12/15 19:20
正直に言おう。
少し前くらいから俺には少し焦りが出始めた。
理由は当然、ユキだ。
職無しで貯蓄だけはそれなりにあるもんだから時間は案外余っていて、十日もあれば思い出の場所はだいたい巡ることができた。初めてデートした公園も、俺の誕生日に二人で行った映画館も、全部だ。遠出する分にはルート把握、公園にいく分には体力トレーニングだと言えば特に文句を言われることも無かった。
どこに連れて行っても、どの場所で食った思い出の品を食わせても、ユキの反応は端から見ている限りではかなり芳しいものだと言える。表情は変わらないし言葉にもわざわざ出してこないがいい景色には見惚れていたし、食わせたものはだいたい二口目から促す前に自分で食う。
これはこれで可愛げのあるものだが、しかし一向に記憶を取り戻す気配はない。何かが記憶に引っかかっているらしい、と思わせてくれるような反応が一つでもあればありがたいが、今の所そんなものは一度だって見つけられていないままだった。
伸び放題だった髪を切った。雪穂と一緒にいた時の髪型だ。
髭も当然剃った。無精髭が残ったままだと抱き着くのも嫌がるから、昔はそこに特別気を遣った。
筋トレも指示されるがままにやった。酒浸り生活は思っていた以上に体を壊していたらしく、最初の数日で自分の体力の落ち具合に衝撃をうけた。
その合間で、散らかり尽くした部屋も少しずつ片付けていった。最初は眺めているだけだったユキが途中からそれを手伝うようになった事くらいが、今の所唯一の変化だと言えた。
「くそっ」
俺の目的が微塵も進まないまま、戯言のようなサンタの準備だけが着実に進んでいく。
どうせ戯言だ、そんなものに意味は無いんだと自分に言い聞かせながら、サンタクロースの使者って言葉が示すタイムリミットを意識し始める自分がいた。
十二月二十四日になったところで俺がサンタクロースになる道理は無いし、それを過ぎたって目の前の記憶喪失者が溶けて消えるわけでもないだろうに、クリスマスイヴが近づくにつれその言葉に自信が無くなり始めていた。俺という人間は思っていたより騙されやすいらしい。
今日もそんな焦りが肺の辺りをちくちく刺してくるのを感じながらの、ルート把握を名目に掲げた散歩の帰り道だった。
ルート把握と言っても別に、本当に世界中の道を把握しようっていうわけじゃない。近くの図書館に向かって、あちこちの国の地図を広げるだけだ。本当はパソコンなりスマホなりで調べればいいんだろうが、俺は機械に疎いからうまく調べられる自信が無かった。
そういうのが得意だったはずの奴は記憶をきれいさっぱり無くして、天界から来たサンタの使者を名乗っている。天界には文明の利器が無い設定らしく、使えるかと尋ねてもユキは笑顔のまま微動だにしなかったから、頼れるのは図書館のアナログな地図だけだった。
「サンタとしての準備は、順調なようですが」
すぐ隣からそんなことを言われただけで、反射的に舌打ちが出る。
向こうは悪態をついた俺に対して、こんなにも順調なのに何が不満なんだと疑問なんだろう。そうは分かっていても、苛立ちが隠せない程度には余裕がない事を認めざるを得なかった。
――誰のせいだと思って。
つい吐き捨てそうになった言葉を咄嗟に飲み込む。駄目だ、そういうのは駄目だ。向こうは本当に覚えていないんだから。
「私の役目は、サンタクロースの補佐です」
「だろうな、知ってるさ」
「その補佐には、当然メンタルケアも含まれます。サンタ任命がどれほど光栄な事でも、いえ光栄なことだからこそ、当日が近づくにつれて緊張するのは仕方のないことです。悩みがあるのであれば、相談くらいは」
「聞くだけだろう、どうせ」
「聞くだけというのは案外、馬鹿にならないものですよ」
聞くだけでも案外、馬鹿にならないもんだよ、冬彦くん。
砕けた口調の、同じ声が脳裏で殆ど同時に響いた。
「何かをしてもらおう、と意気込んで話すときはどうしても肩の力が抜けないものです」
この話聞いて何かしてもらおう、って気持ちで話すとさ、どうしても力んじゃうし期待も高すぎて聞く方も話す方も疲れるじゃん。
いつ話したんだったか。去年か、それよりずっと前か。たしか普通に、くだらない、何気ないやり取りの延長で出た話題だったはずだ。
日付は思い出せなくても、きっかけは思い出せなくても、似たような事を言われた事があるというのだけはハッキリと思い出せる。
「ただ聞いてもらうだけのほうが、気負わずに済んで気持ちが晴れる事も少なくないでしょう。そのほうが」
そのほうが、
「お悩み相談として有難いこともある、ってやつか」
「……お話が早いようでなによりです」
先回りして言ってやると、ユキの表情が少し固まったように見えた。貼り付けたようなワンパターンの笑顔ももう二週間向かい合っていれば多少は変化に気がつけるようになる。これは、驚きだろうか、戸惑いだろうか。
