第2章 第六天魔幼女、夜襲す 5
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館の敷地から掘り進められた地下道は万が一に備えた脱出路でしかないため、ろくに整備されていない。通路の床は
脱出路の入り口がある部屋の窓を開け放ってきたおかげか、空気は流れているようなので、中毒になる虞はなさそうだ。
前を行くアルルビアンヌは、手にした松明の明かりでロゼリアの足下を照らしながら、ゆっくり慎重に歩いている。その松明の炎に照らされたロゼリアの鎧が銀色に煌めく。アルルビアンヌも女性にしては背が高いほうなので、かなり窮屈そうだった。
「わはは、このちっこい身体も、こういうときは便利だな」
前後を進むアルルビアンヌや宿老の窮屈そうな歩き方を見て、ロゼリアは愉快そうに笑うが、ナイゴアルドなど、笑い事ではないわ、と呆れてしまう。
(これからロマネスコ家の未来が懸かった夜襲に行こうとしているのに。お家の未来だけでなく、我らの命も懸かっているのに、本当に状況がわかっているのか? 本で読んだ戦ごっこのつもりでいられたら、こちらが困るのだが)
新当主の無茶な思いつきに渋々と従っているだけのナイゴアルドとは裏腹に、近くにいる兵たちはロゼリアの度胸に驚き、そして感心していた。
(まさかロゼリア様が、これほど豪胆なお方とは)
(先代様の若い頃を彷彿とさせる指揮官ぶりではないか)
(お館様が討ち死にされたと聞いたときはどうなることかと思ったが、ロゼリア様なら問題なくロマネスコ家を率いていけるのではないか?)
皆は、そんなことを思った。
やがて、縦に長く伸びた奇襲部隊の足が止まった。先頭が出口に到達したので、外の様子を窺っているのだろう。通路は一列でしか歩けないから、先頭が止まれば、後ろも止まらざるを得ない。どれほど時間が経っただろうか。実際はほんの十分かそこらだったかもしれないが、薄暗い通路の途中で立ち止まっている兵たちには永遠の長さのように感じられた。
やがて隊列が再び前進を始めた。
「いいか。外に出たら声を出すな。物音を立てるな。後ろの者にも
抑えた声でロゼリアが列の後方へ呼びかけると、低く抑えた、応! という声が返ってきた。
そこからロゼリアが外に出るまで二、三十分ほどはかかっただろうか。一人ずつ外に出るしかないので、どうしても時間がかかってしまうのだ。垂直の壁に設置された錆の浮いた金属製の梯子をアルルビアンヌの手を借りてよじ登ったロゼリアは、外に出ると急いで周りを見回した。
出たところは林の中で、周囲は木々に囲まれていて見通しは利かなかった。夜空には大小、二つの月が輝いている。大きな月はほぼ満月で、別の月も満月に近い丸さだった。おかげで辺りは夜でも薄暮のような明るさだ。ロゼリアは内心でギクリとしたが、その異様な光景を見ても周囲の将兵は誰も騒がない。当たり前のように夜空を見上げ、
今夜はどちらも満月に近くて明るいな、などと話しているだけだ。
夜空に輝く二つの月と将兵の反応とを見ると、やはりここは自分のいた世界とは違うのではないか、と考えざるを得ない。
(いや、その辺の考察は別の機会にしよう。今は目の前の敵に集中すべきときぞ)
夜空を見上げていたロゼリアは、無理やり視線を地上へと引き戻した。
(いくら月が明るくても、ここからではマッシモ家の部隊がどこにいるのかわからん。逆に言えば敵から見つかる虞も低いわけだが、慎重の上にも慎重を期したいところよ)
夜襲は隠密性こそ命。敵にこちらの存在を知られた瞬間、企みは失敗に終わるのだ。
「レイゼデルはいるか?」
ロゼリアの声を聞きつけて大柄な兵が一人、小走りに寄ってきた。ロゼリアが物見部隊の指揮を任せていたレイゼデル・レモンドだ。彼の部隊は夜襲部隊が地下道から出てくるのに合わせて、脱出路の出口周辺を警戒していたのである。
「ここにおります、ロゼリア様」
