めぎつね

きさまる

めぎつね

 神楽(@small_redbird)様の後押しによってこの作品を書き上げる事が出来ました。

 感謝を捧げます。


*****



「きさま、讒言ざんげん天皇みかどたぶらかしおって! 裏切る気か!?」


「裏切りなんてしてないわ。私は最初から貴方の味方じゃないもの」


「くっ……この女狐めが!」


「心配しないで。貴方の子供達もしっかり流罪にして処分しておくから。じゃあ太宰府でせいぜい頑張ってね」


 そう言った女の顔を、男は悔しさに唇を噛みながら睨みつける。

 長くこの国のまつりごとの中心に居た目の前の男。

 彼は、噛んだその口の端から血をにじませながら廊下を歩いて去っていった。

 女は小さく呟く。さようなら、二度と朝廷に戻れないようにしておいてあげる。




 どれだけ善政を敷いたとしても、全ての人が満足するまつりごとなど有りはしない。

 不満を持つ者は必ず居るのだ。

 彼はあまりにも長く“天皇ちから”のそばに居過ぎた。

 彼の後釜を狙う連中から、どれほど恨みを集めていたか。

 あの男は知りもしなかっただろう。


 女は、遠ざかる男に興味を全く見せずに振り返る。

 そして考えながら歩く。自分の部屋に向かって。

 新たに政治まつりごとを行う連中にも、この男を讒言ざんげんで追い落とした、という負い目を利用して操らせてもらおう、と。

 女は先ほどの男の悔しげな顔を思い出し、自然と笑みが浮かぶ。

 その笑顔のまま、自分の房に戻って行った。




「今日もあのは、ちゃんと来てる?」


「はい、裏に待たせております」


 房に控えていた侍女が、女の問いに応える。

 しかしすぐ、わずかに渋い表情を作って女に続ける。


「いつもの事とはいえ、あのようないやしい身分に身をやつして外を出歩くなど──」


 この侍女は、元々は取り潰された元貴族の娘。

 それが身分を偽り朝廷内部に入り込み、女の為に働くようになった。

 朝廷への恨みから、全てを滅茶苦茶にしてやりたいと気持ちをこじらせている。

 だが目的を遂げる為にはなりふり構わず何でも、という覚悟までは持っていないようだ。


「それ以上の言葉はおめなさい。明日を無事に迎えたいのならね」


「……! 差し出がましいことを申し上げました。お許しを」


 侍女とのそんなやり取りをしながら、彼女は無意識に思案する。

 『眷族』として“お母さま”に差し出すには、まだ時期尚早なようね、と。


 その言葉を最後に二人は建物の裏手に向かう。

 人目の付きにくい場所で、行商人の娘が隠れるように待っていた。

 娘は二人を認めると、弾かれた様に姿勢を正してから頭を垂れる。

 合流した三人は、目立たぬ場所に建つ物置に入った。


 しばらくしてから、行商人の娘の衣服に身を包んだ女と、女が着ていた重たい着物を身にまとった行商人の娘が出てくる。

 女は侍女と行商人の娘に言った。


「ではいつもの通りに」


 女は、そのままひっそりと気配を感じさせずに屋敷を出る。

 彼女の身代わりとなる行商人の娘も、侍女に助けられながら女の房へ戻っていった。

 重い着物を引きるように。



*****



 女はみやこの中を西へ西へと歩いていく。

 少しずつ町並みはみすぼらしくなって、出歩く人間も身なりが悪くなっていく。

 やがて貧民窟まで来ると、とある裏通りにふいっと入り込んだ。



 その貧民窟の中の小さな広場。そこに女はたたずんでいる。

 不思議なことに、ガラの悪そうな男が何人も通り過ぎるが、誰も彼女に目もくれない。

 それどころか、自ら目を逸らしてさえいる。

 捕食者から逃れる小動物のように。


 やがて女の元へ、せむしの老婆が現れた。

 その姿は背中に大きなこぶを背負っているかのようだ。

 老婆は女に目を合わせることなく尋ねる。


「首尾は?」


「ようやく奴を大宰府に追い出せたわ。長くかかったけどね」


時間ときは、時間だけは常に我らの味方だ。どれだけ敵が多かろうともな」


「そうね。では、いつも通り“お母さま”への報告はよろしく」


心得こころえておる」


 それだけ話すと、二人はそのまま最後まで目を合わせることの無いまま二手に分かれる。

 しばらく女はその後、貧民窟を退屈そうに彷徨さまよった。

 やがて中心部へ、朝廷近くの自分の住まう屋敷のある場所へ戻り始める。

 しかし貧民窟を抜け、もうすぐ貴族たちが住む地域に差し掛かったあたりで。


「……まだ戻るには少々早いかしらね。本当に息抜きさせてもらおうかしら」


 誰が聞くともなくそう呟いて、自分の住む屋敷の方角に背を向ける。

 もちろん、検非違使けびいし見咎みとがめられるようなヘマはしない。

 彼女はそのまま別方向に目的もなく歩き出した。

 それは、偶然だったのか必然だったのか。



*****



 いつしか彼女の耳に届けられていた『音』。

 もしかしたら散策を楽しむ気になったのは、この『音』がかすかに聞こえていたからかもしれない。

 いつの間にか散策よりも『音』の出所が気になり、あちこちを見て回っていた女。

 気が付けば、吸い寄せられるように導かれるようにそこへ足が向いていた。


 そこはとある廃嫡された貴族が住んでいた、元屋敷の廃屋はいおく

 『音』は、笛のは、その廃屋敷の庭から聞こえていた。

 気が付けば周囲は黄昏たそがれて薄暗くなっている。

 だがそれを気にすることもなく、女は屋敷の庭に入り込んでいった。



 明かりの無い夕暮れは、ほぼ闇と同義だ。

 常人ならばその場の様子は分かりもしなかっただろう。

 ただすみを流したように塗りつぶされた、岩や草木の影絵しか見えなかったに違いない。

 しかし夜目が効く彼女にはその場の光景が見えていた。


 その庭には大きなこけした岩が鎮座している。

 いやそれは岩ではない。大きな石仏の頭だった。

 それが、石仏の頭だけが、上下をひっくり返された状態で庭に据え付けられていたのだ。

 この貴族が永遠に栄えることのないように、との朝廷からの呪詛だ。

 そしてその上に座っている人影がひとり。


 その人影が、女に気が付いたのか身じろぎする。

 するとそれまで聞こえていた笛の音がぴたりと止まった。

 どうやらこの人影が、笛の音の出どころらしい。

 だが女には笛の音の主が判明した喜びよりも、音色ねいろが止まった落胆がまさった。


「そこにられるお方はどなたですかな?」


 女にかけられる声。低い声音で男だと分かる。

 もっともその前から、女には座る人影が男だと判別がついていたのだが。

 だが気配を絶って近づいたつもりだったので、向こうから声をかけてこられるとは思っていなかった。

 まさか、人間ごときに気取けどられるとは。

 予想外の出来事に思わず硬直してしまい、その場に立ちすくむ女。

 だがそれも束の間、意を決して女は人影に話しかける。


「近くを歩いていたら素敵な笛の音が聞こえてきました。なので、思わずここへ入り込んでしまいましたの」


 言ってから女は、自らの愚かさに後悔した。

 こんな時刻に表を出歩く女性にょしょうが何処にいるというのか。


「そうですか。しかしこの辺りは人ならざる者が出ると言われております。早くお帰りになられたほうが良いでしょう」


 人ならざる者。その言葉を聞いた瞬間、女は胸に大鐘おおがねが鳴ったような気がした。

 もしかして目の前の男もまた、その『人ならざる者』なのではないかと反射的に思ったからだ。


──“お母さま”の天敵の天狗!?


