第1章 第六天魔幼女、降臨す 1

 1


 王国歴で言えば三百四十二年。星歴せいれきで言えば「あお魚座うおざの三十五年」の春五月のことである。


 ロゼリア・ロマネスコは病で死んだ。


 心臓の鼓動が止まり、息が絶え、瞳孔も開いた。治療に当たっていた医士も魔法士も、付き添っていた母親もそれを確認した。だから彼女は死んだのだ。間違いなく、確実に。突然ではあったが。理不尽でもあったが。死んだのだ。まだ十歳にもならないというのに天に召されたのだ。

 ロゼリアの寝室に悲痛な空気が満ち満ちた。


「ご臨終です」


 医士の口から発せられた厳かにして冷酷な宣告が、冷え切った室内の空気をなおいっそう冷たくする。寝台脇に立っていた美麗ななが長も裳を着た女性、ロゼリアの母親が絶叫を放ち、寝台の上に横たわる少女の亡骸に覆い被さるようにすがりついた。

 静まりかえった室内に母親の慟哭が響き、居並ぶ者たちの目にも涙が浮いた。


 ロゼリアはロマネリア地方に根を張るロマネスコ本家の長女で、すこぶる健康な女子だった。加えて利発聡明で覇気があり、人望もあった。当主であり父であるルクルセギア・ロマネスコ子爵は、早いうちから、この娘を後継者にと考えていた。けれど風邪を引いたロゼリアは肺炎を引き起こし、あっという間に重篤に陥ってしまった。しかも、ルクルセギア・ロマネスコが軍事遠征で館を留守にしているときに。あまりに急なことだったから、病状悪化を報せるため送り出された使者は、まだルクルセギアの陣営まで到着していないだろう。


 ロゼリア自身も両親も、彼女の健康を過信していたのかもしれない。たかが風邪だと侮っていたのかもしれない。しかし、風邪が悪化して命を落とすことは、医療技術が未発達で医療知識が未成熟なこの世界ではよくあることだった。数多の例と同じく、医士や家臣の看病のかいもなく、肺炎をこじらせたロゼリアは今、息を引き取ったのである。あまりにも呆気ない最期だった。

 それなのに。


 2


 ロゼリア・ロマネスコが息を引き取ってから数時間が経ち、日付も変わって深夜になった。


 彼女の私室の寝台の上には、氷室から運び出された氷塊が幾つも置かれていて、溶けた氷が寝具を濡らしていた。裕福な貴族の家ならではの光景である。春から初夏へ季節が移ろう頃のことだ、遺体が傷むのを避けるため、すぐに葬儀が執り行われるのが普通だったが、ロマネスコ家の息女ともなると所領内から訪れる弔問客も多くなる。加えて今は肝心の当主が軍事遠征で館を留守にしている。当主の帰還を待つ必要があったし、葬儀も大がかりなものになる。ある程度の準備期間がどうしても必要だった。だから、こうして氷で冷やして腐敗の進行を遅らせようとしているのだ。


 とはいえ、氷室に蓄えておいた氷だけでは限界がある。娘の傷んだ遺体など見たくないから、ルクルセギアの妻は急使を仕立て、夫にできるだけ急いで戻るようにと伝えさせることにした。ただ、どれほど急いだとしても、ルクルセギアの帰還は早くて翌日、順当なら二日後か三日後になるだろう。当主が不在のまま葬儀を行うことなどできないから、それまでは遺体をロゼリアの寝室に安置して、こうやって氷で冷やしておくしかなかったのである。


 寝室にはロゼリアの侍女が五人、残っていた。五人とも最初の雇い主はロマネスコ家の当主であったが、ロゼリアが六歳の誕生日を迎えたときに、雇用主は当主からロゼリア自身へと移っていた。今では名実ともにロゼリアの家臣という位置づけだった。