素直に驚いた。部屋の片づけ以外では初めての、期待を持てそうな変化だった。表情の固まり方もそうだが、ユキが喋った内容そのものに対してだ。
偶然で出るような言葉の一致じゃない。記憶は消えたと言っていたが、どこかにやっぱり残っているんじゃないだろうか。今の言葉はその証拠じゃないだろうか。
そう思うと、腹の底でどんより溜まっていた焦りが綺麗に散るのだから、やっぱり俺は単純なのだろう。
「そういえば、サンタになる事についてまだ聞いてない事がいくつかあるんだが」
単純だから、気分が軽くなった分だけ口も軽くなった。思い返してみると図書館からの帰り道で、これは今日初めての雑談だったかもしれない。
「ソリやトナカイは、いつ調達するんだ」
「それらはクリスマス当日になります。私が準備しますのでご安心ください」
「どうやるんだ、やっぱり魔法でも使うのか」
「人間界のイメージだとそれが近いです。サンタと言えばほら、やはりベルを鳴らすものでしょう。当日になると私が、これを鳴らします」
ユキの懐から取り出されたのは、金色の小さなハンドベルだった。ご丁寧に赤と緑のリボンが持ち手に巻かれている。
相変わらず作り込まれた設定だ、とつい笑ってしまった。
「鳴らすと、ソリとトナカイと、ついでにプレゼントまでその場に現れるって寸法か?」
「その通りです。ベルを鳴らしてからきっかり一時間。貴方にはサンタとしての特権が与えられます。具体的には寒さや上空三千メートルの気圧や気温にも耐えられるようになったり、ちょっとしたワープができたり……要するに、サンタとしてたった数時間で世界中を飛び回るのにも困らない状態になります」
「ベルを鳴らすとサンタさんのお時間ってわけだ」
茶化すつもりで言った言葉が、ふと有名な歌詞を思い出させた。
鳴らしておくれよ鐘を、だったか。
クリスマスになるよりも前にやってきて、ベルを鳴らしたせっかちなサンタクロースの歌。子供の頃特にお気に入りのクリスマスソングで、同じくらい歌の中身が気になって仕方のない曲でもあった。
「もしクリスマス前にそいつを鳴らすと、どうなるんだ?」
ただの冗談のつもりで、そう尋ねる。
ユキは少しだけ考え込むようなそぶりを見せた後、やっぱり笑顔で答えてくれた。
「前例がないので何とも言いかねますが、ベルそのものがクリスマス開始の合図のようなものなので、おそらくサンタにはなれます。ただ、サンタの使者としても任命されたサンタクロースとしてもルール違反になりますから、何かしらのペナルティはあるかと思いますし、私も許可しません。童謡のような、微笑ましい事にはならないかと」
「だろうな、わかってるさ。その鐘は大事にしまっておいてくれよ」
サンタクロースの使者にも、あの歌は知れ渡っているらしい。
戯言だと思いながらも、そう考えると少し愉快だった。
日もすっかり沈んで暗い帰り道で、人目を
視界の端、車が一台どうにか通れる程度の細い十字路のちょうど向かい側から、背の低い人影がこちらへ近づいてくる途中だった。暗くても、街灯のおかげで服装が分かる。多分小学生か、よくて中学生くらいだろう。塾か何かの帰りだろうか。
目が合って、向こうは露骨に肩を強張らせた。
「よう、怖がらせてすまんな!」
近寄ることはせず、遠くから手だけ振ってそれっきり。いくら気分が陽気でも、今のご時世やっちゃいけない事のラインを見極めることは大事だ。
今のご時世ちょっとこれはやりすぎだったか、と反省していたら、十字路の向こうで子供はやっぱり少し怯えた顔をして小さく会釈をしてくれた。
直後、少し青い顔をしながらも子供が駆け出す。向かいの道から飛び出して、そのまま左へ曲がっていく。俺のいる側から走って遠のいていくルートだ。
黙って逃げられるかと思っていたから、意外な愛想の良さに驚く。
それと、殆ど同時の事だった。ぶぅん、と低いエンジン音が耳に届いたのは。
駆けだした子供。近づいてくるエンジン音。ついでに言うとその子供が走っていった先はすぐにまた車が通れる道路が一本横切っている。
三つ揃うと、それは俺にとって心臓がざわつく組み合わせだ。
耳に残るブレーキ音と、華奢な身体がギャグみたいにあっさり宙を舞う映像がフラッシュバックする。
人間、こういう時の予感だけは当たるもんだ。
「おい待て!」
まるで雪穂の時と同じだった。
気が付いたら俺は叫びながら駆け出して、気が付いたらその肩を掴んで後ろに引っ張っていて、気が付いたら真っ白いヘッドライトに全身照らされていて、気が付いたら冷えたアスファルトの上に頬を乗せて視界が横転していた。
「冬彦さん!」
やけにくぐもった声が、雪穂と同じ声質をして耳に届いた。
あのロボットみたいなワンパターン笑顔が、今この瞬間どうなっているのか気になって、視線を左右に走らせようとして、それすら痛い。
やがて視界にモヤがかかって、瞼を支えきれなくなった俺は、そのまま瞼を閉じるしかなかった。
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