 だがそんな事はありえない。女はかぶりを振った。

 そして男に笛の演奏への賛辞を伝える。


「とても美しい笛の音色でしたわ。まるで心が洗われるような気持になりそうな」


「……心が洗われる?」


 男から戸惑いの気配が漏れる。

 てっきり喜んでくれるものだとばかり思っていた女は、またも面食らってしまった。

 演奏への賛辞は、心の底から感じたものを贈ったつもりだっのたが。

 しかし女のそんな思いをよそに、男は考え事を始めていた。


「そうですか、心が洗われる……。貴女が」


 なにやら思うところがありそうな独り言をつぶやく男。

 その言葉に女は食いついた。

 何故か、その場を立ち去りがたい自らの想いに気が付かぬまま。

 心のどこかで、この場にとどまる理由が出来たと喜んでいることにも。


「どうかなさったのですか? 貴方様の笛の音に私がそのような所感をいだいた事が何かお気にさわったのでしょうか」


「いえ、心が洗われたような気持になれた、ならば良いのです。特に他意はありませんよ、


「……! なぜそれを!?」


 いつしか陽の光は完全に無くなり、辺りには月の明かりが差していた。

 それは石仏の頭の上に座る男の元にも。

 女はその時ようやく気が付く。


 めしいているのだ、この男の眼は。


 男は、どこを見るわけでもない、焦点の合わぬ光の無い瞳を茫洋ぼうようと彷徨わせている。

 だがそれに気付いても、女は異物を拒絶するような嫌悪感は持たなかった。

 何故なら──。


 やがて男は女に躊躇ためらいがちに告げた。


「今の今まで吹いていたのは、魔をはらい魔を浄化するです。貴女はどうやら、完全には魔に染まり切っていないようだ」



*****



 彼女は、『元』はとある農村に住まうしがない貧乏な娘だった。

 朝廷に献上する税と村のおさに取られる『税』とで、いつも死ぬか生きるかギリギリの生活を送っていた。


 彼女は、腹を空かせた小さな弟妹を抱えながら両親の農作業を手伝い、いつも思っていた。

 なぜいつも自分達は、自分は、こんな苦しい生活をしなければならないのだろう、と。

 その疑問を両親にぶつけた事もあった。

 だが痩せこけた二人は、死んだ魚のような目をして首を横に振るばかり。



 ある日、その彼女の村が武装した男達に襲われた。

 彼女も長い年月を経た後でようやく分かった事だが、どうやら朝廷に敵対する勢力のしわざらしかった。

 朝廷の力を少しでも削ぎたいが故の行動だったのだろう。


 田畑を焼かれ、村の男達は全て殺され、大人の女と農作物は、全て連れ去られ持ち去られた。

 残された彼女を含む生き残った子供達は、呆然と立ち尽くす。

 意地悪な村の長やその取り巻きがあっさりと死んだ事にも、喝采かっさいを送る気持ちが起きない。

 これからどうやって生きていけば良いのだろう、という考えで頭が埋め尽くされていた。


 誰が決めた訳でもなく子供達は、いつも税を取り立てにくる朝廷の役人がやって来る道を歩き始める。

 ここから外の人間がやって来るのだ。

 たぶん他の人と出会えるだろう。



 みやこへ辿り着くまでに、飢えと疲れで彼女以外の子供は全員死んだ。

 そして都に来てからも彼女が底辺の暮らしなのは変わらなかった。

 人を出し抜く知恵も力も知識も無い彼女が、路地の片隅で行き倒れるのは当然の帰結。


 そんな彼女の人間としての最後の記憶。

 それは、通りかがかった貴族の牛車ぎっしゃ御者ぎょしゃに牛の糞尿をかけられた事。

 そして彼女を見る御者の、嫌悪に満ちた表情だけ。

 誰にも知られる事なく死んでいく彼女の脳裏に浮かんだ最後の思考。


──なぜ自分はこんな苦しい生活をしなければならなかったのだろう。




『ねえ貴女あなた、もっと楽しい生き方が出来る“ちから”が欲しくはないかしら?』


 そんな彼女に語りかける声。いや、それは声では無かった。

 彼女の耳元にではない。頭の中に直接届いた訳ですらない。

 彼女の魂そのものに干渉してくる“意思”。


『貴女が望むなら、誰にも負けない“ちから”をあげるわ。意地悪な村の長も役人も糞尿をかけたあの男も青ざめてひれ伏すような“ちから”をね』


『だれ……?』


『貴女のような人間を探している者よ。私の“子供”になってくれたら、その“ちから”をあげる』


『ほしい……』


『良いね。私は人間から玉藻前たまものまえと呼ばれているわ』


『タマモノマエ……』


 こうして彼女は大妖「玉藻前」の眷族として、再び生を受けて蘇った。

 九尾の狐として。

 このクニを混乱させ、“お母さま”である玉藻前がクニを手に入れる為の手先として。


 手に入れた“ちから”を存分に振るって、彼女は人間達を恐怖に陥れた。

 変化へんげの能力で人々を驚かせ、立ち向かってくる相手には炎や風を起こして身の程を分からせてやった。

 気の向くままに人を食い殺しむさぼり喰らった。

 しかしすぐにそれにも飽きる。


 やがて彼女は、妖怪としての能力をあまり使わなくなった。

 そして人心を操って動かす事に、面白さを感じ始める。

 言葉ひとつで人間が右往左往したり、絶望の淵に追いやられて命を絶つ様が愉快だった。

 そんな彼女を“お母さま”はことほか気に入り、他の九尾の狐よりも強い“ちから”を彼女に与えた。


 長年に渡り彼女は権力の中枢に入り込み、このクニに混乱をもたらしてきた。

 海を越えた向こうの土地に、兵を送らせた事もあった。“お母さま”のたっての願いで。

 自分を追い出した人間共に目にモノを見せてやりたい、と言っていた。

 “お母さま”はその海を越えた土地に、「大陸」に居たらしい。

 だが、人間から討伐を何度も受けてこのクニに逃れたそうだ。


 しかしこのクニが肩入れをし、出兵していた先の大陸の国がいくさに敗れてしまう。

 逆にこのクニが攻められて滅ぼされる危険が出てきて、権力者達は大いに怯えた。

 その後、大陸の情勢は混乱。

 それにより、どの国も他国に攻め入るどころか守りに入らざるを得なくなった。