駆け寄ってきたレイゼデルは、ロゼリアの前で足を止め、大きく低頭した。しかし、長身のレイゼデルがどれだけ頭を下げようと、小柄なロゼリアを高みから見下ろすことになる。彼は跪こうとしたが、それをロゼリアが止めた。
「よい。危急のときである、畏まるな」
「は」
頭を上げたレイゼデルを見上げ、ロゼリアが問うた。
「周囲に敵兵は?」
「林の中にはおりません。林の外も、見える範囲では敵兵の姿は見当たりません」
「で、あるか。引き続き周囲を探らせよ。敵を近づけるな。もし敵の物見兵が近づいてきた場合は、速やかに排除せよ」
排除――つまり殺せとロゼリアは言っている。まだ九歳の童女が蠅を殺せとでも言うようにその命令を下していることにレイゼデルは驚くが、同時に頼もしさも感じる。
「承知しております」
「コルテらの報告どおりの場所に今も本陣が置かれているか、なんとしても探れ」
この夜襲で狙うのはマシュージ・マッシモの首一つ。もし本陣が移っていたら夜襲の意味がなくなってしまうのだ。ロゼリアとしては、そこがいちばん気になるところだ。
「それも承知でございます」
「行け!」
ロゼリアは走り去っていくレイゼデルを見送ると、別の名前を呼んだ。
「バルガリオ! 今のところ問題はないようだ。予定通り兵を四部隊にまとめよ」
「は。承知いたしました」
「アルルビアンヌ、
「全員、無事に外に出て待機しております」
「ここに集めよ」
アルルビアンヌが小走りに去っていくと、ロゼリアは改めて周囲を見回した。何人かの兵が自分のほうを注視している。あからさまに見てはいないものの、聞き耳を立てている者も多い。彼らの中の一人に目を留めたロゼリアは、身に着けた鎧が大きな音を立てぬようにと注意しながらそちらに歩み寄っていって、ことさら陽気な声で一人の兵に呼びかけた。
「おお、どうした、トマズ、緊張しているのか」
「あ、あの、いえっ」
「落ち着け。まだ戦は始まらん」
「はっ、はいっ」
「ジュードゥー、眠そうな顔をしているな。しゃきっとしろ」
「申し訳ございませんっ」
「グレンガ、おまえは口を閉じよ。阿呆のように口を開けていると、矢が口に飛び込んでくるぞ?」
大あくびをしていたグレンガが慌てて手で口を覆うと、周囲からどっと笑いが上がり、囃す声が湧いた。その場に満ちていた張り詰めた空気が、少し揺るんだ。そんなロゼリアを見守っていた宿老たちは驚きを隠しきれない。緊張している兵を落ち着かせようというロゼリアの気配りに。
(まったく。これではどちらが大人かわからんではないか)
(というか。あんな若造どもの顔と名前を覚えておいでなのか)
ロゼリアの中身を知らない宿老たちは、本当にこれがあのロゼリア様なのかと、奇異の念に打たれていた。もしかしたら当たりを引いたのかもしれない、という思いが宿老たちの心にも湧き始めていた。
周囲にいた兵士たちに頻りと声をかけていたロゼリアだが、一通り声をかけ終えると、侍女のヨナを呼んだ。
「ヨナはおるか」
「はい、ロゼリア様、ここにおります」
「喉が渇いた。水を持て」
「ただ今!」
ヨナが小さな水筒を持ってくるあいだも、ロゼリアは近くにいる若手の隊長格の兵に対して矢継ぎ早に指示を出している。そのとき、レイゼデルが駆け戻ってきた。
抑えた声ながらも、レイゼデルは鋭く叫んだ。
「ロゼリア様! 物見の一隊が敵の本陣を確認してございます。コルテとエーメマインの報告どおり、この林からおよそ半リーガ足らずの丘におりました」
半リーガという距離は実感できなかったが、アルルビアンヌに教わった度量衡のことを思い出し、ロゼリアはおおよその当たりをつけた。
「……ならば、行けそうだな。どうして本陣があるとわかった?」
「背の高い草に紛れて丘に接近できまして、マッシモ家の旗印だけでなく、嫡男マシュージの旗印も確認したそうです。マッシモ家の当主は病気がちであるという話ですから、この軍の総大将はマシュージだと思われます。であれば、本陣に間違いないかと」
