもんじゃない。
匂いだ。
ふわり、と鼻に届く暖かい味噌汁の匂い。俺が酒浸りになるよりも前はずっと、殆ど毎日のようにこの匂いが寝起きのお供だった。
身を起こすとほんの微かにだが、こめかみ辺りが鈍く痛んだ。
枕元に置いていたデジタル時計のおかげで日付と時間を確認する。どうやら寝ていたのは半日程度らしい。
「雪穂?」
「いいえ、私の名前はユキだと、決めたのは貴方です」
額を軽く押さえながら、人の気配がする方に呼びかけて、返ってくるのは期待していたのと同じ声で、違う口調。
そうだろうな、そんなうまい話があるものか。そう思うのと同時に、顔を声がした方とは反対側へ向けた。いくら相手がロボットみたいな態度しかとらないとはいえ、落胆した顔を見せるのは少し気が咎めた。
「ですが、その」
丁度いい所に窓があったから、そこから差し込む朝日とにらめっこを始めた俺の背中にもう一言、言葉が届く。そこで、さっきから鼻に届いている味噌汁の匂いは決して寝ぼけた脳が誤作動しているわけじゃないらしいと気付いた。こうしている今も、懐かしい朝の匂いが胃袋を刺激している。
それに、ユキの口調が妙だった。
言い淀んだ? あいつが? あの、サンタクロース絡みの事以外じゃ相槌か笑顔以外ろくに返さず、逆にサンタクロース関係なら今度は事務用ロボットのように淡々と喋るはずの、あのサンタクロースの使者が? そんなことは、ゴミ捨て場の上で遭遇してから今までにただの一度だって、
「貴方が、雪穂と呼ぶ人の事はわかります。全部では、ありませんが。どうしてわざわざユキと名前を決めたのかも、何となく想像がつく程度には……思い出せた、と思うので」
思考なんか巡らせる余裕もなく振り返った。
視線を少し斜め下に逃がしながら、右耳より少し上にある青い髪留めを指で少し触りつつ立っているユキが、そこにいた。
もう十分驚いているつもりだったが、その表情を見て目を疑う。
判で押したような笑顔じゃない。むくれているような、照れているような、不機嫌なんだかまんざらでもないんだかわからない表情だ。
「思い出したっていうのは、どのくらい」
半信半疑な気持ちが、どうしてもそれを尋ねてしまう。
「朝の日課のレシピを、丸暗記で再現はできました」
「……“なにも毎日無理に作らなくてもいいんだぞ”って、言ったら」
「“好きでやってるんだからいいんだよ”ですよね」
毎朝俺を起こさないようにこっそり早起きしながら作ってくれることに感謝よりも申し訳なさの方が勝って、週に一度は交わしたやり取りだ。
間違いない、本当に思い出したらしい。
「ただ、さっきも言いましたが全部ではないんです。どうしてサンタの使者になったのか、そうなる直前に何をしていたのか。それから……
続けられたその言葉を聞いた時の感情を、俺はどう表現すればいいのだろうか。
記憶が戻った事を素直に喜ぶには、重要な部分が「実感がわかない」と言われた事の重みが強い。思い出したという割に自分の名前をまるで他人のように呼ぶ事へのショックを受けるには、鼻に届く香りと懐かしいお決まりの言葉が通じた事への喜びが大きすぎる。
「色々と、わからない事があるんだが」
「ええ、私もお話しておかなければならない事が色々あります。とりあえず、朝食の後にしませんか」
願っても無いような申し出だった。
頷いてから布団から出て立ち上がると、深呼吸を一つ。そうでもしないと、気持ちの整理が間に合いそうになかったし、なによりも。
それ以上話を続けていると、口元と目元の緩みを耐えるのに限界が来そうだった。
***
「順番に話します」
懐かしすぎて涙が出そうになる朝食を終え、雪穂の――いや、本人の言葉を尊重するならまだユキと呼ぶべき彼女の説明はてきぱきと、言い換えれば少し淡々とした口調だった。その辺りは確かに、全部思い出しているわけではないらしいなと実感させられる。
曰く、思い出させたのは名前と、日課にしていた事。それからこの十日ほどで俺が連れて行った場所がどういう意味を持つ場所だったのかということ。焦りを感じながらも続けていた思い出の場所巡りはどうやら無駄ではなかったらしい。
思い出せていないのは、自分の死に際と、俺との関係性がどういうものかということ。本人も言っていたが、少なくとも後者に関しては思い出せた事を一つ一つ繋ぐと予想はつくらしい。ただしあくまで「そうだったのだろう」という他人事でしかなく、自分の記憶としての実感はない。
ある程度思い出したとはいえ、関係性以外にも重要な部分が抜けていることもあって本人の中ではまだ雪穂が自分である、と言い切れない状態らしいこと。
ここまでは理解ができた。
風向きが変わったのは、ここから先だ。
「……はぁ? この期に及んでまだそんなふざけた事を言うのかよ!」
つい声を荒らげてしまった俺に、しかし物怖じする様子は微塵も見せないユキは同じ言葉を繰り返す。
「サンタクロース任命の話と、私がその使者であることは、事実であり、現実です」
「お前、あの時頭でも強く打ったんだろ。そりゃあ死んでないだけ幸運かもしれないが」
「お言葉ですが冬彦さん。私は死んでいます。死に際の記憶こそ抜けていますが、死因とその事実は
他人事のような、まるで「それに関連する資料は目を通しました」とでも言うような口調。
それがむしろ、嘘っぽく聞こえないことに背筋が震えた。
「馬鹿なこと言うな。現にお前はここに」
「その場にいたんですよね、冬彦さん。生きていると思える状態でしたか?」
ぐ、と言葉が喉で詰まる。
答えられない。要するにそういう事だ。さすがにあの直視ができない状態からば現実逃避にも限度があって、だから考えないようにしていたのに。
「私だけじゃない。貴方もです。昨日のことは覚えていませんか? いえ、それよりももっと前。カフェに一緒に行った時の店員の反応が、本当に身だしなみの事だけだと思っていますか?」
ユキは容赦なく畳み掛けてくる。
それだって、思い出したくないから、思い出すと自分が無事なことに自分で説明が付けられないから、他のことで記憶を誤魔化していた。
血の池ってのはこういうのを指すんだろう、と思える血溜まりと、激痛を通り越していっそ何も感じない全身の痛覚。
あの状態から一晩で?馬鹿げている。どんな魔術だ。
カフェの話も心当たりが無いわけじゃない。あの時は自然と「自分が浮浪者に見えたんだろう」なんて思ったが、後々思い返してみれば向こうの顔が引きつったのはあくまでも俺が「二人で」と言った時だ。その後のパフェだって、ユキではなく俺の前に置かれた。偏見かもしれないがああいう場合、俺が店員だったなら浮浪者まがいの格好をした男よりも小綺麗な格好の女が頼んだものだと決め打ってそちらに置くと思う。
他の所でもちらほらと予感はあった。ユキに話しかける時、周りの通行人は揃って俺を不審者か、可哀そうなものを見る目で眺めていた事にくらい気付いていた。
こいつは今、俺以外には見えていないんじゃないか。そう考えるのが自然なくらいに。
「信じてください。えっと……冬彦、くん」
うつむき加減に上目遣いで昔の呼び名。
お前それはずるいだろう、と怒鳴るかどうかをたっぷり一秒迷ってから、俺には結局、ため息をひとつ吐いて両手を挙げるしかなかった。
ずるいのは事実だが、困った時のその禁じ手を向こうが思い出しているのならそれはそれで喜ばしいし、信じざるを得ないというのも本音だった。
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