 そうした事柄が重なり、幸運にも亡国の危機は何とか逃れた。

 この結果に“お母さま”は、さすがに残念そうな顔をした。

 だがその時の権力者達の狼狽ぶりを、楽しげに眺めて気をまぎらせたようだった。




 そんな権謀術数のかぎりに人々をおとしいれてきた彼女だったが、やがて気付くことになる。

 どこか自分の心が完全には満たされない事に。

 恐怖・絶望・苦しみ……人間のそういった感情を眺めていても、楽しいのは一瞬だけ。

 いつしか彼女は、満たされぬ心を抱えて空虚な日々を送るようになっていた。


 そんなある日のこと。

 そう、それは彼女が笛吹き男と出会う、ほんの数日前のこと。

 いつものように“お母さま”への報告に、貧民窟へ出かけた帰り道。

 建物の陰に隠れるようにうずくまりながら、彼女を見つめる人影に気がついた。


 それは痩せこけた小さな姉弟。

 姉が弟をかばうようにしている。


 ほんの気まぐれだった。

 彼女はたまたま持っていた柿をひとつ、何の気なしにその姉弟に投げ与えた。

 無意識に期待していたのは、二人の醜い奪い合い。

 だが彼女の予想は外れる。


 受け取った柿の実を、姉は弟にそのまま渡した。

 弟は、半分ほど食べると姉に返す。

 お互いが相手の事を考えながら分け合っているその食べ方。

 その光景に衝撃を受ける彼女。

 そして同時に、その二人の行為を見た彼女の胸の内に去来きょらいした何か。

 その何かは、彼女の気持ちの満たされなかった部分を少し埋めた気がした。



 このことは、何故か“お母さま”に報告する気になれなかった。



*****



「なるほど、その先日の気まぐれが貴女の心に光をともしてしまった……という事ですね」


 女は、気付けば男にみずからの生い立ちを語ってしまっていた。

 それを聞いた笛吹き男の感想。

 女はその言葉に、何故かまたも胸の大鐘が鳴らされるのを感じた。

 ただし、先ほどとは全く違う理由で。


「大した事をしたわけではないですわ」


 思わずそう返す女。

 胸の大鐘の鳴る間隔が速い。

 しかし男は、事も無げに女の言葉をやんわりと否定。


「しかし私の笛の音を、祓魔の笛を、避けるどころか魅了されて引き寄せられるぐらいには、貴女の心は変化した」


 彼女は常日頃からので、反射的にもっともらしい事を言いかける。

 だがこの盲人の男の光うつさぬ瞳には、何故か心の奥底まで見抜かれそうな気がした。

 すぐに諦めて、本当の気持ちを見つめながら呟く。


「私があの者達に施しを行ったのは、二人が柿を奪い合う姿を見たいという醜い思いからがゆえ。……その音色ねいろを聞いていると、私の胸のうつろなところが埋まっていくかのよう。それは本当に魔の者がいとう旋律なのですか?」


「間違いありません。だから自分も驚いたのですよ」


「私も驚きました。私の正体を知ってもなお、動じず平静を保ったまま相対できる人間がいたとは」


「自分はご覧の通り笛を吹くしか能の無い、まともに自分で動けぬ、しがないですから」


「ご謙遜を。たとえめしいていても、あのような美しい音色を奏でられる御方が只者であるはずがございません」


 そう言いながら彼女は、『生前』の記憶を掘り起こす。

 貧民窟には醜い奇形のものも数多かった。

 それゆえに目が見えない程度など、忌避する条件にすら入らない。

 だからこれは、彼女の心からの言葉。

 だが、またも男から予想外の言葉が投げかけられる。


「貴女の声も美しい」


「え?」


「人間は、その殆どを目に頼っております。だから見た目を飾る。人間をたぶらかす魔の者の多くも。しかし声や音にまで気を遣う者は、私は今まで見たことがありません」


「なにを……」


「私が平静でいられたのは、貴女の声と胸の鼓動がとても美しかったからです。少なくとも、私の笛を聞いてくれている間は」


 “お母さま”の眷族として生まれ変わってから今までで、こんな男は初めてだった。

 彼女の見た目の美しさを褒め称える人間は数限りなく存在した。

 だが声を、胸の鼓動を、そんな風に褒められたことなど無かった。

 女は九尾の狐となってから、ここまで狼狽したことはなかったと後から思うぐらい慌てる。

 顔がなぜか熱かった。

 それははたから見る者があれば、まるで……。



 まるで恋をする生娘きむすめのようだと評される振る舞いだった。



*****



「今日もお出になられるのですか?」


「もちろんよ」


 侍女の問いかけに即答する女。

 だが侍女は顔を不満げに歪めて、呟くようにこぼす。


「ようやくあの男を太宰府に追いやれたのに。何故なにゆえに先日の落雷を『あの男の怨念の仕業』などと言ったのですか。しかもその怨念を慰撫いぶする為にとやしろまで作られるよう進言して……」


 と、数日前の朝議の場に落ちた落雷の事故を利用した、そんな女への不満。

 しかしそれを予想していた女は、ぴしゃりと侍女に言い放つ。


「お黙りなさい。いつか其方に言ったことがありましたね。時間ときは、時間だけは我々の味方だと」


「はい……」


「でもね、それは時間以外に我々の味方はいないという事でもあるの。あの男を太宰府へ追いやるのに少し無理をしたわ。一度、人々に安寧あんねいを与えて立て直しをはからないと」


下賤げせんな者達へのほどこしを始めたのも、そのひとつという訳ですか」


 女の肝煎きもいりで始めた、貧民窟の人々への炊き出し。

 聞けばお陰で治安も少し良くなったらしい。


 衣食足りて礼節を知るとは“お母さま”の言葉だったか。

 裏を返せば、国を乱すためにはずそこから突けば良い。

 しかし目の前の侍女には、そんな事はまだ分かるまい。

 だが女はやや皮肉げに顔を歪めて笑い、侍女に答える。


「そうよ。だってかつて“お母さま”は、人間への復讐心ばかりをいて失敗したわ。だから人間達から討伐を受けて、この地へ逃げざるを得なかった。我々は同じてつを踏むわけにはいかないのよ。それに……」


