12/1 23:50

***


 どしゃ、という音が耳に届いて、それと同時に生暖かい感触が背中いっぱいにまとわりつく。


 鼻が曲がるような悪臭を嗅いでようやく、ちょっと酔いがさめた俺は状況を理解した。つまり、俺は燃えるごみの山の上に投げ込まれたらしい。頬を切り裂くような冷えた空気の中で、背中に当たる生暖かさは少しおかしいくらいに心地よくて、思わず口の端を歪める。

 これで臭いさえなければ、まあこの場所も快適なんだろう。


「うっわ、こいつ笑ってるよ、気持ち悪っ」

「いーって、放っておけよこんなオッサン。財布の中身はもう貰ったんだしよ、時間の無駄だって」


 そんな声が視界の外側で聞こえた。まだ声変わりの途中らしい、随分若い声だ。その周囲にも何人かいるようで、相槌だったり嘲笑だったり、嫌悪の声だったり、そういうのがいくつか聞こえた後で遠のいていった。

 今コレどういう状況だっけ、と少し考えて、チンピラみたいなガキ数人に小突き回されたんだっけなと思い出す。確かべろんべろんに酔っぱらって歩いていたら肩がぶつかって、それを理由に引きずり回されて、殴られて、財布の中身まで抜かれた。

 こんなご時世にも未だに「親父狩り」なんてものはまだ存在しているらしい。もちろんかなりレアなんだろうが。てっきり十年以上前に絶滅しているもんだとばかり思っていた。


 今時笑っちまうくらい惨めな顛末だが、その事に対する怒りも、悲しみも、俺は特に感じていなかった。

 どうでもよかったのだ。つい最近、長年一緒にいた恋人を目の前で亡くした俺にとって、そんな程度の事は。

 幼馴染から、進級するように自然に、当たり前の事だったみたいにいつの間にか付き合い始めて、だらだら続きながらもお互い他の相手なんて特に考えることも無く、金も貯まってきたからそろそろ籍でも入れようかなんて話をし始めた矢先の交通事故だった。それも、本当なら無関係だったはずなのに小さな子供を庇って、突き飛ばされた子供が膝を擦り剥く代わりに俺の恋人が死んだわけだ。


 事故に関する処理だのなんだのは、正直記憶に残っていない。

 気がついたら運転手だった爺さんは警察に連れて行かれてからの音沙汰が分からなくなっていて、気がついたら目の前で恋人の母親が号泣しながら「どうして貴方じゃなくてうちの娘なの」なんて言葉を叩きつけてきていて、気がついたら葬式まで全部終わっていて、その頃には心がぽっきりへし折れた俺は仕事もやめて酒ばかり煽っていた。

 今日もそんな風に酒浸りで、右も左もよく見えないままに追加の酒を買いに出ようとしたところだった、はずだ。

 幸い結婚資金にしようかと話して溜めていた金があったから、今日も少し削って財布に入れて、それが今さっき持っていかれた。


「……もう、いいかぁ」


 ぽつりと言葉が出た。いつぶりだろう、と意識して自覚する。酒浸りになって周りとの連絡も断って、そういえば殆ど自分の声を聞いていなかった。しゃがれきって喉が声帯の使い方をうっかり忘れていたような、不細工な声だった。

 十二月になったばかりの空はもう暮れていて、既に寒いけれどこれからさらに冷え込むだろうことは酔いの残った頭でもわかった。

 このままゴミ捨て場に寝そべっていれば、もしかすると明日には冷え切って何も考えなくて済むようになるかもしれない。もう彼女が亡くなった事による虚しさを抱え続けなくてもよくなるかもしれない。いや、そのためには背中の暖かさは邪魔だろうか。冷えたアスファルトってやつは人間の体温程度では温められずに延々体温を持っていくから、案外あっさり凍死するなんて聞いたのは誰からだったか。


 もう、それを試してみてもいいかもしれない。そんな気持ちだった。

 悪臭と頬の冷たさは気付けには丁度よくて、そんなことを考えているうちに酔いはすっきり覚めていたから、そう考えたのは気の迷いにしては随分はっきりとした思考だった。


白峰冬彦しらみねふゆひこさん、ですよね?」


 だから、唐突に聞こえたその声も決して、空耳や幻聴の類じゃないとすぐに分かった。

 多分少しでも酔いが残っていればそれは、酒に溺れきって聞こえてきた幻聴、妄想、願望の類だろうと決めつけていただろう。

 そうならなかったから、生ごみの山の上から俺は飛び起きた。聞き慣れていて、そして二度と聞けないはずの声だったからだ。


雪穂ゆきほっ」


 有り得ないだろという気持ちと、むしろ事故から今までの出来事の方が悪い夢だったのかもしれないという微かな期待が入り混じった声は、さっきのしゃがれた声よりは多少マシな張りと響きをしていた。

 少し霞む視界の向こうで、こちらを見て佇んでいたその姿に目を凝らす。


 明るい茶色のショートヘアに、猫みたいなくりっとした目、からかうたびに風船みたいに膨らませていた白い頬。

 全部見覚えがあった。何度も酒を飲みながら、その姿を思い出していた。

 そこに立っていたのは、見間違えようも無く、幻覚の余地すら挟ませず、つい先月見知らぬ子供の擦り傷と引き換えに他界したはずの鷹藤雪穂たかとうゆきほその人の姿だった。


「雪穂、お前雪穂だろう? なんだよ……生きてたんなら言えよ、お前」

「もう一度確認しますね。貴方は白峰冬彦さんで、お間違いありませんか?」


 投げ飛ばされた時にぐしゃぐしゃになっていた髪の毛を慌てて整えながら立ち上がったところに、もう一度投げられたその言葉で俺はようやく違和感に気がついて固まった。

 雪穂の声だ。見た目は雪穂そのものだ。なのに、その口調は雪穂のものじゃない。あいつとは小学校からの付き合いで、生まれてこのかた俺に対してこんなに距離を感じる言葉を使ってきたためしなんか無いはずだ。


「どうしたんだよ、雪穂。そうだよ冬彦だよ、なあ。なんだよその喋り方はさ。こんな格好してるから怒ってるのか?」

「はい、確認が取れました。白峰冬彦さん。あの、本題に入る前に一つだけ。私は名前を持ちません。誰と見間違えているのかは分かりませんが、私は今日初めてあなたとお会いしたのですが」


 何を言っているんだ、という表情でこちらを見る雪穂。いや、雪穂と同じ顔をしたそいつは一拍置いてから「そんなことより」と話と表情を切り替えた。

 見覚えのある満面の笑み――いいやこれも違う。顔の作りはそっくりそのまま雪穂のそれだが、あいつはこんな笑い方はしなかった。よそよそしくて、ちょっと距離のある、作り物みたいなお行儀のいい笑顔。


「改めて。初めまして、白峰さん。私は天界よりやってまいりました、サンタクロースの使者と申します。突然の事で申し訳ありませんが、厳正なる審査の結果として貴方は今年のサンタクロースに選ばれました。来る二十四日、貴方にはサンタとして世界中にプレゼントを配る義務が課せられました。そのための準備、および実際のサンタ遂行補助は私が行わせていただきます。どうぞよろしくお願いいたしますね」


 今年の冬は冷えるぞと言われていた十二月の初め。見慣れた表情と、聞き慣れた声は、そんな訳の分からない事を言い放ったのだ。

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