 五人がロゼリアの寝室にいるのは、死者が安らかにか彼の地へ旅立つのを助け、見届けるために、である。誰も見ていないと、寂しく思った死者が現世を離れるのを嫌がる。下手をすると現世に留まり、生者に悪さをする。迷信深いこの地の人々は、そう思っている。だから見張りの人々は、死者が寂しがらないように歌を歌ったり楽器を奏でたりするのが常だった。


 今も五人の侍女は、鼓を叩き、笛を吹き、弦を鳴らし、歌を歌っている。これを夜通し行うのだから、彼女たちも大変だ。おまけに、どれほど見事な演奏を行ったところで、それを聴いているのは死者だけ。誰も聴いていないのも同然だから、なんとも張り合いのないことではある。案の定、侍女の一人が早くも弱音をは吐いた。


「これを朝まで続けるの~? こっちが死にそう」


 即座に侍女長が鋭く窘めた。彼女はロゼリアが生まれたときから仕えていたから、ロゼリアへの忠信と哀悼は一廉ひとかど以上のものがある。


「ヨナ! いいから黙って演奏しなさい。無駄口を叩いていると、ロゼリア様が戻ってきてしまわれます。そんなことになれば、あなたが真っ先に食べられますよ?」


「やっ、やってます~。手を休めてはいません~」


 ヨナと呼ばれた若い侍女は首をすくめ、今まで以上に演奏に熱を込めた。ヨナも他の侍女も、自分たちの主人であるロゼリアを安らかに送ってやりたいという思いは共通だ。五人の侍女は熱心に演奏を続けた。



 3


 突然、深夜に館が揺れた。とはいえ、身動みじろぎもせずに神経を研ぎ澄ませていない限り気づかないような微かな揺れだったため、遺体の傍らで楽器を演奏している侍女たちの中に気づく者はいなかった。それなのに寝台の上に横たわっているロゼリアの遺体は、はっきりと揺れた。館の揺れに比して不自然なほど大きな揺れだった。


 直後にロゼリアの遺体が口を開けた。開いた口から、かひゅっ、という微かな呼気が漏れた。指先が痙攣するように、ぴくり、と動いた。ささやかな胸が小さく上下に波打った。瞼がうっすらと開けられた。

 その異変に最初に気づいたのはヨナだった。


「ひっっ!?」


 先ほど侍女長に言われた言葉――ロゼリア様が戻ってきたら、あなたは真っ先に食べられてしまいますよ――を思い出したヨナが、思わず演奏の手を止めてロゼリアの遺体を凝視すると……遺体が瞬きをしていた。


「うっそっっ!?」


「ヨナ! 手を休めるなと!」


「じっ侍女長あれ! あれあれあれっ!」


 侍女長以下の四人が、ヨナが震える指で指し示す方向に目を向けると、突然、むくりとロゼリアが上体を起こした。


「いひぃっっ!?」


「おっ起きたっっ!」


「ロゼリア様がっっ!?」


 上体を起こしたロゼリア(の遺体)が、ゆっくりと首を巡らせた。


「ロっ、ロゼリア様が戻ってこられたぁぁ!」


「食べられるっっ! 食べられちゃうっっ!」


 気が動転した四人の侍女は、絶叫を上げ、手にした楽器を放り出し、脱兎の如く寝室から走り出ていった。いつもなら部下を叱りつける侍女長も、転がるように四人を追いかけて走った。


 4


「なんだ今のは。騒々しい奴らめ」


 まだ脳内に響いている悲鳴を振り払うように軽く頭を振った後、ロゼリアはゆっくり室内を見回した。部屋全体に霞がかかっているように視界が薄ぼんやりと煙っている。


「この見え方は……何か馴染んでいない感じだな。いや、そもそも……」


 ロゼリアは得体の知れない不快感と、言いようのない不安感に襲われた。

 自分が自分でないような不安定な感覚。自身の中に他人がいるような違和感。というより、自分が他人の中にいるような違和感か。これまで経験したことのないチグハグな感じが身にまとわりついて離れない。自分の身に何かとんでもないことが起きているのではないかという怖れが心と身体を締め付ける。