「それに?」


 侍女の相槌に、黒々くろぐろとした表情で笑みを浮かべて答える女。

 それは、思わず侍女も震え上がって問いかけを後悔するほどに。


「幸福を与えてから絶望の底に叩き落とした方が、人々はより強く苦しみを感じるものよ」


「……! そこまで先の事をお考えであったとは。愚昧ぐまいなる我が身をお許しください」


 そう言って恥入る侍女。

 だが女は、普段の習い性がこんな場面で役立った、という事に内心複雑な思いだった。

 己の本当の気持ちを隠す習い性を。


 何故なら侍女の指摘した行為はただ、女の胸の中のうつろさを埋めたいが為の行いだったから。





「どうやら別の九尾の狐こどもが、我等の手先になる人間を手に入れたようだ。渡来の民だが近々に顔を合わせる機会があるやもしれん」


 ある日、せむしの老婆はそう彼女に伝える。


 渡来の民。

 遥か昔にこのクニが肩入れして、結局負けてしまった大陸の国。

 その事で祖国を失い、逃げて海を渡りこの地に移り住んだ人々。

 だがここまで逃げる力があったという事は、それだけ上層の人間だという事。

 このクニに様々な知識や技術をもたらし、それと引き換えに居場所を得た人々。


 地を這う下々の人間達はただ蹂躙されるだけ。

 人間だった頃の彼女のように。

 だが彼女は、ただ老婆の言葉にうなずくのみ。


「どうやら奴等、いまだに祖国復興の想いを捨て去っておらなんだらしい。父祖伝来よりの呪詛悲願を延々と受け継いで、ご苦労な事よ」


 それを聞いて、遥かな昔の怨念に縛られた彼等に内心わずかな憐憫れんびんを感じる女。

 その者達の眼には、目前の現世うつしよのことなど目に入っていないだろう。

 しかし相変わらず本心をおくびにも出さず、女は老婆に答える。


「分かったわ。せいぜいその想いを利用して使い潰してあげましょうかね」


「ふふん、変わらぬのう。“お母さま”がお主を気に入る訳じゃ」



*****



「ありがとうございます。今宵こよいも素晴らしい音色でしたわ」


 男の笛の音が終わると、女は手を叩きながらそう称賛した。

 その目は潤み、表情もうっとりと上気している。


 女は最近、満ち足りた気持ちで過ごせていた。

 生活ままならぬ民草に施しをした時の人々の笑顔を見る事、そしてこの男の笛を聞く事。

 それが彼女の胸を暖かく満たしてくれるのだ。


 女は昔よりも頻繁に外出するようになった。

 隠れて身分を偽り屋敷を出るだけではない。

 やんごとない身分の者としてでも外に出て、飽きる事なくいつまでも民草の笑顔を眺めていた。


 また女は足しげく、身分を偽りながら男の元へ笛を聴きに訪れる。

 それは笛を聞く為だけが理由ではない事に、いまだ女は気が付いていない。

 そして今宵もまた九尾の狐の化身たる女は、己の気持ちに気が付かぬまま男に別れを告げる。


「それではそろそろおいとまいたします。また来ますわ、愛しの貴方」


「いつか夢がかなうならば、貴女の顔を見たいものです。さようなら、愛しの姫君」


 そうして、いつものように男の元から帰路につく女。

 だが今日はしばらく離れたころ、笛吹き男の方から複数人の気配を感じた。

 遠く男の居た場所からささやくような声が女の耳に届く。

 それは人間だったならば、決して聞こえはしなかっただろう。

 だが女は、そんな獣の聴力を持つ人外の化生たる我が身の能力に感謝する余裕も無く、急いで男の元へ戻る。

 もちろん、気配を絶つことは忘れなかった。


──今夜は随分と早いお出ましだ。


──いい加減に強がりは止めろ。お前のようななど、その気になれば何時いつでも始末できるのだぞ。


──そのめくらの力を借りねば祖国復興の夢が果たせぬ、と申しているのはどなたか。


──ちっ。キサマが王家の血を引いているのでなければ……。


──くだらないですね。下賤な暮らしをしている私を馬鹿にするくせに、血筋で人間の価値を決める矛盾の愚かしさ。


──愚か者はそちらだ! 己が身体に流れる血の価値に気付かぬ節穴ふしあなが!!


