第1章 第六天魔幼女、降臨す 2

「これは!?」


 そこに見えたのは、華奢な指と小さな掌。二の腕も、白くて細くて、これでは刀も槍も火縄銃も持てないだろうという弱々しさだった。


「これが儂の手だと? 童女のそれではないか! 面妖どころの話ではない」


 慌ててロゼリアは視線を下に向ける。濡れてはいるが、華やかな紅の裳を纏っている自分の身体が目に入ってきた。


「身体まで童女の……?」


 ロゼリアは寝台の上に、ふらふらと立ち上がる。天地がひっくり返るような驚きと、世界が反転したような強烈な違和感。その反面、これで当然ではないかという安心感もあり、体と心が二つに引き裂かれるような苦痛みに襲われた。


 よろよろと足を踏み出し、ロゼリアは静かに床に降り立った。床には厚手の絨毯が敷かれており、その柔らかな感触が足裏から伝わってくる。ゆっくり顔を巡らせて室内を見渡すと、自分が横たわっていた天蓋付きの寝台、背の高い木製の衣装箪笥に衣装棚、書物で埋まった幅のある背の高い書棚、大きな書き物机に革張りの椅子、人形や玩具が並んでいる飾り棚などが目に留まった。壁には女子じよしの部屋にはあまり相応しくない剣や槍、獣の頭部の剥製なども架けられている。


 壁際に鏡台があるのを認めたロゼリアは足を引きずるようにしてそこまで歩み寄ると、鏡面に自分の姿を映し出した。


「なん……だと!?」


 鏡に映っているのは、ひらひらとした深紅の裳を着込んだ童女の姿だった。己の姿をまじまじと見つめたロゼリアは、というか信長は、常軌を逸した事態に目眩を覚える。急に濡れた衣装の冷たさが実感され、耐えられない不快感に襲われた。肌が冷え切っているのがわかる。


「これ……これが……儂だと?」


 しばし沈思黙考していたロゼリアだが、やがて顔を上げ、徐に身に着けている衣服を脱ぎ始めた。見たことのない衣装だったから脱ぐのに手間取るかと思ったが、案に相違して、迷うことも戸惑うこともなく、すんなりと脱ぐことができた。濡れた冷たい衣装を脱ぎ捨てたことで肌に感じる不快感は薄れた。腰に着けた小さな下帯も脱ぎ捨てると、ロゼリアはもう一度、姿見に向き直った。


 白くて華奢な裸身が鏡に映っている。股間には男なら当然あるべき物がなく、代わりに小さな筋が縦に走っているだけだ。胸は微かに膨らみ、その頂点に載っている乳首も、これまた男子の物ではあり得ない可憐さだった。


「やはり童女だ。どこからどう見ても童女だ。いかなる仕儀でこうなったのか」


 足元の大地が崩れてしまったかのような心許なさ。心身が引き裂かれるような違和感。そして自分の身体が自分の物であるという安堵感。

 鏡の前の全裸のロゼリアは我知らず笑い出していた。


「理由はさっぱりわからぬが、事実は事実。ならば今はこれが儂ということだ」


 自分が置かれた状況に合理的な説明はつけられないが、とりあえず現実は現実として受け容れ、その先へと思考を進める。現実主義者、織田信長の真骨頂である。


 とはいえ、織田信長としての記憶すべてが蘇ったわけではない。記憶のあちこちに、霧がかかって何も見えない箇所があるのが気にはなるが、それより先に追求することがありそうだ。


(ここがどこか。この童女は何者か。今はいつなのか。確認すべきことが幾つもあるが、さて、どのように……)


 そのときロゼリアは何者かの気配を感じ、顔を巡らせて入口のドアを見やった。先ほど逃げ去った侍女の顔が二つ、閉まりきっていないドアの隙間から覗いていた。侍女長とヨナという少女だ。顔を向けたロゼリアと目が合うと、びくり、と侍女長は震えたが、やがて意を決したように主人の名を呼んだ。


「ロ……ロゼリア様」


(そうか。この身体の持ち主は、ろぜりあ、と言うのか)


 ロゼリアは悠揚たる態度で腕組みをすると、侍女長に向かって鷹揚に頷いてみせた。それで侍女長の顔が輝いた。侍女長はにじり寄るようにロゼリアの前まで進み出ると、その場に跪く。そのあとに少し腰の引けた体勢でヨナが続いた。二人とも裾丈が長めの、白黒二色の侍女服を着込んでいる。侍女長は黒っぽい長い髪をひっつめているが、ヨナの方は短めの赤いくせっ毛だった。


「ご無事だったのでございますね、ロゼリア様」


 顔を上げた侍女長の目には涙が浮かんでいたが、彼女は慌てて顔を伏せた。目の前に立つロゼリアが全裸だったからだ。ロゼリアの着替えや入浴をいつも手伝っている侍女長といえど、全裸の主人をそんな角度から見上げたことはない。いくら跪いていようと、鞭で打たれるか革の長靴の爪先で蹴り上げられるかする、不遜で不敬な角度だった。


