第3章 第六天魔幼女、撃退す 1

 1


 マシュージ・マッシモは何かが起きていることを察したが、何が起きているかまではわからなかった。


 兵同士の喧嘩が始まって、なんらかの理由で騒ぎが大きくなったか。それとも勝利に浮かれた兵たちが、陣中にも拘わらず酒を飲んで騒ぎ始めたか。妾腹の弟の息のかかった刺客が自分の寝首をかこうとして騒ぎを起こしたという可能性さえ彼は考えた。だが、背後の闇から聞こえてくる喧噪が、そんな種類のものではないことがすぐにわかった。怒声や絶叫に加えて剣戟の音まで聞こえてくれば、さすがに兵の喧嘩ではあり得ない。そもそも本陣に詰めているのは、マッシモ軍を構成する兵士の中でも精鋭揃い。勝手に酒を飲んだり喧嘩を始めて殴り合うような愚行を犯すはずがない。だからこそ何が起きているのか、マシュージには見当がつかなかった。


「なんの騒ぎだ!?」


 と周囲の者に訊いても、みな先ほどまで仮眠を取っていたわけだから、まともな返事など返ってこない。


 前方、城館に近い場所に陣を敷いている部隊に動きは見られないから、これは本陣に限った騒動だ。彼の頭の中からはロマネスコ軍の夜襲の可能性が完全に抜け落ちていた。敵の城内にいる兵は、二百程度、どれほど多くても三百足らずとマシュージは信じ切っているから無理もない。その数で二千四百を相手に奇襲をかけるのは無謀すぎる。いくら夜の闇に紛れても、敵の城館は味方の兵が包囲しているわけだから、城内から討って出ればすぐに発見できる。発見すれば、三方に布陣しているマッシモ軍が即座に集まってくる。そうなれば多勢に無勢、あっという間に包囲され、殲滅されるだけだ。


(城を包囲している各部隊は静かなものじゃないか。ということは、敵が攻撃を仕掛けてきたのではないということだ)


 と彼は早々に結論づけてしまった。

 ここがロマネスコ家本家の居城である以上、脱出路の可能性も考慮に入れるべきだったかもしれないが、だとしてもマシュージは、二百や三百程度の兵で何ができるか、と高をくくっていただろうから、結果は変わらなかったに違いない。マシュージも副官のグレイブダンも事態を把握するのに手間取り、対応が遅れたことが致命的だった。事態が把握できなくても、異変に気づいたら直ちに何らかの対応を取るべきだった……というのは結果論だろうか。やがて彼らも、これは敵襲ではないか? と思い直すのだが、すべては手遅れだった。彼らが気づいたときには、ロゼリア率いるロマネスコ兵がすぐそこまで迫っていた。


 2


 マッシモ家の本陣がある丘の上をめがけ、ロゼリアは斜面を駆け登っていた。


(ふははは、あのときと同じだがや)


 ロゼリアは身に着けている鎧の重さも忘れるほど、高揚し、興奮していた。


 あのときの光景が頭の中に蘇ってくる。篠突く雨に紛れて低地を駆け、今川の旗印が翻る丘の上をめがけて斜面を駆け登っていった、あの若き日の戦の記憶が。


 とはいえ、肉体は十にも満たない女児のそれだ。そこはあのときと違う。


 あの頃の信長は、日々、己の身体を鍛えていた。乗馬や水練を欠かさず、槍や鉄砲などの訓練も熱心にしていた。だが、今の身体は華奢な少女のもので、加えてロゼリアは日頃、肉体的な鍛錬をあまりしていなかったようだから、精神的には高揚していても、やがて肉体が精神について行けなくなる。


 ロゼリアの足が鈍るにつれ、一番隊の突撃速度も鈍った。その外側を他隊の兵が喊声を上げながら駆け登っていく。このまま駆け続けるのは無理だと判断したロゼリアは、そこで足を止め、手を振り回しつつ、駆けていく兵たちに能う限りの大声をかけた。