──漢祖劉邦は元々しがない地方の役人であったといいますがね。そして盲人たる私の目が節穴なのは当たり前でしょう。


 その時、笛吹き男とそして言い争っていた男とは違う他の人間が割って入る。

 その声音は、只でさえ剣呑な彼らの雰囲気を更に危険なものに変えるものだった。


──御屋形おやかた様、もう良いではないですか。その男の望み通り、もう切り捨てて……いや斬り捨ててやりましょう。


──そうだな、もう「あの方」の助力も得られたのだからコイツ無しでももう大丈夫か。


 その言葉と同時に、笛吹き男と対峙している者たちは殺気をみなぎらせる。

 彼らのその態度に身を固くする男。

 だが笛吹き男が、目が見えないとは思わせぬ身のこなしが出来るといっても、所詮は目が見える者との差は如何いかんともし難い。

 それに加えて多勢に無勢。結果は火を見るより明らかだった。

 明らかなはずだった。



 女は着物を脱ぎ棄てると、久方ひさかたぶりに元の姿に戻る。

 人の大きさのままに狐の姿。体の後ろに生える九本の尾。黄金こがね色に輝く体毛は月光を弾く。

 見よ、それはまさしく九尾の狐。

 人心を惑わすうるわしき人外の妖怪あやかしが、人知れずその姿を現した。


 女は、九尾の狐は、音も無く笛吹き男を取り囲む人間の後ろに回り込む。

 そして刃物を手に持ち、今にも襲い掛からんとしていた彼らに背後から襲い掛かった。

 不意を打たれた彼らには、彼女に対して成す術など存在しない。

 男の鼻に、濃い血の匂いが叫び声と共に届けられた。



 月の光に照らされた、廃屋敷の庭。

 巨大で美しい、尻尾が九つ生えた狐が口元を血にあかく染めて立ち尽くす。

 男を見つめるは悲しげな瞳。

 今ほど、この男の目が見えないことに感謝したことは無かった。


 遥かな時間を生きてきて、人間を食い殺す姿を見られ恐れられる事など何とも思わなかった。

 むしろ誇りにすら思っていた。

 ……なのに。

 何故か、この男にだけは今の姿を見られたくは無かった。


──こうなってしまった以上、もうこの男の元へ笛を聴きに来ることは叶わない。


 そう女の脳裏に浮かぶ想い。

 やがてすぐに後ろを向いて、その場を離れようとする。

 だがその背後から男の声が追いかけてきた。


「愛しの姫君よ。やんごとない身分の君よ。私を助けてくれたのに、何故そんな悲しげに私の元から去ろうというのか」


 女の足が止まった。

 だめだ、いけない。一刻も早くこの場から立ち去らねばならないのに。

 本当ならこの男も殺さなければいけない。自分の正体を知っているのだから。

 でも殺したくない。だからこのまま立ち去らなければいけないのに。


「彼らが死んだ今なら、私は亡国の王家の血を引く者でない只の下賤でめくらの笛吹きだ」


 振り向いてはいけない。決して。

 だが彼女は振り向いてしまう。 

 男は、いつも座っている石仏の首の上に立ち、まっすぐ彼女を見つめていた。

 何も光を映さぬはずの、めしいた瞳を彼女に向けて。


「だけど渡来の民は他にも多い。ここで死んだ彼らのように、よこしまな希望を持つ者が現れないとも限らない」


 女は、九尾の狐は、男の見えない瞳から目が離せなくなった。


「愛しの君よ。笛を吹くしか能の無い私の頼みを聞いてくれないか?」


 だめだ、私は振り向いてしまった。

 もう私はこの男の頼みを断れない。


「どこか遠くへ、人目の付かないところへ、私を連れ去ってくれないか」


 彼女の体の向きが再び変わる。

 もう一度男と相対し、男の元へ身体を寄せる。

 そして首を垂れる。


「できれば、君といつまでも共に暮らしたい」


 もはや彼女には、答える言葉はひとつしか残されていなかった。




「もちろん喜んで、愛しの貴方。こんな人ならざる私でよろしければ」




*****



 それは天皇みかど身罷みまかられ、その嫡子も続いてこの世を去った時期のこと。

 世の人は、それを大宰府に左遷された男の祟りだと噂し合っていた。

 もう都の中を巨大な狐が走り抜けた話でもちきりだった時の事など、誰一人として覚えてはいない。

 そんな都を遠く離れた森の中、狐の女と笛吹き男はひっそりと暮らしていた。



 女が森の中へ木の実を取りに行ったり狩りをしたり。男が家の中の用事を行い。

 通常なら逆の役割だったろうが、男の目が見えないのだから仕方がない。

 そして女もそんな暮らしに何一つ不満は無かった。


 かつて人間だった頃には、あんなにも嫌だった他人のための労働。

 それが自分の大切な人のためだと、こんなにも変わるものなのか。

 女が自分のあやかしの能力で結界を張り、男が毎夜に祓魔の旋律でその中を満たす。

 そうすることで誰にも見つからずに暮らせていた。


 女が採ってきたものを男が調理する。

 彼女が食べてきた、凝った宮廷料理などとは比べるのも烏滸おこがましいような簡素な料理。

 だが彼女には、不思議と今までで一番おいしく感じられた。

 そして寝る前に、火を挟んでお互い座ると男が笛をひと吹き。

 女はいつも笛を聴きながら思う。

 ただ生きていくことが、こんなにも苦しく楽しいものだとは。


 誰かを守るという、彼女にとって生まれて初めての行為。

 人間の笑顔の理由がようやく理解できた気がした。

 だが初めてだからこそ。

 彼女は己の結界が、同族の力の前には無力だという事を知らなかった。




 彼女が気が付いた時には、もう奴等は男が居る小屋を取り囲んでいた。

 女は森の中で木の実を採っていたが、異変に気付いたと同時に男の元へ駆ける。

 九尾の狐に姿を戻して、力の限り。間に合うのならば、足などもげよと思いながら必死に。


 狐の姿ならば、そして何事もなければ、小屋まではあっという間に辿り着ける。

 しかし今はその時間すらも惜しかった。

 なぜ自分には、この距離を一瞬で飛び越える“ちから”が無いのだろう。

 そして彼女の耳に、男と彼等の声だけが届く。

 それがなお一層彼女の焦りを積もらせる。


──お前たち、その気配は!?


──ふふふ。「あの方」の力を、「玉藻前たまものまえ」様の力を頂いたこの姿に驚いたようだな。


──そのような醜い気配に身をとしてまで、己の欲望に固執するとは愚かな。


──ははは! 我等はこの力で人間を超えた!! 民を導くのは優れた存在でなくてはな!!


──祖国を復興して、渡来の民を安んじるという建前を言う事すら止めたか!


──貴様とて同じ魔物に魅入られた人間ではないか、綺麗ごとを抜かすな!


──人間をやめた魔物が何を言うか、片腹痛い!!


──もう黙れ! 「玉藻前」様を裏切ったあの女への見せしめに死んでもらう!