 ロゼリアは気を静めるようにもう一度、深呼吸をし、何度も瞬いた。霞がかかったようにぼやけていた視界は鮮明になり、そこにある物がはっきりとした像を結んだ。だが、記憶の端々は未だ靄がかかったように不鮮明のままだ。それでも彼女は、自分が何者であるかを思い出していた。


「……見たことのない装飾だ。壁や天井の作りも初めて見る物だが……」


 ロゼリアはそう呟いたのだが、一方で、いつもの見慣れた光景だという感覚もあった。なんとも言いようのない矛盾と不可解さが彼女を苛立たせる。


「どういうことだ。まるで我が家にいるようなこの懐かしい感覚は。このような部屋、このような装飾、見たことはないぞ。お尾わり張でもみ美の濃でも、みやこ京ですら見たことなどない。まさか、どこぞの南蛮屋敷にいるのか……いや、待て! そもそも儂は本能寺ほんのうじに……」


 不鮮明ながら、ロゼリアの脳裏にあのときの光景が浮かび上がった。

 本能寺に突入してきた兵たちが背負った水色桔梗みずいろききようの旗印。彼らと戦い、倒れていく供回り。燃え上がる伽藍がらん。そして火は本能寺全体に燃え広がり。運び入れておいた硝薬に火が回り。轟音が寺内の空気を震わせ、閃光が目を灼いた。燃えていた本能寺の建物は爆発の衝撃で吹き飛び、粉々に砕けた。


 ロゼリアは思わず顔を両手で覆って上体を前に傾がせた。

 轟音と共にすべてが赤く染まり、そしてすべてが闇に閉ざされる死の感触。それはてん天か下びと人、お織だ田のぶ信なが長の記憶だ。であれば、このロゼリアは。


(そうだ。儂は惟任日向これとうひゆうがかえちゆうによって本能寺で木っ端微塵になったはずよ。それなのに、今こうして見知らぬ屋敷の寝台の上にいる。なんと面妖な)


 ロゼリアは自分が何者なのかということを思い出すと同時に、自分が死んだということもまざまざと思い出していた。織田信長は、謀反を起こした明智光秀あけちみつひでの手勢に襲われ、本能寺で爆死したのだ。したはずだった。


(儂は死んでいなかったのか? 怪我をして動けぬところを、誰かに救われたのか? そして、どこぞにある、この南蛮屋敷に運び込まれたのか? それにしては……)


 ロゼリアは顔を覆った両手をゆるゆると離し、眼前に掲げた。


「これは!?」


 そこに見えたのは、華奢な指と小さな掌。二の腕も、白くて細くて、これでは刀も槍も火縄銃も持てないだろうという弱々しさだった。


「これが儂の手だと? 童女のそれではないか! 面妖どころの話ではない」


 慌ててロゼリアは視線を下に向ける。濡れてはいるが、華やかな紅の裳を纏っている自分の身体が目に入ってきた。


「身体まで童女の……?」


 ロゼリアは寝台の上に、ふらふらと立ち上がる。天地がひっくり返るような驚きと、世界が反転したような強烈な違和感。その反面、これで当然ではないかという安心感もあり、体と心が二つに引き裂かれるような苦痛みに襲われた。


 よろよろと足を踏み出し、ロゼリアは静かに床に降り立った。床には厚手の絨毯が敷かれており、その柔らかな感触が足裏から伝わってくる。ゆっくり顔を巡らせて室内を見渡すと、自分が横たわっていた天蓋付きの寝台、背の高い木製の衣装箪笥に衣装棚、書物で埋まった幅のある背の高い書棚、大きな書き物机に革張りの椅子、人形や玩具が並んでいる飾り棚などが目に留まった。壁にはじよ女し子の部屋にはあまり相応しくない剣や槍、獣の頭部の剥製なども架けられている。


 壁際に鏡台があるのを認めたロゼリアは足を引きずるようにしてそこまで歩み寄ると、鏡面に自分の姿を映し出した。

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