 しかしロゼリアはまったく意に介さぬように呼びかけてきた。


「かまわぬ。おもて面を上げるがいい」


 その口調と声の響きに侍女長は言いようのない違和感を感じてしまう。しかし、今は大事な主人、ロゼリアが死んではいなかったことに対する喜びのほうが大きい。彼女はいったんこうべを垂れ、はい、と返事をしてから顔を上げた。なるべく身体を見ないように視線をロゼリアの顔に向ける。すると、自分を見下ろしているロゼリアと目が合った。その瞬間、侍女長の身体に痺れに似た衝撃が走った。


(こ、これは!)


 彼女の瞳に宿った強烈な光に射られ、侍女長は金縛りに遭ったかのように固まった。たしかにロゼリアは聡明でよくできた子だったが、いつも側に侍っていた侍女長でも、このような迫力を主人から感じたことはない。


(これが……ロゼリア様? このお方は本当にロゼリア様なのか? まるで何度も死線をかいくぐった歴戦のつわもの兵のような)


 侍女長の印象は、まさに正鵠せいこくを射ていた。何しろこのロゼリア、外見はロゼリアその人だが、中身は別人である。その中に存在するのは、天下人、織田信長なのだ。


「おぬし、名はなんという?」


 質問に面食らった侍女長だが、ロゼリアの表情は真剣そのものだ。戯れや、、、、からかいの言葉ではなさそうだ。


(もしかするとロゼリア様は、記憶にご障害が?)


 ずっと高熱にうなされていたロゼリア様だ、そのようなこともあるのかもしれない。そう思った侍女長は恭しく頭を下げた。


「わたくし、貴方様の侍女長を務めるアルルビアンヌと申す者でございます。貴方様は、いつもアルルと呼んでくださいました」


「あるるびあんぬ……あるる……アルルか」


 初めて聞く名だが、耳に覚えのある名でもあった。


「では、儂の名は?」


「あ? はい?」


 アルルビアンヌは思わず顔を上げ、困惑の表情でロゼリアの顔を見つめた。


「聞こえなかったか? 儂の名を正確に教えよ」


 奇妙な命令にアルルビアンヌは不可解さを覚えたものの、やはりロゼリア様は記憶に障害が起きてらっしゃるようだと自らを納得させ、素直に主人の問いかけに答えた。


「貴方様のご尊名は、ロゼリア・ロマネスコ。ロマネスコ家の跡を継ぐべきお方でございます」


「ふむ。で、あるか」


(ろぜりあ……ろぜりあ……ロマネスコ家のロゼリアか。なるほど、姓より名が先なのだな。たしかに伴天連共もそうであったか。そして主人の名も平気で呼ぶのだな)


 アルルビアンヌが口にした名前が、ロゼリアには実にしっくりときた。ならば、この身体の持ち主は、その名で間違いがないということだろう。


(つまり儂は、いや儂の魂は、あのときの衝撃で儂の身体を飛び出し、このロゼリアというおな女ご子の体に飛び込んだ……ということか? 魂などというものは、坊主どもが言う方便にすぎぬと思っておったが)


 仮に魂の存在を認めるとしても、まだ大きな疑問が残っている。ここはどこで、どうして自分の魂はこの童女の身体に飛び込んだのか、ということだ。そこでロゼリアは、侍女長に重ねて訊いた。


「ここはどこだ? 儂は、ロゼリアはどうなっていたのだ?」


「……ここはホーフェンノールこ古おう王こく国ローダネルス州ロマネリア地方にある、領主ルクルセギア・ロマネスコ子爵様のお屋敷にございます」


 ホーフェンノール古王国もローダネルス州もロマネリア地方も初めて聞く名称だが、ロゼリアには何故かしっくりときた。「ししゃく」という呼び方が意味するものはよくわからないが、慣れ親しんだ感覚があるから、それほど気にしなくてもいいだろう。


(おそらく官爵の類いであろう。なるほど、器となったこの女子の知識、記憶というものが儂に影響しているのだな。何かもっと具体的な知識、情報はないものか)


 信長はロゼリアの記憶、知識をまさぐってみるが、曖昧模糊としていて、はっきりとした記憶を拾い上げることはできなかった。できなかったが、それでもここが自分のいた日本とは縁もゆかりもない場所だと推測することはできた。ただ、さすがに異世界まで飛んできたとは思っていない。


(詳細はわからぬが、とりあえず確認しておくべきことがある)


「アルルよ、儂に、ロゼリアに何か異変があったのではないか?」


 侍女長は伏し目がちになって黙り込んだ。答えるのを戸惑っているのかもしれない。ロゼリアは、躊躇う彼女を促した。


「かまわん。言うてみよ」

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