 その言葉と共に女の耳に届く、肉に刃物が突き立つ音。

 誰かがどさりと倒れる音。

 そして……不届き者達があげる、激しい息づかいの音。


 彼女が小屋に辿り着いた時には既に事が終わっていた。

 血を流しながら床に倒れ伏す笛吹き男と、それを見下ろす黒い影の群れ。

 その影が、彼女が小屋に駆け付けた音に振り返る。


 その影は、もう人間の顔をしていなかった。

 獣毛が生え、鼻が長く突き出た獣じみた顔。

 だが獣にすら成り切れていない顔。

 中途半端な決意や欲望しか持たない、眷属となった人間がよくこんな姿になっていた。

 妖怪あやかしにすら届かない愚かな存在。


 しかし倒れた男の姿に、頭の中が真っ赤に染まった彼女にはそんな事はどうでもよかった。

 たちまち彼らに襲い掛かる女。

 男を手にかけた愚か者達も彼女に立ち向かうが、彼女の歯牙にも届かない。

 あっという間に小屋の中は、女以外に立っている者はいなくなった。


「あらあら。私にいつも偉そうに能書きを垂れていた貴女がねえ。色恋に頭がのぼせて雲隠れとは驚きだわ」


 狐の姿の彼女に、背後からそう声が掛けられる。

 聞き覚えがある声だ。話し方はこんな伝法な口調では無かったが。

 振り向くと予想通り、見覚えはあるが獣じみた顔の女の人影。


 あの取り潰された元貴族の侍女。

 女が見抜いていた通り、中途半端な覚悟で“ちから”を受けて獣になり切れない姿になっていた。

 侍女は醜く顔を歪めて笑うと彼女に言い放つ。


「あなたが突然に姿を消したから、こちらはあれから大変だったのよ。でもざまあ無いわね。その熱をあげてた男を殺されて、本当いい気味──」


 侍女が最後まで言い切る前に、女は後ろ足で思い切り侍女の頭を蹴り飛ばした。

 蹴った頭は、まりのようにちぎれて飛んで行った。


「次からは、勝ち誇るのはとどめを刺してからにしなさい。もう貴女に次は無いけどね」


 女はそう言ったあと、人間の姿に戻る。

 死体の山の中から笛吹き男の身体を見つける。

 血を流して倒れている男の姿に、ようやく襲い来る喪失感。


 この男を失った今、もう自分は死んでしまいたい。そんな考えが頭によぎる。

 今までそんなものなど、考えたことすら無かったというのに。

 そして彼女はついに理解する。

 絶望とはこれなのだと。


 