「駆けよ駆けよ! 敵の本陣はすぐそこぞ! 奴らは我らの夜襲に気づいておらん! 斬り込め! 突き伏せよ! 手柄を立てた者には思うままに褒美を取らせようぞ!」


 ロゼリアの甲高い叱咤の声は、周りを走る兵たちの喊声や怒号にかき消されてしまうのだが、何を言っているのかまではわからなくとも、新しい当主が自分たちに声をかけてくれているという事実は、兵たちを鼓舞するのに一役買っていた。


 ロゼリアの姿を認めた者は勇気が湧き出るような気がした。闘志が溢れ出してくるような気がした。ロマネスコ兵たちは、ただひたすら敵の本陣を目指して、緩やかな斜面を駆けていく。奔流のようなその流れに遅れまいと、ロゼリアも再び足を動かし始めた。すでに先頭を行く者たちはマッシモ家の兵と遭遇したようで、喊声に混じって、怒号や絶叫、そして剣戟の音が聞こえてきた。


「お疲れでございますか、ロゼリア様?」


 後ろに控えていたアルルビアンヌが並びかけてきた。


「鎧が重い。次はもっと軽い鎧を作らせることにしよう」


 弾む息でロゼリアがそう答えると。


「わたくしが抱っこいたしましょうか」


「は?」


 ロゼリアは思わず目を見開いてアルルビアンヌを見やったが、彼女は慌てず騒がず、澄ました顔で言葉を継いだ。


「鎧をお召しになっていても、ロゼリア様を抱っこするくらいの力はございます」


「ははは、魅力的な申し出だの。だが、やめておこう。おぬしに抱きかかえられている儂の可愛らしさに、味方の兵の闘志が挫けてしまうやもしれん」


「さようでございますね。では」


 兜から覗くアルルビアンヌの顔が初めて険しいものになった。


「参りましょう、ロゼリア様。お味方の勝利、もはや疑いなしでございます」


「うむ。少し回復した。もう一度、駆けるか」


「ヨナ!」


「はい、侍女長!」


 軽装鎧姿で少し後ろに控えていたヨナが慌てて進み出てきた。


「もしも矢が飛んできたら、あなたが盾となってロゼリア様をお守りしなさい」


 アルルビアンヌの命令に、ヨナは目を剥いて仰け反ってしまう。


「え、ええぇ!?」


「間違えました。あなたの持っている盾でロゼリア様をお守りしなさい、でした」


「侍女長、本気の顔で冗談を言わないでくださいぃ」


「いいから。しっかり盾を構えなさい。構えて、ロゼリア様の前を駆けなさい」


「なんでわたしが盾を~。わたし、魔法士なんですけど~」


「万一、ロゼリア様がお怪我なさったら、すぐに手当てをする必要があるのですから、あなたはロゼリア様のお側にいる必要があるでしょう?」


「側にいる必要はわかりますけど~、重たい盾を持つ必要があるのか、ということを、ですね~」


「半人前の魔法士のくせに文句ばかり言ってないで、早く用意なさい!」


 うへぇ、と首をすくめたヨナは、承知しました~、と答えて手にした大きな盾を掲げ、決死の形相でロゼリアの前に進み出た。一方のアルルビアンヌは、軽装鎧を着込み、左手に盾、右手に剣という出で立ちで、ロゼリアの横に立っている。本来、乱戦になれば剣よりも槍の方が有利としたものだが、槍は両手で振るうことになるから盾を持てない。それでは、いざというときにロゼリアを守れない。女性にしては大柄なアルルビアンヌだが、さすがに片手で槍を振り回すほどの膂力はなかった。だから彼女は剣と盾を持っている。


 そんなアルルビアンヌの勇姿に、ロゼリアはちらっと目をやった。


(有能な女だとは思っていたが、この期に及んでこの余裕、この落ち着き振り。度胸もある。アルルビアンヌ、此奴、思っていた以上の掘り出し物やもしれんな)


 生きるか死ぬかの戦場で自分を保っていられる者は少数派だ。我を忘れ、無我夢中で槍を振りかざし、わめき声を上げ、脇目も振らずに突進する。それが普通なのだ。だがアルルビアンヌは、すぐそこに敵の本陣があるというのに、そして味方の数はたったの五百だというのに、いつもと同じように振る舞っている。並の者にできる芸当ではない。ロゼリアが……というか、信長が感心するのも無理なかった。

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