「兵数は確認できたか?」
「確実な数はわかりませんが、おそらく四、五百ほどではないかという話であります」
実際にはマシュージが率いている本陣の兵は三百だから、これは過大な数字なのだが、闇に紛れて近づき、敵に見つからないようこっそり観察する、という条件下では仕方のないことだろう。
「五百か。こちらと同数だな。ということは」
(義元の本陣五千を二千で襲ったあの戦に比べれば、どうということはない数よ)
そこで言葉を切ったロゼリアは、わざとらしく周囲を見回し、勿体ぶった態度で声を張り上げた。
「敵本陣を奇襲すれば、こちらの勝利は疑いなしということだ」
抑えた響めきが周囲から漏れた。
「物見の兵に先導させよ。すぐに出る」
言い終わるより早く、ロゼリアが歩き始めた。当然のようにアルルビアンヌやヨナが付き従う。二人ともいつもの侍女服ではなく、戦陣侍女として軽装鎧に身を包んでいた。慌ててバルガリオがあとを追った。
ロゼリアは腹に力を込めて周囲の兵たちに声をかける。
「出るぞ! 者ども、つ従いてこい!」
「おおぉっ!」
兵の低く抑えた声が夜の
「一番隊は儂に続け!」
「ロゼリア様に遅れるな! 二番隊、急げ!」
「三番隊、出撃! 遅れる奴は置いていくぞ!」
「四番隊も急げ急げ! 手柄を立てるなら今夜だぞ!」
ロゼリアは率いてきた奇襲部隊を四隊に分け、その一隊を自らが率いていた。
「この先、言葉は無用ぞ。声を出すな。音を立てるな」
ロゼリアの命令が、さざ波のように後方に伝わっていった。
兵たちもロゼリア本人が陣頭指揮に立つとは夢にも思っていなかったため、その話を聞いたときは誰もが仰天したものだが、こうして戦場に立って、ロゼリア自らが指揮を執っている姿を見ると、
やってやる。
兵数の差など、何ほどのことがあるか。
ロゼリア様に従いていけば、味方の勝利、間違いなし。
それが兵たちの偽らざる気持ちだった。
自分たちの身の安全が第一だと考えていた宿老たちも、少し気が変わってきた。
(こうなったら、やるだけのことをやるしかないか)
(兵たちの士気の高さが予想外だ。これなら、もしかすると……)
宿老たちの本音を見抜いていたロゼリアは、彼らを戦闘部隊の後方に置いておこうと考えていたのだが、今や宿老とその直臣たちの足も自然と前に出ていた。
先頭に立ったロゼリアは、銀に輝く鎧を身に着けたままはや速あし歩で歩いていく。本当なら馬に跨がりたいところだが、脱出路を使った奇襲のため、馬は持ち出せなかった。ロゼリアも含めて、全員が徒歩である。
敵の本陣が置かれていると思われる丘まで半分ほど距離を詰めた辺りで、ロゼリアが行き足を上げた。
(……鎧の重さが気にならなくなった。大昔に尾張の山野を駆け巡っていたときのような不思議な感覚。この身体に儂の心が引きずられておるのか。なんとも若々しい気分であるな)
兵だけでなく、ロゼリアの、いや信長の心も沸き立っていた。義元の本陣をめがけて決死の覚悟で斜面を駆け登っていった、あのときの感覚が蘇る。
血が激しく全身を巡る。恐怖心など何処かへ吹き飛び、血が滾り、心が逸り立つ。
ロゼリアの足はなおも速まっていく。主君に遅れるなとばかりに一番隊の兵が速度を上げる。周囲を進む二番隊、三番隊、四番隊の兵も負けじと駆け出した。
すでに丘はし指こ呼のかん間にある。ロゼリアは腰に吊した剣を抜き放った。切っ先を高く掲げると、月光を受けた白刃が眩く煌めいた。近くで見ていた兵の目には、その姿が勝利の女神に映ったことだろう。
「突撃――っっ! 目指すはマッシモ軍の大将首ぞっっ!」
「うおおおお――――っっっ!!」
ロマネスコ家の夜襲部隊五百は、ロゼリア以下、一丸となって、丘の斜面を駆け上がっていった。
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