 彼女の頬に熱いものが流れ落ちる。

 今までの行いが、後悔と共に思い起こされる。

 女は、身も世もなく大声をあげて泣き叫んだ。





 かすかなうめき声。

 はっとなった女は倒れる男を見やる。

 わずかに上下する胸。

 慌てて女はひざまずくと、男の身体を抱きかかえる。


──まだ生きている。


 だが男の身体から流れ落ちる血が、刻一刻こくいっこくと男の命を削っている。

 どんどんと体温が消えゆく男を抱きしめながら、女は途方に暮れた。

 どうやったらこのひとを助けられるのか。


 呆然としながら、血臭ただよう小屋の中を見渡す。

 “お母さま”の力を受けた矮小な者どもの死体を眺めていた女の頭に、何かがひらめく。

 だが──。


 しかし逡巡しゅんじゅんしたのは数瞬。

 彼女は自分の手首を噛み切った。

 たとえこの死んだ者どもと同じ存在になったとしても、このひとには死んでほしくなかったから。



*****



 男は目覚めると、自分の眼に強烈な何かを感じた。

 それが光だと理解するまでには、随分と時間がかかる。

 なにしろ生まれて初めての経験だったからだ。


 男が“見る”という行為にようやく慣れると、目の前に何かが映っているのに気が付く。

 初めて“見た”というのに、男はそれを美しいと感じた。

 「それ」が動いて音を発する。

 聞き覚えのある女の声だった。


「ああよかった、助かったのね。ごめんなさい貴方。私は今までなんという事を」


 男は手を伸ばして女の顔に触れる。

 そして絞り出すように声を出した。


「これが、貴女の顔……美しい」


 その言葉に驚き、男を見つめる狐の女。


「目が見えるようになったのですか!?」


「ああ、そのようだ……。ようやく夢が叶ったよ」


 女の血を男に分け与えて彼女の眷属にする。

 あやかしの力で傷が治るかもしれない、という女の賭けは勝利に終わった。

 その上にめしいた目まで見えるようになったとは。

 彼女は男を強く抱きしめると、男の耳元で囁くように言った。


「良かった……」


 そして続けて男の口へ唇を重ねる。

 口移しに眠りの術を男にかけた。

 微睡まどろむ男に優しく語りかける。


「今は傷をいやすためにゆっくりお眠りください」


「ああそうだな……ありがとう……」


 目を閉じるとすぐに寝息をたて始める男。

 女は眠る男の身体を抱き上げると小屋を出る。

 森に入ると、とある樹のに男を入れた。

 最後に男の顔を彼女もそっと撫でる。

 そのまま、男に聞こえないと知りつつも話しかけた。


「ごめんなさい貴方。私は、昔日せきじつに行い続けたあやまちを償いに行きます」


 その言葉を最後に彼女は立ち上がる。

 再び黄金色に輝く九尾の狐に戻ると、どこかへ向けて駆けだした。



*****



「待て。下劣な妖怪あやかしよ。この森に立ち入ることは許さん」


 大妖「玉藻前」が封印された地。妖怪あやかしの森。

 九尾の狐たる女の前に立ち塞がるは、鼻が高く、背に翼の生えた赤ら顔の天狗。

 その天狗が恐ろしげな顔でにらみつけてくるのを、意にも介さず女は言い放つ。


「許さなくても私は通るわよ。私は“お母さま”を……「玉藻前」を倒さなければならないの」


「なんと! 貴様のような者が、いったい何が起こればそのような言葉を吐けるようになるのか!?」


「生まれて初めて自分よりも大切な人が出来て、ようやく自らの過ちに気付けたわ。気付けたからには、過ちは正さなければ」


 驚き顔で女を、いや、九尾の狐の言葉を聞いていた天狗。

 だが腕を組むと彼女に言った。


「ふむ……。そういう事ならば、わしも加勢しよう」


「ありがたいけれど、結構よ。“お母さま”の元へは眷族しか行けないもの。だからこそ貴方ともう一柱の蛇も、結界を張ってこうして見張っているしか出来ないのではなくて?」


「む……」


「でも加勢をしてくれるというのなら、そうね……。きっと“お母さま”は、私と同じ九尾の狐こども達を全てこの森に呼び寄せるわ。そいつ等を森の中へ入れないで欲しいの。出来るならば討伐も」


「舐めるな。奴等に遅れをとる儂ではない」


「そ、じゃあ任せるわ。蛇もそれで構わないわよね?」


「……お前たちの指図に従うのは業腹ごうはらだが、いたし方あるまい」


 森の奥から、青銅の鐘を鳴らしたような声が聞こえてきた。

 この森の周囲全てをその身体で取り囲み、何者をも出入りさせぬ強固な結界を張ってる大蛇おろち

 この二柱の存在の目が光っているゆえに、今までは自由に“お母さま”の元へ帰れず、例のせむしの老婆が連絡役になっていた。

 しかし今回は彼らの目を気にせずに真正面から入ることが出来る。

 九尾の狐たる女は、大蛇がわずかに開けてくれた結界の隙間から森の中に入っていった。





 瘴気しょうき渦巻く森の中心部。

 禍々まがまがしい気配をき散らす大きな岩。殺生石と呼ばれる岩。

 普通の人間ならば、その濃い瘴気に即死するほどだろう。

 その上に立つおおきな女の姿。思わず畏怖を感じるような雰囲気をかもし出している。

 その後ろに隠れるようにしている、せむしの老婆。

 どうやら彼女がここへ来た目的が、叛意はんいからだという事はすでに伝わっているようだ。


 森の木々のあちこちから、九尾の狐こども達が何匹も顔を覗かせている。

 彼女への敵意もき出しに。

 岩の上に立つ女は、やってきた九尾の狐たる女へ怒りもあらわに叫ぶ。


「おのれ、きさま今まで散々目をかけてきてやったのに恩を仇で返しおって! 裏切る気か!」


 しかし九尾の狐たる女は、平然と返す。


「裏切りなんてしないわ。私は最初から貴方の味方じゃないもの」


「何!?」


「私はあなたの“ちから”が欲しかっただけ。それに恩を仇で返して人間の恨みを集めるのが私達でしょう?」


 玉藻前の“こども”だった女は、はっきりと侮蔑ぶべつの表情で言った。


「他の者へ、裏切りとはかりごとおとしいれを散々やってきたのに。自分だけにはそれは無いと思い込むなんて、なんておめでたい考えをしているのかしら。そんな御様子では、そろそろ身を引くお年頃だと思いますわ“お母さま”!?」


「この女狐めがあぁぁ!!」


 その言葉を最後に、玉藻前の殺意が爆発する。

 女も九尾の狐の姿に戻り、岩の上の玉藻前に躊躇ちゅうちょなく襲い掛かった。



 森は、それから幾日も震え続けたと人は口々に伝えたという。



*****



「おぬし、そこで一体何をしておる?」


「……待っています」


「ほう? わしには笛を吹いとるようにしか見えぬが。して、笛を吹きながら一体何を待っておるのじゃ?」


 声をかけてきたのは、鼻が高く、背に翼の生えた赤ら顔の天狗。

 森の奥から、滑るように歩いてきたかと思うと、男が気付いたときには、もう目の前にいた。

 今は夜。男がたいているとう色の焚火たきびの光に照らされて、山伏姿の天狗の形相は一層恐ろしげだった。

 だが、天狗におびえた様子もなく、男は答える。


「九尾の狐」


「この森の九尾狐は、もうすでに絶えて久しいぞ?」




 あれから数年。

 笛吹き男は、彼の伴侶を探して旅を続けていた。

 何故か、進むべき方向は分かっていた。

 体の奥底のが教えてくれていたからだ。

 彼女の故郷が何処にあるのかを。


 ようやく辿り着いた。

 うまく説明できないが、確信があった。

 彼女がいるなら、ここだと。

 だけれども、もう一つの確信もあった。

 もし生きていたとしても、ただ森の中を探すだけでは彼女は隠れて出てこないだろうと。

 きっと彼女は、過去の所業を悔い続けているだろうから。




 だから男は待つことにした。

 笛を吹きながら。


 初めて彼女と出会ったあの日の夜のように。

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めぎつね きさまる @kisamaru03

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